魔物よりも塩が大事
「……魔女?」
男は呆然とした。
隣にいた若い冒険者も、信じられないといった様子で身を乗り出す。
「君が言っているのは……童話に出てくる、あの魔女のことか?」
「童話?」
アリシアは不思議そうに首を傾げた。
「森の奥深くに一人で暮らし、不思議な古代魔法を操る、吟遊詩人たちによって各地で語り継がれている謎めいた存在だよ!」
「ああ……」
アリシアは少し考え込んだ。
「たぶん、そんな感じかな? でも、森の奥の小屋には住んでいないよ。今は洞窟暮らしだから」
「……」
冒険者たちは互いの顔を見合わせ、そろって言葉を失った。
『魔女』。
それは、この大陸で何百年もの間語り継がれてきた、幻のような存在だった。
ある者は天災を自在に操ると言い、ある者は神々すら凌駕する力を持つと言う。
しかし、その一方で、酒場で子供を怖がらせるための作り話にすぎないと考える者も多かった。
何しろ、魔女を実際に見たという人間は、これまで一人もいなかったのだから。
まさか、こんな寂れた峡谷で、自らを魔女と名乗る少女に出会うことになるとは。
しかも彼女は、精鋭部隊ですら壊滅しかねない凶悪な魔物を、杖を振っただけで封じ込めてしまったのだ。
「き、君は……本当に魔術師じゃないのか?」
男は念を押すように尋ねた。
「本当に違うよ?」
アリシアは当たり前のように答える。
「魔術師って何?」
「魔術師も知らないのか!?」
「魔法なら知ってるよ。それと何か関係があるの?」
「……」
男はこめかみを押さえた。
自分の常識が、目の前の少女によって猛烈な勢いで揺さぶられている気がする。
彼は深く息を吐き、これ以上この哲学的な問題を追及するのは諦めた。
「とにかく……助けていただき、本当にありがとうございます。あなたが手を貸してくれなければ、俺たちは全員ここで命を落としていたでしょう」
「どういたしまして。みんな、大きな怪我がなくてよかったね」
アリシアは気にした様子もなく、ひらひらと手を振った。
そして手元の紙切れに目を落としたところで、何か大切なことを思い出したように、ぱっと表情を明るくする。
「あ、そうだ! この近くに町はある?」
「町?」
「うん! 塩や胡椒、砂糖に小麦粉が買えるような、大きな町がいいな。あ、それと鉄鍋や綺麗な布を売っている雑貨屋さんもあったら嬉しい!」
少女は真剣な顔で、必要な生活用品を一つずつ指折り数えている。
冒険者たちは、再び長い沈黙に包まれた。
つい先ほどまで、常識を超えた神秘的な存在に出会ったと思っていたのに。
その伝説の魔女が恐ろしい魔物を倒した理由は、どうやら塩を買いに行くためだったらしい。
「そ、その……あります」
先頭の男は呆気に取られたまま、峡谷の反対側にある険しい斜面を指差した。
「あの山道を登って、前方にある廃鉱区を抜ければ、最寄りの町が見えてきます。歩いて半日ほどでしょう」
「半日かぁ……」
アリシアは頭の中で時間を計算する。
「急げば、日が暮れる前に買い物を済ませて帰れそうだね」
「ま、待ってください!」
立ち去ろうとした彼女を、男が慌てて呼び止めた。
「どうしたの?」
男は、恐る恐る岩牢へと視線を向けた。
岩脊暴犀は今も内部で激しく体当たりを繰り返している。
しかし、そのたびに岩壁の表面に淡い青色の波紋が広がるだけで、牢そのものはびくともしなかった。
「この魔物は……このまま放置しても大丈夫なんですか? もし脱出したら……」
「ああ、それなら心配しなくて大丈夫だよ」
アリシアは笑顔で答えると、何気ない動作でもう一度石牢に魔力を送り込んだ。
「これで補強できたから。上にかけた魔力が自然に消えれば、あの子も勝手に出ていくと思うよ」
「消えるまで……どれくらいかかるんですか?」
アリシアは首を傾げ、少し考えてから答えた。
「三日か四日くらいかな?」
冒険者たちは、またしても沈黙した。
鋼鉄のような強さを誇る精鋭部隊ですら簡単に踏み潰してしまう岩脊暴犀を、三、四日も閉じ込めておく。
それなのに、彼女の口調はまるで自宅の玄関先に小さなネズミ捕りを仕掛けたかのように気軽だった。
「それじゃあ、私はそろそろ行くね。道を教えてくれてありがとう!」
アリシアは買い物リストを大切そうに布袋へしまうと、冒険者たちに楽しげに手を振った。
そして、軽やかな足取りで山道へと向かっていく。
少女の姿が岩陰に消え、完全に見えなくなったところで、ようやく緊張の糸が切れた。
五人の冒険者たちは、その場にへたり込み、そろって大きく息を吐いた。
「隊長……」
若い冒険者が、まだ呆然とした様子で呟く。
「あの人、本当に伝説の魔女なんでしょうか……?」
先頭の大男は、すぐには答えなかった。
ただ、岩脊暴犀が何度も体当たりを繰り返しているにもかかわらず、微動だにしない巨大な岩牢をじっと見つめていた。
その表面には、今も神秘的な青い光が淡く揺らめいている。
やがて男は、ひどく真剣な表情で口を開いた。
「魔女かどうかは分からん……」
一度言葉を切り、彼は仲間たちを見回した。
「だが、これだけは覚えておけ。今後、どこであの嬢ちゃんに出会っても、絶対に……絶対に手を出すな」
一方、その頃。
峡谷の向こう側では、アリシアが鼻歌交じりに町へ続く山道を歩いていた。
「塩に胡椒、砂糖……あっ、それから大きな鉄鍋も必要だね」
買い物リストを確認しながら、彼女は自分の薄っぺらな財布をぽんぽんと叩く。
「町の雑貨屋さん、安く売ってくれるといいなぁ」
先ほどまで峡谷を騒がせていた、あの恐ろしい巨大魔物のことなど、もうすっかり頭から抜け落ちていた。
彼女にとって、檻に閉じ込めた野生の巨大サイよりも、今夜の料理に使う調味料が足りなくなることのほうが、よほど重大な問題だったのだから。
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