第三話 におい:体が先に、知っていた。
第三話では、凪が帰省した夜の話を描きます。
夜中に一人でホテルを出て、気がつくと海沿いに立っていた。言葉にはならない。でも体が先に、何かを知っていた。よろしければお付き合いください。
昨夜、凪は初めてその色を型に流し込んだ。
混ぜているとき、手が止まりそうになった。暗すぎる。重すぎる。東京にいた頃なら、ここで別の顔料を足していた。明るくして、売れる色に近づけていた。
でも今回は、足さなかった。
型に流し込んだら、止まらなかった。
液体の青が、ゆっくりと広がった。
東京では一度も作れなかった色だった。材料は同じだった。技術も同じだった。でも、あの頃の凪には、この色を流し込む理由がなかった。
作業台の隅に置いてある石を見た。
灰色で、平たくて、輝かない石。
浜で拾ったとき、あれほど光っていたのに。
翌朝、深い青はまだ固まっていなかった。
凪は作業台の前に座り、型の中を覗いた。表面が、かすかに揺れている。触ってはいけない時間だった。
ただ、見ていた。
外では雨が降り始めていた。
波の音が、いつもより低かった。
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あの日も、雨だった。
五年目の春、結婚式のために沖縄に帰った。二次会が終わったのは夜の十時過ぎで、凪は一人でホテルに戻った。
翌日の便で東京に戻る予定だった。
眠れなかった。
昼間、空港を出たときのあのにおいが、まだ体のどこかに残っている気がした。
夜中の二時に、凪はホテルを出た。
雨は上がっていた。
気がつくと、海沿いに出ていた。
波の音がした。
低くて、重くて、整理されていない音だった。風と、波と、遠くの車と、誰かの話し声と、全部が混ざっていた。東京では聞いたことのない混ざり方だった。
肌に、湿気がまとわりついた。
重くて、温かくて、体の内側まで入ってくるような湿り気だった。
これだ、と思った。
何がこれなのか、まだわからなかった。でも体が知っていた。
波が打ち寄せた。
引いた。
また来た。
東京に戻る飛行機は、朝の九時だった。
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作業台の上で、樹脂がゆっくりと固まっていく。
雨が窓を叩いていた。
今日の海は、型の中の色と同じだった。暗くて、底が見えなくて、きれいとは言いにくい色。
でも凪は、これが見たかった。
あの夜、海沿いで感じたもの。体の中まで入ってきた湿気。整理されていない音。
樹脂の表面に、窓を流れる雨粒の影が揺れた。
完全に固まるまで、まだ時間がかかる。
凪は椅子にもたれ、ただそれを見ていた。
雨の音と、波の音が、窓の向こうで混ざっていた。
読んでいただきありがとうございます。
空港で感じたにおい、夜の海沿いの湿気と音——第二話より一段深い場所で、凪の体が何かを受け取った話でした。
次話では、東京の友人たちが工房を訪ねてきます。




