第十四話 日の花嫁
七。日の花嫁、あさ。
わたくしは、なをききます。
*
七日目の夜が明ける前に、わたしは起きていた。
というより、眠らなかった。
ときさんと姉は、板の間の隅で寝ていた。姉の寝息は、静かだった。
わたしは、暗いところの前に座って、姉の書いた一行を思い出していた。
でも きけば かたちになる。
答えが出ていなかった。
問わなければ、村の名が残る。姉のときと同じだ。問えば、わたしの名がつく。咲さまと同じだ。
どちらへ行っても、この人は誰かの言葉で作られる。
わたしは、六日かけて六人ぶんを見てきた。
六人とも、受け取るか、拒むかだった。
誰も、渡していない。
*
外で、足音がした。
まだ暗かった。わたしは戸を開けた。
宮守様が、立っていた。
杖に両手をかけて、体を預けるようにして立っていた。息が、ひゅうひゅう鳴っていた。八十を越えた人が、夜通し上ってきたのだ。
「宮守様」
わたしは駆け寄って、腕を取った。
今度は、避けられなかった。
石に座らせると、宮守様はしばらく何も言えなかった。やがて、袂から手拭いを出して、口を押さえた。
「あさ」
「はい」
「下りなさい」
わたしは、答えなかった。
「今日、下りなさい。わしが背負う」
わたしは、宮守様の手拭いを見ていた。白かった。
「宮守様。ひとつだけ、教えてください」
わたしは、そこで訊いた。
七日目の朝に、これを訊くと決めていた。
「あの方の名を焼いたのは、誰ですか」
宮守様の手が、止まった。
止まって、それから、ゆっくり下りた。
空が、少しだけ白んでいた。
「わしの家です」
わたしは、その場に膝をついた。
「何代前かも、わかりません。焼いたという書き付けだけが残っております。名は書いてない。焼いたとだけ」
宮守様の声は、乾いていた。
「なぜですか」
「名があると、そう呼ぶしかないからです」
わたしは、目を閉じた。
「名がなければ、なんとでも呼べる。月とも、火とも、水とも」
宮守様は、杖の頭を握った。
「六代のあいだ、村は欲しいものを注文してまいりました。それができるようにしたのが、わしの家です」
わたしは、動けなかった。
「宮守様は、それを、いつからご存じだったんですか」
「十五のときに、父から聞きました」
六十五年だ。
「わしは、探しました」
声が、震えた。
「六十年、探しました。古い社の下も掘りました。町の古書肆も回りました。あの人の名が、どこかに一字でも残っていやしないかと」
宮守様は、そこで、はじめてわたしの顔を見た。
「なかった」
わたしは、その目を見返した。
「焼いたものは、なくなるのです。あさ。元には戻らんのです」
わたしは、そこで、わかった。
この人は、わたしを止めに来たのではない。
最後の道が塞がっていることを、教えに来たのだ。
*
ときさんと姉が、起きてきた。
ときさんは、宮守様を見て、鼻から息を吐いた。
「よく上ってきたね、爺さん」
「とき」
「十五年ぶりだね」
ときさんは、それだけ言って、荷を担いだ。
「あさちゃん。あたしらは下りる」
「どちらへ」
「堰だよ」
ときさんは、鉈を出して見せた。
「壊す」
わたしは、立ち上がった。
「村の人が」
「来るだろうね」
ときさんは、笑った。
「来たら、話すさ。あたしは話すのが商売だ」
姉が、その横に立った。
姉は、わたしを見た。
それから、地面に、指で字を書いた。
みずをあげる
わたしは、その五文字を見た。
沼の水を、戻す。
芙美さまを、上がらせない。
五十年、あの人が沈められたままでいられるように、水を戻す。
姉は、三年見てきた水を、今日、戻しに行く。
「姉さん」
姉は、わたしの頬に触れた。
二度目だった。
それから、下りていった。
ときさんが、途中で振り返った。
「あさちゃん」
「はい」
「あんたが決めな。あたしらは口を出さない」
二つの背中が、木のあいだに消えた。
宮守様は、石に座ったまま、動かなかった。
「宮守様は」
「ここにおります」
宮守様は、村のほうを見た。
「六十年、下で待っておりました。もう、いいでしょう」
*
わたしは、社に入った。
中は暗かった。
柱のあたりの暗さは、まだそこにあった。
わたしは、板の間に座った。
「おはようございます」
答えはなかった。
わたしは、まっすぐそちらを向いた。
「七日目です」
軋む音がした。
「わたしは、なをききます、と書いてきました」
答えはなかった。
「宮守様には、名を訊く、という意味だと思われました。姉にも、そう思われました」
わたしは、膝の上で手を組んだ。
「わたしも、そのつもりでした」
板戸の隙間が、白くなりはじめていた。
「六日、ここにいて、六人のことを聞きました」
わたしは、息を吸った。
「多鶴さまは、優しくて、何も訊きませんでした。しのさまは、あなたを火から助けて、死にました。芙美さまは、村に言い続けて、沈められました。咲さまは、離れたくないと言って、三十年立っています。ときさんは、値をつけられなかったと言って泣きました。姉は、黙って、それでも自分がやったと書きました」
軋む音がした。
「六人とも、あなたから受け取るか、あなたに渡すまいとするかでした」
わたしは、そこで顔を上げた。
「誰も、あなたに渡していません」
暗いところが、止まった。
「あなたは、九十年、誰かに呼ばれたものになってきました。断る口がないから、断れなかった。望むと形になるから、望まないようにした」
わたしは、板に手をついた。
「あなたは、一度も、自分で決めたことがない」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
わたしは、そこで言った。
「わたしに、名をつけてください」
空気が、固まった。
*
「……できぬ」
声がした。
掠れていた。
「なぜですか」
「わたしには」
声が、止まった。
わたしは、その一言に気づかなかった。あとになって、何度も思い返すことになる。
「名がない。名のないものが、名をつけられるか」
「つけられます」
わたしは、膝を進めた。
「名をつけるのに、要るのは名じゃありません」
「なにが要る」
「見ることです」
軋む音がした。
「よく見て、この人はこういう人だと決めることです。村は、六代、それをしませんでした。欲しいものを言っただけです」
わたしは、暗いところに向かって、両手をついた。
「あなたが、わたしを見て、決めてください」
「……できぬ」
「なぜですか」
「まちがえる」
わたしは、そこで、はじめて笑った。
泣きながら笑った。
「まちがえたって、いいんです」
板戸の隙間が、黄色くなっていた。
「まちがえられるのは、決めた人だけです」
沈黙があった。
わたしは、待った。
六日待った。この人の間は、長い。
板戸の隙間から、光の筋が入った。
一本、板の間を横切った。
日が、昇った。
*
暗いところが、動いた。
軋む音が、した。
それから、木ではない音がした。
何かが、剥がれていく音だった。
土の匂いが薄くなって、冷たい硬さが引いて、軋みが遠くなった。
わたしは、動かずに、見ていた。
光の中に、輪郭ができた。
人が、立っていた。
顔のことは、書かない。
わたしは見たけれど、書かないでおく。あの朝のあの光の中でわたしが見たものは、わたしのものだからだ。
ただ、人が立っていた。
それだけ書いておく。
その人は、片方の手を、少し上げた。
自分の手を、見ていた。
自分の手を見るという動作を、この人はたぶん、はじめてした。
それから、わたしを見た。
見た。
長く、長く見た。
わたしは、動かずにいた。
やがて、その人は口を開いた。
「わたしは」
わたしは、息を止めた。
わたしは、と言った。
六日間、この人は一度も自分のことを言わなかった。主語がなかった。
「わたしは、おまえを、あさと呼ぶ」
わたしは、床に手をついた。
手をついたまま、しばらく顔を上げられなかった。
あさ。
わたしの名だった。
この人は、何も足さなかった。
何も変えなかった。もとからそこにあったものを、そのまま呼んだ。
「なぜ」
わたしは、やっと顔を上げた。
「なぜ、その名なんですか」
その人は、光の中で、少し首を傾けた。
「村は、おまえを日と呼んだ」
わたしは、うなずいた。
「日の中に、朝がある」
わたしは、口を押さえた。
「村は、日が欲しいと言った。わたしは、日を見なかった」
その人は、わたしを見た。
「おまえを見た」
わたしは、泣いた。
声を出して泣いた。
この村で、誰も声を出さなかった。母も、父も、姉も、宮守様も、みんな声を出さずに泣いた。
わたしは、出した。
*
わたしは、書いてきた一行を思い出していた。
わたくしは、なをききます。
名を訊く、と誰もが読んだ。
違った。
名を、聞く。
わたしが訊くのではない。
わたしが、受け取る。
六人は、あの人に名を与えた。わたしは、あの人から名をもらった。
はじめて、逆になった。
そして、わたしは、姉の五文字を守った。
なをよぶな。
わたしは、七日のあいだ、あの人を一度も何とも呼んでいない。
月とも、火とも、水とも、木とも、金とも、土とも、神とも呼ばなかった。
姉が、あの朝、止めなかった理由が、いまわかった。
姉は、わかっていたのだ。
わたしの一行が、姉の一行と真逆で、そして、姉の五文字とだけは、ぶつからないことを。
*
戸を開けると、宮守様が石に座っていた。
わたしを見て、それから、わたしの後ろを見た。
宮守様は、杖を落とした。
落として、石から滑り落ちるように、地面に膝をついた。
両手を土についた。
声が、出ていなかった。
六十年、この人は名を探してきた。
見つからなかった。
見つからないまま、この朝が来た。
「宮守様」
わたしは、その前にしゃがんだ。
「あの方の名は、まだありません」
宮守様は、地面を見たまま、うなずいた。
「けれど、わたしに名をくださいました」
宮守様の背中が、震えた。
「名のないものが、名をつけたのです」
わたしは、その背に手を置いた。
「宮守様。焼いたものは、戻りません。あなたの言うとおりでした」
わたしは、山を見上げた。
「でも、新しく作ることは、できるようです」
*
参道を下りて、御神木の前に立った。
わたしは、幹に掌を当てた。
温かい。
まだ温かい。
「咲さま」
枝が、揺れた。
「あらまあ」
わたしは、笑った。
「日の子。あんた、なにかしたね」
「はい」
「なんだい」
「名を、いただきました」
枝が、しばらく止まった。
それから、鳴った。
風ではなかった。
「そうかい」
声が、震えていた。
「そうかい。そう」
枝が、大きく揺れた。
「よかったねえ」
わたしは、幹に額をつけた。
三十年、この人は、あそこから社を見ていた。
毎日、見ていた。
「咲さま。わたし、動きます」
「そうしなさい」
「動けるうちに、決めました」
「そうかい」
声が、笑った。
「あたしはね、それが聞きたかったのよ」
*
下の沢のほうから、音がしていた。
斧の音だ。木を割る音がして、人の声がして、また斧の音がした。
ときさんの声が、遠くに聞こえた。何か言い返している。誰かが怒鳴っている。
わたしは、道を下りた。
まだ何も終わっていなかった。
村は堰を作り直すかもしれない。ときさんは十五年ぶんの悪口をもう一度言われるだろう。姉が明日また喋るかどうか、わたしは知らない。宮守の家がしたことは、消えない。
沼の水が戻るかどうかも、わからない。
わからないことばかりだった。
けれど、ひとつだけ、わかっていることがあった。
わたしは振り返って、山の上を見た。
あの人は、明日の朝も、わたしを見る。
見て、決める。
毎朝、決め直す。
日というのは、太陽のことだと思っていた。
違った。
一日のことだ。
山が鳴った。
わたしは、なにも呼ばなかった。
呼ばれたのは、わたしのほうだった。




