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宮廷魔術師の採用試験に落ちたので、試験問題の間違いを全部直して返した  作者: てへろっぱ


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第一話 不合格通知には赤インクを添えて

不定期投稿予定です。


 宮廷魔術師の採用試験に落ちた日、俺は王都でいちばん高い赤インクを買った。

 別に、腹いせで不合格通知を塗り潰そうと思ったわけじゃない。そんなことをしても、落ちた事実は変わらないし、インクがもったいない。俺が直したかったのは、一緒に返却された試験問題のほうだった。

 王立文具店の主人は、俺の差し出した銅貨を数えてから、小さな瓶を棚に戻した。

「これじゃ足りないよ。赤は朱銀石を使うからね。黒なら同じ値段で三倍買える」

「一瓶は要りません。明日の朝までに、紙を十二枚ほど直せれば」

「量り売りはしてないんだが……あんた、その封筒」

 主人の視線が、俺の脇に挟まった白い封筒へ落ちる。双頭の鷲をかたどった宮廷の紋章。その下の『選考結果在中』という文字を見て、彼は少しだけ声を落とした。慰めの言葉を探される前に、俺は中身を引き出した。

「駄目でした。だから、せめて間違いだけ知らせて帰ろうと思って」

「ああ。名前でも違ってたか」

「問題が二十問あって、そのうち七問です」

 主人は瓶に手をかけたまま動かなくなった。店の奥では、青い羽根ペンが糸で吊られて揺れている。窓から差す西日に照らされ、机上の削り屑まで金色に光っていた。王都の文具店は、ごみさえ上等に見える。

「……悪いことは言わない。明日にしなさい。一晩寝れば、違う気分になる」

「明日の午前中に、帰りの乗合馬車が出るんです」

 事情を説明したつもりだったが、主人はますます痛ましい顔になった。結局、底に少しだけ残った見本用の瓶を出して、これは売り物じゃないからと言いながら、俺の銅貨を半分だけ取った。

「筆先は洗ってから入れるんだよ。混ぜたら、せっかくの赤が濁る」

 その注意だけは、故郷の道具屋と同じだった。俺は礼を言い、封筒と瓶を抱えて店を出た。大通りの先には、日の入りを受けて白く輝く王宮が見える。今日の午前中まで、あそこで働く自分をかなり具体的に想像していた。冬でも薪を買うのに迷わず、雨が降っても仕事がなくならない生活を。

 月給銀貨二十八枚。官舎あり。作業中の負傷には治療費支給。

 募集要項のその三行を、俺はすっかり暗記していた。

 *

 俺の名はイェルク・ハルデ。二十四歳。北のセッカ盆地で、水車や揚水器に刻まれた魔法陣を直して暮らしていた。

 魔術学院には通っていない。読み書きと計算を教わったのは村の礼拝堂で、魔法については、修理屋だった祖母の道具箱と、捨てられた機械が先生だった。どうして動かないのか分からないものを分解し、どうして動いていたのか分からなくなって、日が暮れる。それを繰り返しているうちに、近所の人から仕事を頼まれるようになった。

 田舎の修理屋にも、悪くないことはある。水が上がればその場で喜んでもらえるし、代金の代わりに貰う野菜はだいたいうまい。ただ、屋根の修繕代を大根で払おうとすると、屋根屋が困る。

 今年の雪で工房の梁が曲がった。祖母が残した帳面を濡らしたくなくて、修理の見積もりを取り、金額を見て黙り込んだところへ、商人が宮廷の募集を持ってきた。二年勤めれば屋根を直し、乾燥棚まで作れる。五年なら、雨漏りのしない工房を建て直せるかもしれない。

 そう思って王都まで来た結果が、いま宿の机に載っている。

『筆記選考 三十八点。合格基準六十点に達しないため、不合格とする』

 その下には、受験者の研鑽に資するためという名目で、模範解答と採点済みの答案が添付されていた。受験料に返却送料まで含まれていた理由が、これで分かった。俺は木椅子に腰を下ろし、改めて答案を読んだ。

 間違えたところは、確かにあった。

 宮廷の儀礼用結界で使用する紋章の並び順。第六代国王の戴冠式で採用された照明術式の正式名称。俺が『広場を明るくするやつ』としか覚えていなかった術にも、長くて立派な名前がついていた。そういう問題で点を落としたことには、何の異論もない。勉強が足りなかった。

 ただ、第十四問につけられた大きな斜線だけは、何度見ても腑に落ちなかった。

『河川水位の上昇に際し、図の揚水陣を用いて内水を排出する。所定の流量を得るための最小魔力を求めよ』

 俺の答案は『この接続では起動不可。逆流止めの配置変更が必要』。模範解答は『四十八単位』だった。

 四十八という数字になるのは分かる。問題文に印刷された値を、指定の式へ順番に入れればいい。だが図の水路は途中で二つに分かれ、一方が吐出口へ、もう一方が起動用の細い導水管へ戻っていた。川の水位が低いときは何も起きない。上がったときだけ、水が細い管を逆に遡って術者の足元へ噴き出す。

 試験中に手を挙げて尋ねた。図の誤植かもしれないからだ。

 試験官は自分の控えと照合し、『配布された条件のまま解答すること』と答えた。あの人に、その場で問題を変更する権限がなかったのだろう。だから俺も条件を変えず、起動できないと書いた。欄が狭かったので、危険な箇所を小さな矢印で示して。

 採点者の青い字は、その矢印の上に重なっていた。

『設問に答えていない』

 机の向こうで、雨樋を伝った水が窓枠へ落ちた。昼まで晴れていたのに、夕方から細い雨になっている。俺は灯りを寄せ、問題の紙にそっと手を置いた。

「答えられる設問にしてくれよ」

 声にすると、ずいぶん負け惜しみに聞こえた。少し嫌になって立ち上がり、荷物をまとめようとしたが、結局また座った。もしこの図を正しいものとして覚える受験者がいたら、いつか同じものを造る。セッカの揚水小屋には、人が逃げるほどの場所もない。

 不合格を取り消してもらうための手紙は、俺には書けない。宮廷の儀礼をろくに知らないのは事実だし、他の受験者より優れているかどうかも分からない。

 しかし、割れる管がどれかは分かる。

 赤インクの栓を抜き、まず第十四問の図に線を一本引いた。

 *

「若いの。パンは下で食べとくれ。部屋で屑を落とすと鼠が来る」

 宿の女将ボルカが、戸口から俺の机を覗き込んだ。手には煮込みの皿と黒パンを持っている。下で食べろと言いながら持ってきてくれるあたり、世話焼きなのだと思う。

「呼んでも降りてこないから、死んだのかと思ったよ。試験は来年もあるんだろう」

「来年の分も、直っているといいんですけど」

「そりゃ、あんたの答え次第だね」

 女将は皿を置く場所を作ろうと、問題用紙を持ち上げた。裏まで赤い字で埋まっているのを見て、眼鏡を鼻の上にずらす。

「落ちたのがそんなに悔しいかい」

「悔しいです。官舎を見たかった」

「そこなんだねえ」

 正直に答えると、彼女はようやく笑った。俺も少し笑って、椅子を引く。煮込みには豆と小さな肉片が入っていた。たぶん昨日と同じ鍋だが、昨日よりおいしい。鍋底へ行くほど肉が増えるのかもしれない。

 女将は窓辺に立って雨を確かめ、俺の赤い図をもう一度見た。

「あんた、こういうのが分かるなら、うちの湯沸かしも見てくれないかね。今朝から蓋が踊るんだ。修理屋に来てもらうと、見るだけで銀貨を取られる」

「沸いたときだけですか。それとも火を入れてすぐ?」

「すぐだよ。まだぬるいくせに、えらそうに鳴る」

 俺はパンを半分だけ食べて、階下へ降りた。厨房には大きな銅の湯沸かし器が据えつけられ、底の加熱陣が橙色に光っていた。女将が湯を使うたび、蓋がかたかた鳴る。蒸気が溜まっている音ではない。底の板が、内側から小刻みに叩かれている。

 まず魔石を外した。灯りが消えるまで待ち、側面の覆いを開ける。熱を逃がすための青銅板が、縁だけ妙に新しかった。

「最近、ここを取り替えました?」

「三日前に。古いのが腐食してね。前と同じ板だと言われたよ」

 板の厚みも形も同じだった。ただ、裏に刻まれた補助の魔法陣が左右逆だ。表から写すべき図を、裏から透かして写したのだろう。熱が抜けず、加熱陣が自分自身の余熱を拾って、短い間隔で入り切りを繰り返していた。

 刻まれた線は消せないので、二箇所を錫で埋め、別の位置へ繋ぎ直す。道具袋に入れてきた錫棒はこれで短くなったが、湯沸かしの蓋は静かになった。女将が蛇口を開くと、湯気が滑らかに立ち上がった。

「こんなにすぐ直るものなのかい」

「部品そのものはいいものです。写す向きを一度間違えただけで」

「ああ、間違えた人を責めるなって話かい」

「いえ。交換してもらうなら、この板は取っておいてください。どこが違ったか、見せたほうが早いから」

 俺が言うと、女将は声を立てて笑った。それから厨房の引き出しを探り、干した杏の入った小皿を押しつけてきた。料金を言う前だったので少し迷ったが、夕食の代金は要らないと言われた。銀貨でなくても、今夜の飯なら大いに助かる。

 部屋へ戻ると、雨脚が強まっていた。問題用紙の端が、窓の隙間から入った湿気で反っている。俺は窓を閉め、杏をかじりながら赤い字を足していった。

 第五問は、冷却陣の許容温度が古い銀線の規格のままだった。今の銀線なら耐えるが、問題文には旧式と書いてある。第九問では、術者二人が別々の魔力で支えることを想定した計算式に、一人分の値しか与えられていない。第十七問の石壁補強は、図の寸法通りなら右端の柱に重みが偏る。

 どれも、数字を合わせれば模範解答と一致する。だからこそ、厄介だった。紙の上では綺麗に解ける。実物を造ったときだけ、端が焦げたり、柱が沈んだり、人が怪我をしたりする。

 俺は間違いを指摘するだけでなく、直した問題と、その条件なら成立する解答を書いた。相手に一から計算させるのは手間だ。第十四問には、流れを見るための小さな模型の作り方も添えた。魔石を使わず、水を注ぐだけで確かめられる。

 最後に、手紙を書く。

『採用試験の実施、ならびに答案の返却に御礼申し上げます』

 ここまでは、宿にあった手紙の文例集を写した。その先でしばらく悩み、結局、普段の仕事と同じように書いた。

『当方の解答にも知識不足があり、不合格の結果について再審査を求めるものではありません。ただし、添付した七箇所は実際の使用時に不具合を生じます。特に第十四問の回路は、上流の水位が高い状態では起動しないでください』

 これなら、何を頼んでいるか伝わるだろう。

 封筒を閉じる前に、もう一度だけ図を見た。水路の曲がり角に、細い二重線がある。最初は印刷のかすれだと思ったが、そこだけ周囲より線が濃い。継ぎ足された図の境目にも見えた。

 何かを考えかけたところで、廊下の時計が夜半を告げた。帰りの馬車に乗り遅れてはたまらない。俺はインクの栓をし、寝台の脚元へ荷物を置いた。

 王宮へ渡す封筒だけは、濡れないように上着の内側へ入れておいた。

 *

 翌朝、王宮の通用門には、まだ合格者の列ができていなかった。

 俺は守衛に封筒を渡し、採用担当へ届けてほしいと頼んだ。紋章つきの返却封筒を再利用したせいか、守衛は表裏を確かめてから、こちらの顔を見た。

「異議申立てなら受付は九時からだ。いまは七時半だぞ」

「結果への異議ではありません。問題の訂正です。中に、危ない箇所を書いてあります」

「受験番号は」

「二百十六番、イェルク・ハルデです。昼前の馬車で帰るので、お返事は要りません」

 守衛は眉を動かしたが、それ以上は聞かなかった。受領帳へ番号を書き、門内の小窓へ封筒を滑らせる。拍子抜けするほど簡単に用が済んだ。

 振り返ると、坂道の向こうに王都の屋根が連なっていた。昨夜の雨はやんでいたが、低い雲が西から流れてくる。軒先では職人が濡れた看板を拭き、パン屋からは最初の窯の匂いが漂ってきた。

 帰り道の食料を買っても、銅貨が少し残る。故郷へ戻ったら、梁の修理は半分だけ頼もう。残りは自分で支柱を入れる。五年かければ、少なくとも屋根の一面くらいは新しくできるはずだ。

 そう考えて歩き出した俺は、そのとき、封筒がどこへ運ばれるかなど気にしていなかった。

 王宮東棟の三階で、ベルティーユ・ローヴェンは、冷めきった茶に口をつけた。

 昨夜から目を通していたのは、西排水区の臨時増設工事に関する書類だった。上流で雨が続き、今夕の満潮と重なるおそれがある。水務局は補助揚水陣を正午に起動し、低地の水位をあらかじめ下げる計画を立てていた。

 宮廷魔術師として認可に署名する以上、計算だけでなく、現場の試運転記録も確認したかった。ところが送られてきた記録は、川の水位が低い条件のものばかりだった。

「本運転と同じ水位での確認を頼んだはずだけれど」

 独り言に答える者はない。補佐の書記は、原図を受け取りに水務局へ走っていた。ベルティーユは椅子の背に寄りかからず、机の上の図面をもう一度広げる。

 廊下から足音が近づき、庶務の若い職員が顔を出した。

「ローヴェン様、採用試験宛ての書類です。赤い字の書き込みがありまして、当番表では本日の技術照会は――」

「ここでいいわ。そこへ置いて」

 試験関係の仕事は午後に回すつもりだった。だが職員が置いた封筒から、見覚えのある水路図が半分だけ覗いていた。ベルティーユは茶碗を置き、指先で紙を引き出す。

 試験問題の第十四問。その下に赤い字が並んでいた。

『外水位上昇時、起動用導水管から逆流。術者の立つ位置が噴出口となる』

 彼女は手元の工事図面に目を移した。次に、問題用紙をその隣へ置く。

 数値は違う。水路の長さも、壁の厚みも違う。しかし、分岐の位置と起動用導水管の接続は同じだった。実務試験には、既存設備を簡略化した問題が使われる。今年は水務局が出題を担当したと聞いていた。

「これを持ってきた人は?」

「守衛に預けたそうです。不合格の受験者だとか」

 ベルティーユは返事をせず、模型の作り方まで読み進めた。紙の図にだけ現れる誤りか、実際の設備にも残っているか。それを先に切り分けなければならない。

 彼女は脇机の洗浄瓶を取り、余った管と硝子皿を職員に持ってこさせた。説明の通りに管を並べて水を注ぐ。皿の水位を上げたところで、細い管から水が飛び出し、袖口を濡らした。

 職員が息を呑んだ。ベルティーユは濡れた袖を見たあと、壁の時計を確かめた。

「西排水区へ伝令。増設分の起動を保留するように。既存設備まで止めないで。それと、さっきの受験者の滞在先を願書から探して」

「呼び出し状を出しますか」

「私が行く。返事を待っている時間が惜しい」

 立ち上がり、外套へ腕を通しかけてから、机の上に残った採点済み答案が目に入った。

 三十八点。そこだけが、不釣り合いなほど大きく書かれている。

 ベルティーユは答案も封筒へ戻し、外套の留め金を乱暴に掛け直した。

 *

 馬車乗り場で最後の干し肉を買うかどうか迷っていたとき、背後から俺の名前を呼ぶ声がした。

 振り向くと、濃紺の外套を着た女性が、二人の衛兵を連れて立っていた。黒に近い栗色の髪を首の後ろできっちりまとめ、左の襟には銀の鷲。宮廷魔術師だ。見た瞬間、封筒に何か失礼なことを書いただろうかと考えた。

「イェルク・ハルデさんで間違いない?」

「はい。……インクは、消えないほうがいいと思ったんですが」

「インク?」

「問題用紙は返却済みだから、書き込んでもいいのかと」

 彼女は俺を見つめ、それから抱えていた封筒を少し持ち上げた。

「書き込みは助かったわ。ベルティーユ・ローヴェン、宮廷魔術師、河川設備の技術審査を担当している。第十四問について、あなたに聞きたいことがあるの」

 叱られる話ではないらしい。俺は力の抜けた肩から、荷物の紐を掛け直した。

「計算なら裏にあります。逆流止めを分岐の手前へ移せば、必要な魔力は五十一単位です。ただ、管が細いので効率はよくなくて」

「現物なら?」

 彼女の声の調子が変わった。俺もそこで、ようやく衛兵が二人いる意味を考えた。

「現物があるんですか、あれ」

「同じ接続を使った増設工事が、西排水区で進んでいる。起動は保留させた。あなたの指摘が現場にも当てはまるか、確かめたい」

 広場の鐘が鳴り、俺の乗る予定の馬車へ荷が積まれていく。屋根の修理のことも、帰りの干し肉のことも、その音と一緒に頭の隅へ退いた。

 俺は封筒を受け取り、問題の図を開く。昨夜、気になっていた二重線が、濡れた石畳の上でいっそうはっきり見えた。

「この継ぎ目より上の図面を、見せてもらえますか。簡略図だと、逃がし口が省略されている可能性があります。もし上に逃がす口があれば、危険の程度は変わる」

「現地に原図がある。来てもらえる?」

 彼女が手を伸ばしたので、俺は一歩だけ下がった。ベルティーユの目が細くなる。断ろうとしていると思われたのかもしれないが、そこははっきりさせておく必要があった。

「これは、仕事ですか。それとも採用試験の続きですか」

 彼女はすぐには答えなかった。衛兵の一人が口を開きかけたが、軽く手を上げて制する。それから封筒を持ち直し、俺と同じ高さに目を向けた。

「仕事よ。現地調査への技術協力として、今日の日当銀貨二枚。工具や材料を使えば別途精算する。帰りの便を逃した分の宿泊費と乗車券も、こちらで手配するわ」

「それなら、お願いします。荷物は馬車に預ける前でした」

 俺が頷くと、彼女の口元にかすかな笑みが浮かんだ。

「もっと難しい要求が来ると思っていた」

「銀貨二枚は、うちでは難しい要求のほうです」

 今度は彼女が少しだけ声を出して笑った。ただ、足はもう排水区へ向かっている。俺は肉屋の前を離れ、外套の背を追った。

 西排水区の水門小屋では、汗と濡れた木の匂いがした。

 床の下を濁った水が走り、鉄格子の向こうで太い車軸が回っている。既存の揚水機は動いていたが、その隣に据えられた新しい石造の槽は沈黙していた。表面には、まだ削り粉が残っている。

 現場責任者の男は、俺を見るなり眉をひそめた。灰色の髭に白い石粉がついた、大柄な人だった。胸の木札には、技師長ガドリクとある。

「来るなら、審査の人間だけでよかったでしょう。受験者に工事を見せるとは聞いていません」

「この接続の危険を指摘した本人です。説明を聞いてください」

 ベルティーユは封筒から問題用紙を出した。ガドリクは赤い図を一瞥したあと、俺の手元を見た。道具袋の持ち手は黒ずみ、針金で補修してある。彼の視線がそこで一度止まった。

「触る前に言え。動いている設備が隣にある」

「はい。まず図面を見せてください。起動用の管に、ここ以外の逃がし口はありますか」

 俺が分岐を指すと、ガドリクは脇の台から分厚い原図を引き寄せた。手のひらに大きな傷があった。紙だけ扱っている人ではない。

 原図には、試験で省略された構造がすべて描かれていた。俺は上から順に水の道筋を追う。起動用導水管の先は、踏み板の下の小さな槽に繋がっている。その槽から空気を抜く口はあったが、水を逃がす太さはない。

「この構造だと、やはり戻ります。高い水位での試験は?」

「まだだ。川の水位を上げるわけにもいかんから、低水位で動作を見た。逆流弁がある。そこで止まるはずだ」

 ガドリクが図面の一箇所を叩いた。問題の図にもある弁だ。ただし、弁は太い排水路側にあって、細い起動管の手前にはない。

 俺は鞄から二色の糸を出した。赤い糸を太い水路へ、白い糸を細い管へ沿わせる。流れてくる水の向きに指を滑らせ、分岐で二本に分けた。

「こちらは止まります。でも、こっちは弁を通りません」

 男は白い糸を見つめた。唇がわずかに動き、そのまま閉じる。図面を逆向きに回して、もう一度確かめたあと、背後の職人に向かって声を張った。

「踏み板の下を開けろ。魔石には触るなよ」

 板が持ち上がり、下の槽が姿を現した。水面に灯りが映っている。起動前なのに、管の口から少しずつ水が染み出していた。

 ガドリクがしゃがみ込み、濡れた指を引き上げた。その横顔から、さっきまでの険しさが消えた。代わりに、もっと重いものが残った。

「ここに立たせる予定だったのは、うちの見習いだ」

 誰もすぐには言葉を返さなかった。遠くで荷車が跳ねる音がして、既存設備の車軸が一周した。俺は白い糸を巻き取り、いま見えている管の太さを測った。

「今の水位なら、まだこの程度です。起動すれば流れが引っ張られて、もっと上がります。止めてもらってよかった」

「弁を移せば済むか」

「図の条件なら。ただ、現物はこの枝管が長い。移すだけだと起動時に空気を噛むかもしれません。起動管を外して、別の水槽から水を送るほうが確実です」

 ガドリクは奥の壁を見た。そこには古い水槽が一つ、裏返して置かれている。容量を尋ねると、すぐに数字が返ってきた。俺は原図の余白を借り、管の取り回しを描いた。

 その間も、低地へ流れ込む水は増えていた。水門小屋の入口に打たれた水位標を、一人の職人が定期的に読み上げる。声は落ち着いていたが、数値は少しずつ上がっていく。

「工事にはどのくらいかかりますか」

 ベルティーユの問いに、ガドリクは俺の図と道具置き場を見比べた。

「管が合えば一刻。合わなければ加工が要る」

「その間、既存分の揚水量を増やせますか」

「これ以上は軸が焼けます。昨日から回しっぱなしだ」

 彼女は短く頷き、衛兵に低地の家々への注意喚起を頼んだ。避難の準備だけでも進めてもらうという。その判断を聞きながら、俺は古い揚水機の吐出口に顔を寄せた。

 水音に、規則的な空白がある。回転が揃っているのに、水の出方だけが乱れていた。

「技師長。あっちの吸い込み口の格子、最後に掃除したのはいつですか」

「夜明け前だ。……流木か?」

「細かい枝かもしれません。音だけでは決められないけど、半分くらい吸えていない時間があります」

 職人が長い熊手を差し入れると、黒い塊が上がってきた。枝と布切れに絡まった、藁袋だった。水を吸って重くなったそれを床へ落とした途端、吐出口の音が太くなった。

「少し、時間が稼げます」

 俺が言うと、ガドリクはもう水槽を起こしに行っていた。ここから先は、彼らのほうが早かった。必要な継手がどの棚にあるか、壁のどこなら固定具が打てるか、俺は知らない。俺が線を描き終えるより先に、管を抱えた職人が走ってきた。

 *

 新しい起動管が繋がったのは、正午を少し過ぎたころだった。

 俺の上着は泥に汚れ、右の袖には錫の小さな焼け跡ができていた。正式な仕事だと言ってもらったおかげで、道具を使うたび値段を気にしなくて済む。そのことが、思っていた以上にありがたかった。

 最初の起動は魔力を絞って行う。作業員を槽から離し、ガドリクが弁を確かめ、ベルティーユが制御板へ手を添えた。

 淡い光が石の溝を伝わり、槽の底へ沈んでいく。新しい水槽から細い管へ水が流れた。回転の始まる音。吐出口から、最初は途切れがちに、それから一続きの水が押し出された。

 踏み板の下は、乾いたままだった。

 俺はその一点だけで安心せず、継手を順に見て回った。ガドリクも同じ側から来たので、途中で顔を見合わせ、反対側を指す。彼は頷き、俺とは逆へ回った。最後の継手まで漏れはない。

「少しずつ上げてください。いまの倍まで。そこからは水位を見ながら」

 ベルティーユの指が動くと、淡い光が均一に強まった。出力を上げる術者は何人も見てきたが、継ぎ目で光が揺れない人は初めてだった。いい魔力の流し方だ。無理をしていないのに、遠い溝の端までちゃんと届く。

「そのままです。……ええ、そこがいい」

 俺は圧力を見る硝子管と、水路の高さを交互に確認した。ガドリクが読み上げる値を、ベルティーユの補佐が記録する。いつの間にか到着していたその書記は、靴を泥だらけにしながら、原図を濡らさないよう胸に抱えていた。

 入口の職人が、水位の上昇が止まったと知らせた。それからしばらくして、指一本分だけ下がった。

 歓声というほどの声は上がらなかった。みんな疲れていて、これから夕方までの監視が必要だと分かっていた。それでも、小屋の中の息苦しさがほどけた。誰かが水差しを持ってきて、順番に回し始める。

 ガドリクは俺の前で足を止め、灰色の髭を掻いた。

「最初に、余計なことを言った」

「動いている設備に勝手に触るな、というのは正しいです」

「そっちじゃない。受験者だと聞いて、見学気分の若造が来たと思ったんだ」

 俺は受け取った水を一口飲み、空いた手で道具袋を持ち上げた。

「見学なら、この重さの道具は持ってこないです」

 ガドリクは袋を見て、初めて笑った。笑うと目尻が深く下がる。水差しを次の職人へ渡しながら、低い声で続けた。

「図面は俺も確認した。見慣れた形だったから、そのまま目を通してしまった。おかげで弟子を濡らさずに済んだよ」

 濡れるだけでは済まなかったかもしれない。だが、それは彼も分かっている。俺は余計なことを言わず、監視が落ち着いたら起動管の固定具をもう一つ増やしてほしいと頼んだ。ガドリクはすぐに職人の名を呼んだ。

 外へ出ると、王都の鐘が二時を告げていた。

 帰りの馬車は、もう城壁の外だろう。急に腹が減り、干し肉を買い損ねたことを思い出した。俺が荷物の底を探っていると、ベルティーユが紙に包まれたパンを差し出した。

「補佐に買ってきてもらった。昼食を頼むのが遅くなって、ごめんなさい」

「ありがとうございます。まだ半日働けそうです」

「そう言ってもらえるのは助かるけれど、まず座って」

 水門から離れた石段に腰を下ろした。パンには薄い肉と辛い葉が挟まっている。王都の食べ物は高いが、これは高くても許せる味だった。

 ベルティーユは俺の隣で封筒を開き、返却答案を取り出した。俺はパンを噛む速度を落とした。現場のことなら何でも話せるが、その紙は、できればいま見たくなかった。

「三十八点の内訳を確認したわ。あなたが直した七問は、どれも指定された答えと違うという理由で零点。残りの問題では、六十点分のうち三十八点を取っている」

「儀礼が駄目でした。勉強したつもりだったんですが」

「ええ。そこは、もう少し覚えてもらう必要がある」

 俺は顔を上げた。彼女は気休めを言うつもりではないらしい。それはかえって、話を聞きやすかった。

「ただ、出題に不備があるなら、選考全体を見直さなければならない。あなた一人を特別に合格させれば済む話でもないわ。他にも同じ理由で点を失った人がいるかもしれないから」

「それは、お願いします。試験会場で、隣の人も何度か図を見直していました」

 隣の受験者は、綺麗な制服を着た若い男だった。何か言いたそうに手を上げかけ、それでも下ろしたのを覚えている。俺だけが気づいたとは限らない。気づいてなお、指定された数字を書くほうを選んだ人もいただろう。

 ベルティーユはその話を手帳に書き留め、答案を封筒へ戻した。

「正式な選考の扱いは、担当部署に決めてもらう。それとは別に、あなたへ依頼したい仕事があるの」

「今日の工事の記録ですか」

「それも含むわ。七日間、技術調査の協力員として王都に残ってほしい。日当は今日と同じ。宿と食事はこちらで用意する。採用を約束する契約ではないけれど、受験資格に影響させることもない」

 七日で銀貨十四枚。頭の中で、工房の梁に添える補強材の長さが伸びた。食事と宿が別なら、そのほとんどを持って帰れる。

 俺はすぐ頷きそうになったが、彼女が出したもう一枚の紙を見て、口を閉じた。

 それは、今日の増設図面の写しだった。片隅に、承認済みを示す四角い印がある。日付は昨年の秋。その下に、手書きの小さな修正記号がついていた。

「試験用の図は、この工事図から作られている。でも、いま補佐が持ってきた保管用の原図には、違う接続が描かれていた」

 彼女は二枚を重ね、ずらした。保管用の図では、逆流弁は分岐の手前にある。最初からそこにあれば、今日の問題は起きなかった。

 俺はパンを包み紙へ戻し、汚れていない指で角を押さえた。

「現場に来るまでに、書き換わったんですか」

「変更履歴には、管材の規格変更とだけあるわ。接続変更の記載はない。写し間違いなのか、変更した人が影響を理解していなかったのか、まだ分からない」

 昨夜、試験問題で見た二重線が、目の前の紙にもあった。貼り合わせた図を写したために残った、ごく細い境目。

 ベルティーユは、さらに別の図面を広げた。冷却庫、石壁の補強、二人で維持する結界。どれも見覚えがあった。今朝、俺が封筒へ入れた赤い字の下に、よく似たものが並んでいたからだ。

「残りの六問にも、元になった設備がある?」

 俺が尋ねると、彼女は頷いた。

「すべて、今年の冬までに使われる予定の設備よ。まず危険なものから、止める必要があるか調べたい」

 風が川面を渡り、紙の端を持ち上げた。俺は手のひらで押さえた。水門小屋の中では、さっきの見習いらしい若者が、乾いた踏み板を元に戻している。

 試験問題の間違いを知らせて帰るだけのつもりだった。

 けれど、返した紙の向こうに、まだ立っている人がいる。冷却庫で荷を運ぶ人、補強された壁のそばを歩く人、二人分の結界を一人で支えようとする人。その誰もが、自分の足元の図面に赤い線が要るとは知らない。

「七日間、お引き受けします。故郷へ、帰りが延びる手紙を出してもいいですか」

「もちろん。あと、必要な道具があれば書いて。先に支給する」

 俺は道具袋の中を確かめた。錫棒、替えの刃、測り糸。いくつか補充したいものはある。それでも、まず思い浮かんだものを口にした。

「赤インクを、一瓶お願いします。見本の残りでは、もう足りないので」

 ベルティーユは濡れた袖口を見て、それから俺の指先に残った赤い染みを見た。

「一瓶と言わずに用意するわ。今度は、こちらの予算で」

 彼女の差し出した依頼書へ、俺は名前を書いた。合格通知ではなかったが、銀貨十四枚になる自分の署名は、思っていたよりずっと頼もしく見えた。

 最後に日付を入れ、乾くまで待っていると、図面の束のいちばん下から、黒い表紙が覗いた。

『冬季御前式典 大結界運用計画』

 その表紙にも、同じ四角い承認印が押されていた。


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