第十三話 土の花嫁
六。
(白紙)
*
六日目の朝、ときさんは山を下りた。
「連れてくる」
それだけ言って、風呂敷を置いていった。
わたしは社の前に立って、その背中が木のあいだに消えるまで見ていた。
姉が、来る。
三年ぶりに、あの道を上ってくる。
*
昼のあいだ、わたしは柱に手を当てていた。
「あの」
答えはなかった。
「今日は、土の花嫁のことを伺います」
答えはなかった。
「姉のことです」
軋む音がした。
昼に、はじめてだった。
「あれは」
声が、した。
「あれは、なにも言わなかった」
わたしは、掌に力を入れた。
「半年、ですか」
「半年」
「ひとことも」
「ひとことも」
わたしは、板の間に膝をついた。
「あなたは、何をしていたんですか」
長い間があった。
「……となりに、いた」
わたしは、顔を上げた。
「それだけですか」
「それだけだ」
声が、少しだけ、揺れた。
「なにも、頼まなかった」
わたしは、そこで動けなくなった。
「頼まなかった、というのは」
「望めば、かたちになる」
わたしは、息を吸った。
「あなたは、望まないようにしていたんですか」
「……そうだ」
わたしは、掌を柱から離した。
この人は、五人を通り過ぎてきた。月になり、火になり、水になり、木になった。そのたびに、誰かが死ぬか、動けなくなった。
六人目が来たとき、この人は何も望まないことにした。
姉も、何も言わないことにした。
二人とも、同じことをしたのだ。
半年、並んで座って、二人とも、何もしなかった。
わたしは、そこで気づいた。
それでも、姉は土の花嫁と呼ばれている。
この人は、いま、土を着ている。
何もしなかったのに、形はついた。
*
わたしは、外に出た。
社の前の石に座って、村を見下ろした。
考えていた。
嫁名は、村がつける。咲さまはそう言った。花嫁につけているのではなく、あの方につけている。村が、欲しいものを注文している。
三年前、村は何を注文したのか。
わたしは、指を折った。
三年前も、山が鳴っていた。
鳴っている山に、村が欲しかったものは。
わたしは、立ち上がった。
土だ。
動かないもの。鳴らないもの。踏んでも黙っているもの。
村は、静かな神が欲しかったのだ。
だから土の花嫁と名をつけて、姉を送った。
姉が上がる前から、注文は済んでいた。
わたしは、その場に座り直した。
姉は、何も言わなかった。
言わなかったから、注文がそのまま残った。
消さなかったのだ。
*
日が傾いてから、足音が二つ、上ってきた。
わたしは道の途中まで下りて、待った。
ときさんが先を歩いて、そのうしろに、姉がいた。
三年ぶりに見る姉の、外にいる姿だった。
草履を履いていた。父がすげ替えたものだ。
姉は、わたしを見た。
立ち止まって、しばらく見ていた。
それから、手を伸ばした。
わたしの頬に、触れた。
わたしは、そこで泣いた。
三年だ。三年、この人はわたしに触れなかった。桐の箱には触れた。わたしには触れなかった。
姉の指は、冷たかった。
冷たくて、震えていた。
*
中に入ると、姉は板の間の真ん中で立ち止まった。
暗いところのほうを見た。
長く見ていた。
軋む音がした。
姉は、頭を下げた。
深く、長く下げた。
それから、板の間に座った。暗いところから、ちょうど手の届かないところだった。
ときさんが、荷を解いた。
硯と、筆と、紙が出てきた。
「用意してきた」
ときさんは、それを姉の前に置いた。
「末ちゃん。あんた、書きな」
姉は、動かなかった。
「三年だよ」
姉は、動かなかった。
「妹が、あした決めるんだ」
姉の肩が、動いた。
「あんたが黙ってて、それで済むのは、あんただけだ」
ときさんの声は、大きくなかった。
「あたしはね、末ちゃん。あんたが書かないほうがいいと思ってた。三年、そう思ってた」
ときさんは、そこで一度、息を吸った。
「けど、水が減ってるんだろ」
姉は、筆を見た。
長く見て、それから、手を伸ばした。
*
姉は、墨を磨った。
慣れた手つきだった。三日前、家で見たときと同じだ。この人はいつでも書けた。
穂先が、紙に下りた。
止まった。
わたしは、息を止めていた。
姉は、書いた。
わたしは、それを覗き込んだ。
十五文字あった。
わたしがあのひとを土にした
わたしは、紙を見つめた。
わたし。
三年ぶりに、姉が主語を書いた。
この人は、三年、書かなかった。書くときは、いつも七文字に足りなかった。なをよぶな。みずがへる。いきてる。
どれにも、自分がいなかった。
いま、いる。
「姉さん」
わたしは、声が震えた。
「違います。姉さんは、何も言わなかった。何もしていない」
姉は、筆を持ち直した。
書き足した。
いわなかったから
わたしは、そこで、言葉を失った。
「……姉さん」
姉は、また書いた。
むらのなまえが のこった
わたしは、板の間に手をついた。
わたしが昼に考えたことと、同じだった。
姉は、三年前から知っていたのだ。
黙ることは、消すことではない。
黙れば、村のつけた名がそのまま残る。
姉が半年、口を閉じているあいだ、この人は、村の注文どおりの土でありつづけた。
姉は、それを、自分がやったと書いた。
*
わたしは、袂から何も出さなかった。
かわりに、こう訊いた。
「姉さん。帳面の姉さんの頁、白紙でした」
姉が、顔を上げた。
「糸が新しかった。結び目が二つありました。誰かが、姉さんの書いた一行を抜いています」
姉は、しばらくわたしを見ていた。
それから、筆を取った。
わたしがぬいた
わたしは、目を閉じた。
村ではなかった。
この人だ。
三年前、山から下りて、宮守の家へ行って、自分の頁を抜いた。糸をほどいて、白い紙を入れて、結び直した。
喋らない娘が、それだけをした。
「姉さん」
わたしは、目を開けた。
「何を書いていたんですか」
姉は、筆を置いた。
置いて、両手を膝に乗せた。
長いあいだ、動かなかった。
ときさんが、何か言いかけて、やめた。
やがて、姉はもう一度、筆を取った。
書いた。
わたくしは、問ひませぬ
わたしは、その一行を見た。
見て、それから、両手で口を押さえた。
いちばん正しい一行だった。
六日かけて六人ぶんを読めば、誰でもわかる。問わないこと。逆らわないこと。留まること。それを書けば、村は満足する。
多鶴さまが、そうだった。ひとことも問はず。よき花嫁なりき。
姉は、いちばんよい花嫁の答えを書いた。
十七の娘が、六日かけて、正解を書いた。
そして、山へ上がって、それが何をしたのかを知った。
だから、下りてきて、抜いた。
わたしは、姉を見た。
「姉さん。それで、三年」
姉は、目を伏せた。
*
「姉さん」
わたしは、そこで言った。
「わたしは、なをききます、と書きました」
姉の指が、動いた。
筆を取って、書いた。
しつてる
わたしは、うなずいた。
「あの朝、姉さんは止めませんでした」
姉は、書いた。
とめられなかつた
わたしは、膝を進めた。
「なぜですか」
姉は、長いあいだ動かなかった。
それから、書いた。
わたくしと ぎやくだから
わたしは、その七文字を見た。
問ひませぬ。
なをききます。
姉妹で、真逆のことを書いた。
姉は、筆を置いた。
置いてから、もう一度取った。
そして、この夜でいちばん長いものを書いた。
でも きけば かたちになる
わたしは、動けなくなった。
姉は、わたしを見ていた。
三年ぶりに、まっすぐ見ていた。
その目が、言っていた。
問わなければ、村の名が残る。
問えば、あなたの名がつく。
どちらでも、あの人は形になる。
どちらでも、誰かが死ぬ。
「姉さん」
わたしは、何か言おうとした。
言葉が、出なかった。
姉は、待っていた。
わたしが答えるのを、待っていた。
三年黙っていた人が、今夜だけ喋って、妹に問いを渡して、待っていた。
わたしは、答えられなかった。
*
夜が更けて、ときさんと姉は板の間で寝た。
わたしは、眠れなかった。
起きて、暗いところの前に座った。
「あの」
答えはなかった。
「姉は、悪くありません」
答えはなかった。
「姉は、あなたを土にしたと書きました。でも、名をつけたのは村です」
軋む音がした。
「あなたは、どう思われますか」
長い、長い間があった。
それから、声がした。
「……あれは」
声が、掠れた。
「あれは、半年、となりに、いた」
わたしは、目を閉じた。
「なにも言わずに、いた」
風が、板戸を鳴らした。
「わるいものでは、なかった」
わたしは、その言葉を聞いた。
この人は、名の話をしていない。
誰が悪いかも言っていない。
ただ、半年、隣に人がいたことを言っている。
村は、姉を土の花嫁と呼んだ。
土の神に嫁いだ娘、という意味だと思っていた。
違う。
土だったのは、姉のほうだ。
何も言わず、動かず、踏まれたまま、そこにあって。
そして三年、水を見ている。
山が鳴った。
わたしは、まだ、なにも呼んでいない。




