第五話 嵐:母は何も言わなかった。
第五話では、台風の夜に母が工房を訪ねてくる話です。
停電の中、懐中電灯の光で母は深い青を見た。何も言わなかった。その沈黙が、凪にとって一番届いた言葉でした。よろしければお付き合いください。
台風が来るという予報が出たのは、八月の終わりだった。
集落の人たちは慣れた様子で窓に板を打ちつけ、外に出ていた鉢植えを取り込み、早めに店を閉めた。凪も工房の窓を養生テープで補強して、材料を棚の奥にしまった。
夕方、雨が強くなり始めたころ、引き戸が開いた。
母だった。
「夕飯、食べてないでしょ?」
タッパーを持っていた。中身は、炊き込みごはんだった。
「来なくてよかったのに」
「どうせ一人で食べないから」
母はそう言って、勝手に台所を探してお椀を二つ出した。
凪は何も言わなかった。
---
二人で食べた。
外では風が強くなっていた。雨が窓を叩く音が、だんだん大きくなった。
母は工房の中を、特に何も言わずに見回していた。壁に掛けてある作品。作業台の上の道具。
「売れてるの?」
「少しずつ」
「実家に帰ってきたらいいのに」
「ここの方が海が近い」
母は「そう」と言って、ごはんを食べた。
余計なことを言わない人だった。昔からそうだった。凪が石を引き出しに貯め込んでいたとき、「また持ってきたの」と言いながら、捨てろとは一度も言わなかった。東京に行くと言ったとき、反対しなかった。戻ってくると言ったとき、理由を聞かなかった。
ただ、炊き込みごはんを持ってきた。
---
食べ終わったころ、停電した。
一瞬で、工房が暗くなった。
母が「あら」と言った。
凪は懐中電灯を探して、棚の引き出しを開けた。
光が戻ったとき、母は作業台の前に立っていた。
深い青を手に取っていた。
懐中電灯の光の中で、色が変わった。暗い青が、揺れた。
母はしばらく、何も言わなかった。
「これ」
短く言った。
「うん」
「いつから、こういうの作るようになったの?」
「最近」
母はもう少しだけ、それを見ていた。
それから、そっと作業台に戻した。
何も言わなかった。
凪も、何も言わなかった。
外では嵐が、工房全体を揺らしていた。
---
母が帰ったのは、嵐が少し落ち着いた夜中だった。
「気をつけて」
「あなたもね」
引き戸が閉まった。
凪は一人になった。
懐中電灯を作業台に置いて、深い青を手に取った。
母は何も言わなかった。
「きれい」とも、「暗いね」とも、「沖縄の海みたい」とも。
ただ、見ていた。
凪はしばらく、そこにいた。
観光客は「沖縄の海みたい」と言った。真奈は「暗いね」と言った。母は何も言わなかった。
三人とも、間違っていなかった。
ただ、母だけが——言葉にしなかった。
言葉にできないものを、言葉にしなかった。
凪は深い青を、窓際に持っていった。
嵐の夜で、外は真っ暗だった。海も、空も、見えなかった。
でも音がした。
波の音と、風の音と、雨の音が、全部混ざって、工房の壁を叩いていた。
整理されていない音だった。
凪はその音の中に立って、深い青を持ったまま、ただそこにいた。
言葉にならなかった。
でも、わかった気がした。
なぜ戻ってきたのか。
なぜここでなければ作れないのか。
それを言葉にできないことまで含めて。
凪は深い青を、作業台の隅に戻した。
灰色の石の、横に。
外では嵐が続いていた。
工房の壁が、また揺れた。
読んでいただきありがとうございます。
観光客は「沖縄の海みたい」と言い、真奈は「暗いね」と言った。母は何も言わなかった。三人とも間違っていない。でも母だけが、言葉にできないものを言葉にしなかった。そこに凪の答えがありました。
次話、最終話です。よろしければお付き合いください。




