第二話 満点の答案では冷やせない
宮廷から最初に支給されたのは、赤インクでも銀貨でもなく、靴の泥を落とすためのへらだった。
東棟の入口で渡され、俺は階段脇にしゃがみ込んだ。西排水区の泥は粘りが強い。靴底の溝に詰まったものを掻き出すたび、黒い塊が石畳へ落ちる。その横を、磨かれた靴が次々と通り過ぎていった。
「これ、どこまで落とせば入れてもらえますか」
尋ねると、入口の係は俺の足元を覗き込んだ。
「歩いて落ちなければ結構です。床を張り替えたばかりですので。靴を買い替えていただく必要はありません」
俺が次の足の置き場を探していたせいか、最後の一言は気を遣ってくれたらしい。隣ではベルティーユ・ローヴェンも、外套の裾を片手で持ち上げて靴を拭いている。銀の鷲を襟につけていても、この入口では免除されないようだった。
彼女は先に拭き終えると、俺を待つ間に、水門から持ち帰った書類を補佐の書記へ渡した。現場で追加した管の長さ、試運転の記録、それから七日間の調査を依頼する契約書。半日前には不合格通知しか入っていなかった封筒が、いまは閉じなくなるほど膨らんでいる。
「大結界の計画も、ここで見るんですか」
束の底にあった黒い表紙を思い出して尋ねた。ベルティーユは書記へ何か言いかけたまま、俺に向き直った。
「内容を借りる手配はする。ただ、同じ承認印があるだけで、そこまで壊れているとは決められないわ。あの印は設備計画の受付で押すものだから、正常な図面にもついている」
「まず中身、ですね。冬の式典なら、まだ時間はありますか」
「本番まではある。でも部材を揃えるのも、術者が練習するのも、その前よ。そちらの開始日も調べさせる」
彼女の声は、水門で聞いたときより少し低かった。疲れているのだろう。俺も立ち上がった拍子に膝の裏が突っ張った。朝から何度しゃがんだのか、数える気にもならない。
それでも入口を抜けると、足の重さをしばらく忘れた。窓が高い。廊下が広い。何より壁際に積んだ薪が乾いている。家でこれだけ乾かそうとしたら、棚を二つ増やさなければならない。
見上げながら歩いていた俺は、書記が止まったのに気づくのが遅れ、彼の抱える図面へぶつかりかけた。
「あまり見物の時間を取れず、すみません。こちらへどうぞ」
「いえ。薪が羨ましくて」
書記は壁際を見たあと、返事を探すのを諦めたらしく、小さく笑って扉を開けた。
部屋には、窓に向いた大きな机と、壁に寄せた小さな机があった。俺の場所として示されたのは小さいほうで、紙の束を動かすと天板に丸い焼け跡が現れた。たぶん誰かが、熱い鍋か、加熱中の試料を置いたのだろう。急に親しみが湧いた。
俺が腰を下ろすより先に、書記が二枚の書類を差し出した。一枚は今日の作業の支払い、もう一枚は、明日から始まる七日分の契約控えだった。
「今日の日当は、この契約とは別にお支払いします。七日分は終了時に。途中でこちらの都合で打ち切る場合については、ここに記載がございます」
指で示された文章を、俺は最初から最後まで読んだ。宿泊と食事、使った材料の代金、道具を損なった場合の扱い。知らない言い回しを尋ねても、書記は急かさずに説明してくれた。
銀貨二枚を受け取ったとき、俺は両方の重さを指先で確かめた。よく磨かれた銀貨だった。野菜の代わりに金が入ると、頭の中で買えるものが勝手に並び始める。釘、補強材、雨樋。使う前から軽くなりそうで、すぐ財布へしまった。
「宿は、いまのところをそのまま使えるようにしたわ。荷物を移すより楽でしょう。ボルカさんには使いを出したから、夕食にも間に合う」
ベルティーユはそう言いながら、二つの机の間へ大判の地図を広げた。七箇所に小さな印がある。その一つ、西排水区には、青い糸で結んだ今日の記録が添えられていた。
「他の六箇所には、確認が終わるまで新設部分の運転を始めないよう連絡した。いま使っているものもあれば、まだ石の土台しかないものもある。全部を同じようには止められない」
俺は試験問題と工事名を見比べた。第十七問の壁は、建物自体に立入制限を掛けられる。第九問の結界は試運転前。第五問の冷却陣だけ、明日の朝に新しい設備へ荷を移す予定になっていた。
南市場の共同冷却庫。市の施設で、複数の商店が区画を借りている。古い棟の冷却石を取り外すため、新棟へまとめて移すらしい。
「ここを先に見たいです。旧式の銀線を使っているなら、出力を上げたときに熱が籠もる。冷やす側はしばらく動くので、庫内の温度を見ているだけだと気づくのが遅れます」
俺が言うと、ベルティーユは第五問の赤い書き込みを引き寄せた。紙の中で冷やされているのは水だったが、現物の庫内図には、肉や乳製品を置く棚が描かれている。
彼女は書記へ、運転保留だけでなく、旧棟の取り外しも待つよう追って伝えるよう頼んだ。書記が出ていくと、部屋は急に静かになった。外からは馬車の車輪の音が上がってくる。
「第五問、あなたは何から間違いに気づいたの?」
「材料の欄です。銀線の規格が、計算で使っている温度に合いませんでした」
「解答係数は新規格、図面の表記は旧規格。古い表だけ直し忘れた可能性もあるわね」
「はい。現物が新しい線なら、問題用紙を直すだけで済みます。それがいちばん助かる」
ベルティーユは赤入れを読み直していたが、俺の言葉を聞いて顔を上げた。何か意外だったらしい。
「設備が無事なら、あなたの指摘は紙の上だけのものになるけれど」
「直す場所が少ないほうが、帰りに道具が軽いです」
自分で言ってから、少し違うと思った。道具は、使わなくても重いままだ。口を開き直そうとしたところで、彼女が笑った。俺は訂正する機会を失い、代わりに図面を机の端へ揃えた。
その日、宮廷でもらった新品の赤インクを使うことはなかった。工事の予定を確かめ、故郷へ出す手紙を書き、明日の集合時刻を決めたら、もう夕方だった。西排水区からは、潮が高くなっても水位を抑えられていると報告が届いた。
宿へ帰ると、ボルカは俺の顔より先に、泥のついた裾を見た。
「宮廷から人が来たよ。部屋を七晩、延ばしたいってね。あんた、試験に落ちてからのほうが忙しそうじゃないか」
「今度は、答案じゃなくて実物を直す仕事です」
「そっちなら、うちの湯沸かしが推薦してやれるね。まあ、まず服を脱いで桶に入れな。食事は逃げないから」
昨日と同じ言い方なのに、飯の心配をしなくてよいだけで、ずいぶん違って聞こえた。俺は階段を上がりながら財布の重さを確かめた。それから、まだ帰らなくてよいことを、初めて少し嬉しいと思った。
*
翌朝の南市場は、濡れた藁と燻製の匂いがした。
荷車が狭い通りを塞ぎ、軒先では、眠そうな少年が吊り下げた秤を拭いている。共同冷却庫へ近づくにつれ、車輪より人の声が大きくなった。予定通りに荷を運び込めない店主たちが、入口の女性を囲んでいた。
彼女は鍵束を腰につけ、袖を肘までまくっている。俺たちを見ると、安堵するより先に、入口に掛けた時計へ目を向けた。
「ローヴェン様ですね。管理人です。待っていました。古いほうの冷却石は外していませんが、これから来る荷までは入りませんよ」
「昨日、連絡したときの余裕は?」
「あのあと二軒、追加になりました。西の道が水で通れなくなって、こっちへ回されたんです。受け入れを決めたのは私ですから、店の人を叱らないでください」
ベルティーユは頷き、管理人に、いま入っている量と、届く予定の量を聞いた。その横を俺は通り抜け、新棟の壁へ近づいた。入口は二重扉で、外壁に取りつけられた放熱用の板は朝露に濡れている。まだ魔力の光はない。
道具袋を下ろしたところで、建物の角から、灰青色の制服を着た若者が現れた。細い金縁のついた襟。見覚えがある。試験のとき、俺の右隣に座っていた男だった。
向こうも俺に気づいた。足を止め、道具袋と顔を見比べたあと、わずかに顎を引いた。
「二百十六番の……ハルデさん、だったか」
「はい。昨日は、どうも。いや、試験は昨日じゃないですね」
落ちた日と、その後の騒ぎが続いたせいで、曜日の感覚が曖昧になっていた。若者は挨拶を返す代わりに、俺の胸元を見た。借りた上着についているのは、宮廷魔術師の鷲ではなく、臨時の通行札だ。
「イェルクさんは、設備調査への協力をお願いしている方よ」
話を終えたベルティーユが、管理人を伴って来た。
「こちらはティボルト・エーレンさん。採用候補者として、今日は冷却設備の実地見学に来ている。見学は中止にする予定だったけれど、受け入れ先の冷却技師から、補助に入ってもらいたいと申し出があったの」
ティボルトは背筋を伸ばした。俺よりいくらか若いだろうか。手に持った板挟みには、綺麗な字で書かれた見学記録がある。彼は俺がその紙を見る前に、板を身体の横へ下ろした。
「七問の扱いが再検討されると、今朝、聞きました。選考の日程も、決まり次第知らせると」
俺へ説明する声は丁寧だったが、挨拶のときより硬い。試験が済んだと思っていたのに、また分からなくなったのだ。無理もない。
「俺も、正式なことは何も。今日は銀線を見に来ました」
「銀線なら、機関室に予備があります」
返事はすぐだった。彼は鍵を受け取ると、俺たちを先導した。話しにくい相手なのかもしれないと思ったが、暗い段差の手前で、一段低くなっていると教えてくれた。
機関室には、冷却技師の女性が待っていた。前掛けの裾を短く結び、工具を腰へ差している。右手の指に巻いた革は、銀線で手を切らないためのものだった。
「止めてあるよ。外すところがあれば、先に言って。あたしが外すから」
彼女は挨拶のあと、作業台に置いた予備の巻線を示した。俺は刻印を見る。旧規格だった。新規格は縁に二本線が入るが、こちらは一本。箱には、いまの年の検査済み札がついていた。
「新しく検査した、古い規格ですね。設置されたものも同じですか」
「全部、ここから出した。新しいほうに替えられればいいけど、納期がかかるよ。注文時には、これでいいと返事をもらったんだ」
技師は納品書を壁の釘から外した。俺はその横へ、試験問題を広げる。ティボルトの目が紙に落ち、それから赤字へ移るのが見えた。
新棟では、六枚の冷却板を一つの調整盤で動かすようになっていた。庫内から集めた熱を、外の放熱板へ送り出す。その途中で魔力を整える細い銀線がある。板を増やした分だけ仕事が増えるのに、調整盤は古い棟と同じ規格だった。
「空の庫内なら、冷えたでしょうね。試運転のとき、中には何を?」
「水桶を六つ。決められた量だ。扉を閉めて、温度が下がるまで測ったよ。時間も指定の中に収まった」
技師が記録を開く。俺は温度より、途中で扉を開けた記載を探した。なかった。冷えた水桶を運び出し、温かい桶を追加した記録もない。
「同じ荷を冷やし続けるだけなら、途中から楽になります。市場だと、次の荷が入りますよね。扉も開く。そのたびに、最初の仕事を繰り返すことになります」
「だから余裕を取ってある。設計者が、そう説明したんだが」
技師の声には怒りより、困惑があった。長く使ってきた設備と、その図面を見て仕事をする自分との間に、知らない隙間ができてしまったような顔だった。
ベルティーユが、調整盤を開いて確認する許可を求めた。技師はすぐ頷いたが、開ける前に自分でも遮断具を確かめた。その一手間を待ちながら、俺は予備の銀線を光に透かした。
線の質は悪くない。傷も歪みもなく、巻き方が揃っている。安物を紛れ込ませたという話ではなさそうだった。
「第五問では、最大の負荷を入れても許容内になる」
ティボルトが口を開いた。俺は巻線を台に置き、彼へ顔を向けた。彼の指は板挟みの縁を強く押さえていた。
「問題に印刷されていた式なら、そうなります。けれど使っている係数が、新規格の線のものです」
「材料表には旧規格とある。そこは僕も見た。ただ、係数は与えられているし、計算に使えと指定されている。受験者が変えるべきではない」
俺はすぐに返せなかった。確かに試験では、余計な条件を加えるなと繰り返し言われた。ティボルトは間違いを見落としたのではなく、どちらを優先するべきか選んだのだ。
彼は俺の沈黙を反論と受け取ったのか、板挟みを机へ置いた。
「この問題は満点だった。だから、現物を見たいと希望したんです」
機関室の外で、荷車の止まる音がした。管理人が店主へ謝っている。俺はその声を聞きながら、紙の上の赤い線を指で押さえた。
「だったら、一緒に確かめてもらえますか。俺も、触っただけで許容温度までは分からない。計算する人がもう一人いると助かります」
ティボルトはしばらく俺を見ていたが、やがて鞄から細い筆記具を取り出した。先端まで銀色で、俺の削った木軸とはずいぶん違う。ただ、彼が紙に最初の数字を書いた手つきには、見栄もためらいもなかった。
*
旧規格の資料は、機関室の棚のいちばん下にあった。
油を吸った革表紙が膨らみ、頁の端には何人もの指の跡がついている。ティボルトは巻末から規格番号を探し、技師は作業台の上に測定用の器具を並べた。俺は庫内へ入って、板の大きさと配線を見た。
机で読む図面と、肩をすぼめて棚の間を通りながら見る線は、同じものなのに違って見える。左奥の冷却板は、荷を積んだら手が届きにくい。床の溝へ落ちたごみは、扉を開けた側から掃ける。そういうことは紙を眺めているだけでは分からない。
戻ると、ティボルトが二枚の計算を並べていた。新規格と旧規格。文字の揃った二枚のうち、旧規格のほうだけ、途中に一度、取り消し線が入っている。
「負荷が続くと、許容を超えます。最初の冷却だけでは、そこまで上がらない。試運転が通ったのは、おかしくありません」
「何枚までなら使えそうですか」
「余裕を見れば、三枚。ただし、外の気温と荷の温度が、この範囲の中なら」
彼が指で囲んだ範囲には、今日の気温が入っていた。俺が壁に掛けられた温度計を見ると、ティボルトも同じものを見た。視線が重なり、彼の口元がわずかに緩む。
「きちんと現物も見ていますよ」
「助かります。いま聞こうとしました」
技師が予備線を測定台へ据えた。設備を限界まで動かして壊す必要はない。古い規格表と、使う予定の線が合っているか、低い出力で確かめる。俺が熱の逃げを測り、ティボルトが時間と数字を記録した。ベルティーユは技師と一緒に調整盤の構造を確認している。
測った値は、古い規格表にほぼ重なった。これで六枚全部を回せば、冷却板そのものより先に、調整盤の線が傷む。
「三枚なら、部屋の半分を使えるわけではないのね」
報告を聞いたベルティーユが、庫内図を指した。間仕切りのない一部屋だ。三枚で全部を冷やすこともできるが、荷を次々入れれば追いつかなくなる。
「入れられる荷の量を減らし、扉を開ける回数も絞ることになります。朝の分だけなら、それでしのげるかもしれません」
俺が言うと、入口で待っていた管理人が首を振った。
「昼にも来るんです。船が遅れた分の肉が。そっちは、到着してから行き先を探す余裕がない。店で売り切れる量なら、初めからここへ持ってこないでしょう」
彼女の声が強くなり、すぐに下がった。こちらへ怒鳴っても仕方がないと、自分で抑えたのが分かった。
ベルティーユは外へ出て、旧棟と新棟の間を見渡した。俺も続く。古い棟の屋根には苔が生えていたが、扉はしっかり閉じていた。取り外す予定の冷却石は、まだ中で働いている。
「旧棟で、荷の区画を詰め直せない?」
「それはできます。ただ、箱を積めばいいわけじゃない。店が別ですから、勝手に混ぜられないし、出す順番もある。奥に押し込んだ荷を夕方に出してくれと言われたら、全部どかすことになります」
「出荷する時間ごとに、一度分けてもらうなら」
管理人はベルティーユを見たあと、軒先にいる店主たちを見た。鍵束が腰で鳴る。
「話をつける相手が多いですよ。たぶん、機械を直すよりうるさい」
「そちらは私も手伝う。冷却盤のほうは、任せてよい?」
ベルティーユが俺へ振り向いた。何でもすぐ直せると言いたかったが、新しい線はここにはない。俺は機関室の予備の箱を思い返した。巻線だけなら足りる。足りないのは、それを収めて調整する盤だった。
「増設した板を三枚ずつに分けられれば、一枚の盤に集めずに済みます。ただ、もう一枚、同じような盤が要ります。旧棟のものは外せませんし」
「保守用の予備盤なら、北の倉庫に一枚ある」
冷却技師が入口から言った。肩へ外套を引っ掛けながら、鍵を選んでいる。
「旧棟を建てたときの同型だ。予備だから稼働には使っていない。使えるかは開けてみないと分からないけど、取り寄せるなら人を出せる」
「お願いします。その間に、板を分けるところを見ておきます」
俺が道具袋を持ち上げると、ティボルトも紙を揃えた。さっきまで、綺麗な字のまま保たれていた計算書の端に、彼自身の指で小さな油染みがついていた。
*
朝の荷は、管理人が決めた順番で旧棟へ入った。
新棟の前にまで届いていた怒鳴り声が、箱を置く音へ変わっていく。ベルティーユは区画を書いた板を抱え、店主たちと古い扉を出たり入ったりしていた。宮廷魔術師が市場でそんなことまでやるのかと思ったが、いま必要なのはたぶん、強い魔法より、誰がどの箱を動かすか決められる人だった。
俺は機関室の壁に、六枚の板へ伸びる線を描いた。二つの盤を隣に置くだけでは分かれない。途中で繋がったままにすれば、片方から出した魔力がもう片方へ入り、調整が喧嘩する。別々の入口から、別々の板へ。線を一本ずつ追う仕事は、派手でも速くもなかった。
「こっちは、右側の三枚へ出ています」
ティボルトが壁の向こうから声を寄越した。俺は糸を軽く引き、彼の側で動いたことを確かめてから、印をつける。
「その束に赤い紐を。残りは白でお願いします。切り離すまでは、どちらも触らないで」
「分かっています。……失礼。ここでは、返事だけでいいですね」
彼の口調には、少し苛立ちが混じっていた。俺も同じ注意を続けすぎたのかもしれない。壁の向こうへ顔を出すと、彼は配線の束の前で膝をついていた。袖口が白い粉だらけになっている。
「ここの線、色が途中で変わっているんです。俺も見間違えそうになったので。分かっていても、もう一度だけ」
事情を話すと、彼は束の奥へ目を凝らした。古い色の線が、継手を境に新しい色へ変わっている。ティボルトは返事の代わりに白い紐を取り出し、両端へ同じ結び目をつけた。
「これなら見えない側からでも分かる。学院の演習でやりました」
「便利ですね。村では、切った木片に番号を書いていました」
「紙の札より、濡れても読めそうだ」
それから少しの間、配線の話だけをした。彼は大きな設備を実際に組んだことこそなかったが、どの線を何のために確かめるか理解するのが速かった。俺が言い終わる前に動こうとして、一度だけ指を止めた。その慎重さは、試験中に手を下ろしたときとは違って見えた。
予備盤が運び込まれたのは、朝の市場の騒ぎがひと段落したころだった。木枠には埃がついていたが、覆いの内側は綺麗だった。技師は魔石の受け座を調べ、俺は線の固定具を確かめる。乾燥で割れた小さな留め具が一つあったので、まずそこを替えた。
ティボルトが新しい計算を差し出した。
「二つに分けた場合の上限です。盤ごとに、ここまで。片方が止まった場合、もう片方へ荷の分まで任せることはできません」
「それを、調整の目盛りにも書きましょう。六枚まとめて冷えていたときと同じ感覚で上げられると困るので」
俺は支給された赤インクを開けた。瓶の口までたっぷり入っている。いつもの癖で筆先を浅く浸けたら、ティボルトが計算書から顔を上げた。
「そのインク、さっき見せてもらった答案と同じ色だ」
「同じ店のものです。これは仕事用に買ってもらいました。自分のだと、こんなに大きい瓶は持てません」
「僕は……青で書かれた満点の印ばかり見ていました」
俺の手が止まった。彼は俺を見ていない。自分の計算書にある、新旧二つの数字を見ていた。
「設問がおかしいことは、分かっていたんです。でも、こう答えれば点が取れる。その通りに書いて、取れた。結果が届いたときは、それでよかったと思った」
外から、空の木箱を重ねる音が聞こえた。冷却技師は盤の裏で固定具を締めている。彼女のいる位置からも聞こえているはずだったが、手を止めずにいてくれた。
ティボルトは続けた。
「あなたが手を挙げたとき、迷いました。僕も言うべきかと。でも、先に質問した人が同じ条件で答えろと言われたのだから、もう聞く意味はないと思った。そういう判断は、間違っていたんでしょうか」
難しいことを聞かれた。俺は試験に落ちた側だ。点を取るための判断について、自信を持って語れる立場ではない。
けれど、ティボルトの声が求めているのは、採点の正しさだけではない気がした。
「同じ紙で、二つ答えられたらよかったですね。指定された数字ならこれ、実際に使うなら駄目だ、と。俺も計算の答えまで書いておけば、伝わり方は違ったかもしれません」
「そうすれば、零点にならなかった?」
「それは分かりません。でも、いまここで計算してくれたものは、必要です。これがないと、俺はどこまで上げられるか決められない」
彼は眉を寄せた。慰められたと思ったのかもしれない。俺は開いた盤を指し、実際に目盛りを入れる位置を示した。
「俺の手持ちの帳面には、この型の細かい値まではありません。村で直していたのは、もっと小さなものです。あなたが規格表を見つけて計算してくれたから、作業に進めた。そこは本当に」
ティボルトは計算書を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。それから紙を二つに分け、片方を俺へ渡した。
「では、目盛りをつけるところも確認させてください。数字だけ渡して、あとは知らないというのは、もう嫌です」
俺は場所を空けた。彼の制服の肩が、機関室の白い壁へ触れた。本人は気づかなかったようだし、俺も言わなかった。
*
盤を二つに分け、低い出力で動かすところまでは順調だった。
六枚の冷却板が、それぞれ淡い光を帯びる。外の放熱板が暖まり、庫内の空気は少しずつ冷たくなった。俺は機関室で二つの盤を見比べた。片方だけが先に温かくなることもなく、銀線を留めた部分に変色もない。
だが、これで終わりにはできなかった。
朝、問題になったのは、空の庫内を一度冷やすだけの試験だった。同じ確かめ方をして、今度は俺が大丈夫と言うのでは、赤い字を書いた意味がない。
「荷の代わりになる水桶を、もう一度使わせてください。冷やしたものを一つ出して、温かいものを入れる。実際に荷を入れる間隔で、扉も開けます」
俺が頼むと、管理人は桶の置き場へ顎を向けた。
「運ぶのは手伝わせるよ。ただ、肉の荷が来るまでには、使えるかどうかだけでも決めておくれ。こっちも他所へ頼む時間が要る」
約束できるのは、時刻までに判断を出すことだけだった。必ず使えるとは言えない。俺は時計を見て頷き、ティボルトと技師へ、確認に使える時間を伝えた。
ベルティーユは旧棟の整理を管理人へ戻し、試験の魔力供給を引き受けた。今日も、流す光はよく揃っていた。六枚の板へ、必要な分だけ届く。彼女が調整盤に触れると、盤を通る魔力の波が小さくなるのが分かった。
最初の桶が入り、次の桶が入る。記録の数字は、想定の中に収まっていた。俺は安堵しかけ、それからベルティーユの手を見た。
「ローヴェンさん。いま、板の間の差を直していますか」
「少しだけ。奥の一枚が遅れるから。合わせないほうがいい?」
俺は答える前に、冷却技師を見た。彼女も、何か気づいた顔になっている。ティボルトが記録する手を止めた。
「普段、ここを動かす人は、同じことができますか」
聞くと、技師は首を振った。
「あたしは無理だね。そこまで細かく触ったら、かえって崩す。いつもは魔石を繋いで、盤に任せる」
ベルティーユは手元へ目を落とした。失敗したというより、手が勝手にやっていたことを初めて見つけたような表情だった。
「ごめんなさい。波が見えると、つい整えてしまう。これでは、私がいる間だけの記録ね」
「助かりました。盤の分け方自体が動くことは確認できましたから。次は、いつも通りの魔石でお願いします」
俺は桶を止めてもらい、供給を切り替えた。ベルティーユは壁際へ退き、今度は時計と扉の開閉を記録するほうに回った。
魔石からの光は、人が流すときより鈍かった。その代わり、疲れず、気を散らさずに流れ続ける。冷却板の一枚が、少し遅れて光り始めた。盤の片方の針が、小さく上下する。
ティボルトが俺を見たが、すぐ何かを触ろうとはしなかった。俺は針が揺れる間隔を数え、温度を見る。温度そのものは危険なところへ達していない。しかし、揺れはなかなか収まらなかった。
「目標に届かないので、出力を上げようとしています」
ティボルトが言った。俺は頷き、調整盤の裏の小さな目盛りを覗き込んだ。
古い盤は三枚の板を相手にしているのに、どれだけ冷えるはずかを決める設定だけ、六枚分のままだった。線を分け、最大出力を抑えても、盤は届かない温度へ急いで下げようとする。行きすぎそうになると止まり、また急ぐ。
俺は唇を噛んだ。配線を見ているうちに、設定を一つ見落としていた。
「ここを合わせ直します。申し訳ない。俺の確認不足です」
技師が遮断を手伝い、ティボルトが新しい値を計算した。誰も俺を叱らなかった。それが少しだけ、叱られるより居心地が悪かった。
しゃがんで調整具を回していると、ティボルトが横へ膝をついた。
「三枚分に直せば、この値です。ただ、庫内は一部屋なので、片方が先に冷やす分もあります。まず控えめにして、動きを見たほうが」
「その通りだと思います。ありがとう」
彼は計算書を台へ置き、俺が読める向きへ回した。さっき俺が彼にしたのと、同じ置き方だった。
二度目の試験では、針の揺れが小さくなった。水桶を入れ替えても、温度はゆっくり戻っていく。銀線の温まり方を確かめ、外の放熱板も見る。庫内が冷えていても、熱を外へ逃がせていなければ、そのうち行き詰まる。どちらの板も、風を受けて同じように冷めていた。
扉がまた開き、暖かい空気が足元へ流れ込む。俺は時計を見る。調整盤を直したばかりのときほど、待っている時間が長く感じられる。早く温度が戻れと思って見つめても、硝子管の中の色水は急いでくれない。
やがて、ティボルトが定規を当てて値を読み上げた。技師が自分の記録と比べて、頷く。
約束した判断の時刻までは、まだ少しあった。
「今日の荷と、いま試した出し入れの回数なら使えます。ただ、これより増やすと追いつかない。荷が多い日は、旧棟も残してください」
俺が言うと、管理人は初めて大きく息を吐いた。
「それで十分。新しいほうへ全部押し込めるとは思ってなかったからね。使える分を教えてくれれば、あとはこっちで組むよ」
彼女は何枚かの区画札を裏返し、店主を呼びに行った。ベルティーユは担当技師の確認署名を待ってから、制限つきで使う許可を書いた。俺の名前は、その横の作業担当の欄へ入った。
満点の印も、合格の印もなかった。代わりに、扉を開けてよい回数と、荷の上限が書いてある。その紙を技師が目線の高さへ留めると、俺はようやく道具袋の口を閉じられた。
*
昼の荷は、厚い布を掛けた荷車で届いた。
俺たちは運び込みの最初の一回を見届けた。空の水桶よりずっと重そうな箱が、人の手を渡って新棟へ入る。ティボルトは扉を押さえ、管理人の言う区画を復唱した。制服の袖はもう、朝とは違う色になっていた。
最後の箱が入ると、管理人が小さな木皿を二枚、持ってきた。薄く切った燻製肉が載っている。
「売り物だから、山ほどは出せないよ。味見の分。持ち込んだ店からだ」
俺は一枚受け取り、立ったまま食べた。香りが強く、噛むと脂が出てくる。朝のパンから何も食べていなかった腹には、少し酷な量だった。
「もう一枚食べたそうな顔をしないの。昼飯は、あっちで出すから」
管理人に言われ、俺は思わず口元を拭った。隣でティボルトが笑いかけ、咳払いでごまかした。自分の皿を俺へ寄せようとしたので、それは止めた。
「そっちは、そっちで食べてください。午前中、ずっと働いていたんだから」
「僕は見学のはずでしたけどね。今日は、記録することが多すぎる」
そう言って、彼は肉を口へ運んだ。噛み終えるまで、しばらく話さなかった。
食事の前に、冷却技師が古い納品書を持ってきた。盤を分ける案を採ったため、不要になったわけではない。なぜ材料と計算が食い違ったか、そちらはまだ調べる必要があった。
ベルティーユが、計画段階の写しと並べる。元の図面では、銀線は旧規格のままで、調整盤が二つ描かれていた。現場に来た図面では一つになっている。その変更自体は、欄外に記載があった。
『新規格への統一により、調整盤を集約』
「線を新しくするなら、一枚でも使えたんですね」
俺が尋ねると、ティボルトは新規格での計算を指し、条件の範囲内ならと答えた。技師が納品書を少し前へ出す。
「こっちには、既存在庫を使用、と返事がある。新しい線を買わなくていいのか聞き直した。その答えが、これ」
書かれた日付は、盤を一枚に減らした日より後だった。
ベルティーユは二枚の紙を近づけた。新規格の性能で計算し、旧規格の在庫で造る。別々に読めば、どちらにも理由がある。二枚を合わせたところにだけ、無理が生じていた。
「返事をした人を、呼ぶんですか」
ティボルトの問いに、彼女は頷いた。
「ただ、この名前の人だけで決めたとは限らない。何を見て返事をしたのか、そこから聞くわ。あなたたちには、元の図と、現場の図と、今日の変更を並べて残してほしい」
俺は、昼飯の前にもうひと仕事かと思いかけたが、彼女は紙を袋へしまった。
「食べてからでいい。記録を急いで、また違うものを残したら困るでしょう」
俺たちは旧棟の脇に用意された長椅子へ座った。ベルティーユも、外套を畳んで隣へ置く。白い袖口に、荷の箱から移ったらしい藁屑がついていた。
食事は豆のスープと、厚く切ったパンだった。ティボルトがスープをこぼさないよう姿勢を気にしているのを見て、俺は自分の膝に置いた皿を少し持ち上げた。昨日から、立派な場所へ行くたび、どこに何を置けばいいのか迷っている。市場の長椅子は、少なくとも泥の心配をしなくて済んだ。
「午後は学院へ戻るの?」
ベルティーユに聞かれ、ティボルトは匙を止めた。
「見学後の提出があります。でも、その前に、できれば採用担当へ寄りたい。第五問について、僕の解答に説明を添えたいんです」
「再採点を希望する、ということ?」
「点を変えてほしいのではなくて……知っていて、書かなかったことを残したい。あとから気づいた振りをするのは、もっと嫌なので」
ベルティーユは彼を見た。やがて鞄から、何も書かれていない紙を一枚取り出した。
「説明は受け取ってもらえるようにする。ただ、選考でどう扱うかは、私から約束できないわ」
「はい。それでもお願いします」
ティボルトは紙を受け取ったが、その場で書き始めなかった。先にスープを食べ、器を返し、手を洗ってから、乾いた木箱を机代わりにした。
俺が道具を数えていると、彼は顔を上げた。
「ハルデさん。赤を、少し借りてもいいですか」
瓶を渡しかけて、俺は思い直した。これは支給品だ。用途に迷ってベルティーユを見ると、彼女は疲れた顔で笑った。
「試験問題についての報告でしょう。構わないわ。何に使ったかは、私が説明する」
俺は瓶を木箱の上へ置いた。ティボルトの持つ筆記具では吸えないらしく、彼はしばらく口の狭い瓶と見比べていた。俺の木軸を渡すと、少しぎこちなく礼を言った。
赤い字で何を書いたのか、横から読むことはしなかった。筆先の動きだけを見ていた。線を一本引くときに、さっき盤へ印をつけたときより長くためらっていた。
市場を出る前に、冷却技師が俺を呼び止めた。
「仮の配線図、あたしの分も置いていってくれないか。後で綺麗なのが来るとしても、今日の夕方に別の人へ引き継ぐから」
「もちろんです。制限も一緒に書いておきます」
「それと、予備盤を使ったから、予備はもうない。次の手配も忘れないでほしい」
その一言を聞いて、俺は手帳へ新しく一行足した。設備を動かせた途端、使ってしまったもののことは、頭の隅へ寄っていた。現場に残る彼女は、明日も、その次の日も使うことを考えている。
俺が書くのを見て、技師はようやく頷き、機関室へ戻っていった。
*
東棟へ帰ると、俺の小さな机には、朝にはなかった箱が置かれていた。
中には、赤い結び紐、替えの筆先、それから白紙の束がある。赤インクだけ頼んだのに、周りの道具まで揃っていた。箱の下に、小さく『技術協力員用』と書かれている。
俺はその紙を剥がさず、机の端へ箱ごと寄せた。七日間だけでも、自分のものを置いてよい場所があるのは、悪くない。
ベルティーユは朝から待っていた書類を受け取り、机へ向かった。俺は冷却庫の配線図を清書しながら、時折、手元の記録を見直した。最初の試験では宮廷魔術師が魔力を整えていたこと。魔石に替えて初めて揺れが出たこと。自分が設定を直し忘れたことも、省かなかった。
途中で、彼女がこちらを呼んだ。
「大結界の計画書が届いたわ。第九問の元になった部分が含まれている」
俺は筆を置き、大きな机へ移った。黒い表紙の中には、広場の図と、結界の形と、術者の配置が綴じられていた。二人の術者が、違う側から魔力を送る。図の上では、二つの位置に印がある。
その後ろに挟まった人員の予定を見て、俺は頁を戻した。
「交代なんですか」
「運用表はそうなっている。二人が半分ずつの時間を担当する。けれど、術式は同時に二方向から支えるものよ」
今日の冷却庫とは違う。金属を一つ替えれば済む話でも、盤を分ければ済む話でもない。二人必要な仕事を、一人ずつで回すようになっていた。
俺は予定表の先頭に書かれた日付を見た。冬の式典の本番ではない。術者が集まって行う、最初の合同稽古だった。
「明後日、これを動かすんですね」
「担当へは、もう保留の連絡を入れた。明日、説明を聞きに行く」
ベルティーユは別紙を出した。二人分をまとめた図の横に、小さな注記がある。十分な魔力を持つ者であれば、一人で代替可能と書かれていた。
俺は午前中の冷却庫を思い出した。彼女が手を添えていた間、盤は綺麗に動いていた。その手が離れると、初めて揺れた。
「これ、一人で動かした人がいるんでしょうか」
俺の問いに、ベルティーユはすぐには答えなかった。書類の中から試演記録を抜き出し、こちらへ向けた。
王立魔術学院の講堂で、半刻の間、結界を維持した記録だった。担当欄には、宮廷筆頭魔術師という肩書がある。計算上足りるというだけでなく、実際にできた人がいたのだ。
ただし、稽古の参加者名簿には、その人の名前はなかった。
「本人に話を聞けますか。どうやって支えたのか、普通のやり方と同じだったのか」
「面会を申し込む。……あなた、ずいぶん自然に言うのね」
ベルティーユが俺を見ていた。何か失礼だったかと、俺は名簿を持つ手を下ろした。
「会うために、儀礼が要りますか」
「ええ。そちらは、私が先に教える」
俺は頷き、小さな机へ戻って、新しい紙を出した。
今度の相手は、できないことをできると書いた人ではないかもしれない。自分ならできることを、そのまま他人にもできると思った人なのかもしれない。それを確かめるには、赤い線を引く前に、聞かなければならなかった。
紙の上に、筆頭魔術師へ尋ねたいことを三つ書いた。最後まで書いてから、一つ目の上へもう一行、小さく書き足す。
挨拶で、先に頭を下げる。
儀礼の問題で落とした点が、ここへ来て急に重くなった。




