伝説の魔女
「逃げろおおおおおおっ!」
耳をつんざくような悲鳴が、静まり返った峡谷に響き渡った。
アリシアが岩壁の通路を抜けた、その直後。
目の前から、五人の冒険者たちが転がるように駆け込んできた。
全員の鎧はボロボロで、そのうち一人は片腕を失い、血に染まった包帯を巻いている。別の一人に至っては武器すら手放し、何度も背後を振り返りながら必死に走っていた。
「おい! そこのお嬢ちゃん! 早くどけ!」
先頭を走っていた大柄な男は、アリシアの姿を見た途端、顔を真っ青にして叫んだ。
「後ろに魔物がいるんだ! 邪魔するな!」
「魔物?」
アリシアは不思議そうに、男が指差した方向へ視線を向けた。
ゴゴゴゴゴ……!
通路の奥から、重苦しい轟音が響く。
直後、滝のような勢いで大量の岩石が崩れ落ちた。
舞い上がる砂煙を突き破り、巨大な何かが峡谷へと姿を現す。
その身体は、灰黒色の分厚い甲殻に覆われていた。
四肢は岩柱のように太く、背中には鋭く突き出した無数の骨棘が並んでいる。
そして何より目を引くのは、額から伸びる巨大な骨角だった。暗赤色の光を帯びたその角は、不気味な輝きを放っている。
一歩踏み出すたびに大地が揺れ、地面には幾筋もの亀裂が走った。
「岩脊暴犀だ! くそっ、追いつかれたぞ!」
冒険者たちは足を止めることなく、互いを引っ張りながら逃げ続ける。
「走れ! あんな化け物、人間が相手にできるもんか!」
「でも、前に女の子がいるぞ!」
「今は構ってる場合じゃない! 全員死にたいのか!」
吹き荒れる風の中、冒険者たちはアリシアの脇を慌ただしく駆け抜けていった。
アリシアは迫り来る巨獣を眺め、それから手元にある、少し皺の寄った買い物リストに目を落とした。
『塩、胡椒、砂糖、小麦粉……』
「うーん……」
彼女は小さく首を傾げ、独り言を漏らした。
「こんなに大きい子が森に入ったら、畑を踏み荒らされちゃうよね……」
まるでその言葉に反応したかのように、岩脊暴犀が勢いよく頭を下げた。
額の骨角が、突如として眩い暗赤色の光を放つ。
四本の脚が大地を蹴り、巨体が一気に加速した。
まるで巨大な攻城槌のような勢いで、岩脊暴犀がアリシア目掛けて突進してくる!
「危ない――!」
遠くで見ていた冒険者たちが、思わず悲鳴を上げた。
だが、肉塊にされてもおかしくないほどの突進を前にしても、アリシアは慌てることなく、手にした木製の杖を静かに持ち上げた。
「解析」
彼女の瞳の奥で、淡い青色の光が瞬いた。
次の瞬間、魔力の流れ、筋肉の収縮、骨甲の亀裂が生じる位置、さらには四肢が力を込めるわずかな順序まで、無数の線となって視界に浮かび上がる。
すべてが、まるで目の前に図解されているかのように見えていた。
「なるほど、そういう仕組みなんだ」
納得したように頷くと、アリシアは杖の先を軽く地面に当てた。
コツン。
轟音もなければ、眩い魔法陣が浮かび上がることもない。
だが、その瞬間。
岩脊暴犀の足元が、何の前触れもなく盛り上がった。
ズドンッ! ズドンッ! ズドンッ!
数十本もの太い岩柱が地面を突き破り、次々と巨獣の四肢に絡みつく。
突進の勢いは止まらない。
巨体が前方へと滑り、巨大な骨角が地面を深々と削り取った。
ギャリギャリギャリッ!
耳障りな摩擦音とともに、火花が幾筋も散る。
「グオオオオオッ!」
岩脊暴犀が怒りの咆哮を上げ、身体を激しく揺さぶった。
しかし、暴れれば暴れるほど岩柱は強く食い込み、硬い甲殻を伝って上へと伸びていく。
アリシアは手首を軽く返し、もう一度杖を振った。
すると、重厚な岩柱がまるで生き物のように動き始めた。
互いに絡み合い、交差し、瞬く間に巨獣を包み込んでいく。
あっという間に完成したのは、巨大な石牢だった。
岩肌の表面を淡い青色の魔力が水のように流れ、薄い光の粒となって周囲を漂っている。
見た目こそ繊細だが、その牢獄はびくともしない。
岩脊暴犀の咆哮が、唐突に途切れた。
石牢の内側に、くぐもった唸り声だけが響く。
峡谷は、一瞬にして死んだような静寂に包まれた。
遠くにいた五人の冒険者たちは、まるで石像にでもなったかのように立ち尽くしていた。
目の前にそびえ立つ巨大な石牢。
そして、その前に何事もなかったかのように立つ銀灰色の髪の少女。
彼らは交互にそれらを見比べるばかりだった。
「い、今のは……何だったんだ?」
「どの階級の魔術だ? あんなもの、吟遊詩人の歌にも出てこないぞ……」
「いや……詠唱すらしていなかった……」
先頭の大男は、喉を鳴らしたまま言葉を失っていた。
岩脊暴犀は、彼らを三十分以上も追い回していた魔物だ。
小隊の全員が持てる力を振り絞って攻撃しても、その甲殻には白い傷ひとつ付けられなかった。
それなのに、目の前の少女は、杖をたった二度振っただけで封じ込めてしまったのだ。
しかし、アリシアは彼らの驚きなど気にも留めていなかった。
石牢のそばまで歩いていくと、その場にしゃがみ込み、しばらく中の様子を観察する。
「うん、怪我はしてないね。ちょっと動けなくなっているだけみたい」
岩壁に手を伸ばし、満足そうにポンポンと叩いた。
「これなら大丈夫そうだね」
石牢の中から、岩脊暴犀が不満そうに低く鳴いた。
「はいはい、元気なのは分かったから」
アリシアはまるでペットをあやすように、牢の向こうへ軽く手を振る。
それから手についた砂埃を払い、ゆっくりと立ち上がった。
振り返ると、先ほどの冒険者たちはまだ同じ場所に立ち尽くしていた。
恐怖と畏敬、そして困惑が入り混じった視線が、彼女に注がれている。
「……どうかしたの?」
アリシアが不思議そうに瞬きをする。
「き、君は……高位の大魔術師なのか?」
大男は、ようやく絞り出すように尋ねた。
「違うよ?」
「じゃあ、君の職業は……?」
「魔女だよ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
この作品を「面白かった!」、「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ブックマーク登録や、下の「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」にして評価していただけると嬉しいです。
皆さんからの評価や感想が、執筆の励みになります。
これからも楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張りますので、よろしくお願いします!




