第十一話 木の花嫁
四。木の花嫁、咲。
山鳴りの年、山へ上がる。
咲は下りず。神木となりて、いまも御名山に在り。
咲は幸せであつた。
*
四日目の朝、わたしは訊いた。
「咲さまのことを、伺ってもいいですか」
柱は、答えなかった。昼は答えないのだと、もうわかっている。
わたしは戸を開けようとして、それから、もう一度だけ振り返った。
「あの方は、いまも、あそこにおられるんですか」
少し間があった。
それから、はじめて、昼に声がした。
「……聞けばよい」
わたしは、動けなくなった。
「聞ける、というのは」
「まだ、いる」
それきりだった。
わたしは、袂に手を入れた。
黄楊の櫛が、そこにあった。
*
参道を下りた。
四日ぶりの下り道だった。上ってきたときは夕方で、白い着物で、何も知らなかった。
半町で、御神木の前に出た。
朝の光が、枝のあいだから落ちていた。
わたしは幹の前に立って、掌を当てた。
温かい。
「咲さま」
わたしは、四日前と同じことを言った。
四日前は、風が枝を鳴らしただけだった。
今度は、違った。
「あらまあ」
わたしは、手を離した。
声は、上から来た。頭のずっと上、枝のあたりから、女の声がした。
年寄りの声だった。柔らかくて、少し高くて、笑いを含んでいる。
「あんた、日の子だね」
「……はい」
「そう。そうかい。日ねえ」
枝が、揺れた。風はなかった。
「上手におつけになるのよ、村の人は」
わたしは、その場に膝をついた。
膝が、勝手に折れた。
「咲さま。あの、わたし」
「あわてなさんな」
声が、笑った。
「三十年ぶりだからねえ。ゆっくりおし」
*
咲さまは、よく喋る人だった。
わたしは、それが意外だった。三十年立ち続けている人は、もっと恐ろしいものだと思っていた。
「あんたの前の子はね、なんにも言わないの」
「姉です」
「あら、姉さんかい。似ておいでだこと」
枝が揺れた。
「半年ね。半年いて、いっぺんも喋らないの。あたしはここから見てるだけだから、何があるのかはわからないけどね」
わたしは、そこで気づいた。
この人は、過去のことを、今のことのように喋る。
「咲さま。姉は、三年前に下りました」
「そう。宮守さんが背負って下りるのよ。あの年で。かわいそうにねえ、腰を痛めるよ」
わたしは、口を閉じた。
訂正しても、意味がないのだと思った。
この人の中では、たぶん、全部が今なのだ。
*
「咲さま。伺いたいことがあります」
「なんだい」
「あの方は、なぜ、顔がないんですか」
枝が、鳴った。
風がないのに鳴る。この人が息を吸う音なのだと、わたしはそのとき思った。
「名がないからよ」
「はい」
「名がないとね、形が持てないの。人だって、名前がなけりゃ呼ばれないだろう。呼ばれないものは、そこにいないのと同じでしょう」
「はじめから、なかったんですか」
少し、間があった。
「ないのではないのよ」
声が、低くなった。
「なくなったの」
わたしは、幹に手をついた。
「誰が」
「知らないねえ。あのひとも知らないの。忘れたんじゃなくてね、なくなったから、覚えていられないのよ」
枝が揺れた。
「昔のことよ。あたしが来るよりも、ずっと」
わたしは、村を見下ろした。
御名山。御名の山。
名のない神の山を、村はそう呼んでいる。
*
「それでね」
咲さまは続けた。
「名がないから、呼ばれた名になるの」
わたしは、顔を上げた。
「呼ばれた」
「そうよ。月と呼べば、月におなりになる。火と呼べば、火におなりになる。あのひとは、断れないのよ。断る口がないんだから」
わたしは、息を吸った。
「では、花嫁の嫁名は」
「そう。それよ」
枝が、鳴った。
「村はね、花嫁に名をつけるでしょう。月の花嫁、火の花嫁って。あれはね、花嫁につけてるんじゃないの」
「あの方に、つけている」
「そうよ。花嫁を通してね」
わたしは、その場に座り込んだ。
六代。
村は六代にわたって、自分たちの神に、自分たちで名前をつけてきた。
欲しい神を、注文してきたのだ。
火が欲しければ、火の花嫁を送る。水が欲しければ、水の花嫁を送る。金が欲しければ??
「咲さま」
わたしは、震える声で訊いた。
「あの方は、いま、何を着ておられるんですか」
「三つよ」
あっさりと言った。
「三つ、ですか」
「木と、土と、金」
わたしは、指を折った。
木は、この人だ。
土は、姉だ。
金は。
「なぜ、その三つなんですか」
「呼んだ子が、生きてるからよ」
枝が、静かに揺れた。
「死んだ子の名は、抜けるの。多鶴さんの月も、しのさんの火も、芙美さんの水も、みんな抜けてる。生きてる子の名だけが、残るのよ」
わたしは、口を押さえた。
咲さまは、生きている。
姉は、生きている。
ときさんは、生きている。
三人ぶんの名を、あの人は、いま同時に着ている。
動けない木と、黙る土と、値のつく金を。
*
わたしは、袂に手を入れた。
櫛を出した。
掌に乗せて、幹のほうへ差し出した。
「咲さま。これ」
枝が、止まった。
「あら」
声が、変わった。
「それはね、わたしの櫛よ」
「はい」
「歯が三本欠けてるの。母が買ってくれるの。町の市でね。安いのよ、それ。ほんとに安いの」
わたしは、掌を見た。
三十年、この木の根元に埋まっていた櫛だ。
この人の母は、とうに亡くなっているはずだった。
「咲さま」
「なんだい」
「これ、持って上がられたんですね」
「そうよ」
声が、少し小さくなった。
「いけないのよ、ほんとはね。持っちゃいけないの。荷物は駄目だって、みんな言うでしょう」
「はい」
「でもねえ」
枝が、鳴った。
「髪を、梳きたいじゃない」
わたしは、掌の櫛を握った。
握って、そこでようやく泣いた。
三十年立っている人が、掟を破って持ってきたものが、これだ。
髪を梳きたい。
それだけだ。
*
「咲さま。ひとつだけ、伺わせてください」
わたしは、袖で顔を拭いてから言った。
「あなたは、なぜ、木になられたんですか」
長い間があった。
この人が黙るのは、はじめてだった。
「頼んだのよ」
「頼んだ」
「あたしがね。あのひとに」
枝が、ゆっくり揺れた。
「あたしも、花嫁帳を読むでしょう。七日かけてね。三人ぶん読むの。多鶴さんと、しのさんと、芙美さんと」
わたしは、幹に手をついた。
「芙美さんはね、連れて行かれるの。日の暮れに、村の男が四人で上がってきて、連れて行くの」
「はい」
「あたしはね、それが怖いのよ」
声が、はじめて、震えた。
「怖くて怖くて。だから、言うの。あのひとに」
枝が、鳴った。
「ここから離れたくない、って」
わたしは、目を閉じた。
「そうしたらね」
咲さまは、笑った。
「叶えてくださるの」
わたしは、幹に額をつけた。
樹皮が、頬に食い込んだ。
この人は、連れて行かれるのが怖かった。だから離れたくないと言った。
そして、彼は、断れなかった。
断る口がないのだから。
村は咲さまを木の花嫁と呼んだ。
木の神に嫁いだ娘、という意味だと思っていた。
違う。
木になったのは、この人のほうだ。
三十年、同じ場所に立って、動かないでいる。
自分で頼んだ通りに。
*
「咲さま」
わたしは、そこで訊いてしまった。
「幸せですか」
枝が、止まった。
止まって、しばらく動かなかった。
それから、こう言った。
「幸せよ」
迷いのない声だった。
迷いがなさすぎた。
「毎日ね、あのひとが見えるの。あの社が、ここから見えるのよ。三十年、ずっと見てるの」
枝が揺れた。
「幸せよ」
二度言った。
わたしは、そこで、常吉さんを思い出した。
日が当たっとるからだ、と、二度言った人だ。
この村の人は、みんな、本当のことを一度しか言わない。
二度言うのは、そうでないときだ。
わたしは、何も言えなかった。
*
帰りぎわに、咲さまが言った。
「日の子」
「はい」
「あんたは、まだ動けるねえ」
わたしは、足を止めた。
「はい」
「なら、動けるうちにお決めなさい」
枝が、鳴った。
「あたしはね、決めてから、動けなくなったんじゃないの」
声が、優しかった。
「動けなくなってから、あれは決めたことだったと思うことにしたのよ」
わたしは、振り返った。
「咲さま」
答えはなかった。
風が、枝を鳴らした。
それが風なのか、この人なのか、わたしにはもうわからなかった。
櫛は、根元に戻した。
置いてくるほうが、いい気がした。
山が鳴った。
わたしは、まだ、なにも呼んでいない。




