第五話 私たちは何度でも恋をする
涙で視界が歪んだ。
「ひどいです……」
「言い訳のしようもない」
「私は、本当に苦しかったのに」
「すまない」
「あなたが私を忘れてしまってから、もう二度と戻れないのだと思って……」
「すまない、エラ」
彼の手が、私の背中をゆっくり撫でられる。
懐かしい動き。
記憶がなくても、同じように触れるのだと思うと、また涙が出た。
父が低く咳払いをした。
私は慌てて身を離そうとしたが、アベルの腕は緩まなかった。
「アベル殿」
「はい」
「私は、まだ君に言わねばならぬことが多くある。だが、その前にひとつだけ確認したい」
「何でしょうか」
「記憶が戻らずとも、エラを妻に望むか」
広間が静まり返った。
アベルは迷わなかった。
「はい。望みます」
「今のエラを憐れんでいるのではないな」
「違います」
「過去の責任を取ろうとしているだけでもないな」
「違います」
アベルは私の手を握り直した。
「僕は、今ここにいるエラを愛しています。記憶が戻っても戻らなくても、その答えは変わりません」
父は長く目を閉じ、深く息を吐いた。
「ならば、二人の結婚を認めよう」
母が声をあげて泣いた。
クライゼル子爵夫人も目元を押さえている。子爵は何度も頷きながら、アベルへ視線を向けた。
「愚息には過ぎた方だ」
「父上」
「だが、二度も惚れたなら仕方あるまい」
その言葉に、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
アベルは苦笑した。
「二度目で終わるつもりはありません」
「何度目があるというのだ」
「記憶が戻らなければ、毎朝でも」
私は涙で濡れた顔のまま、思わず笑ってしまった。
アベルが私を見て、少し驚いたように瞬きをした。
「今の顔は、覚えておきたい」
「今の顔?」
「笑った顔だ」
そう言われると、頬が熱くなった。
公爵令嬢だった頃の私なら、こんな泣き腫らした顔を人前に晒すことなどなかった。
けれど今は、隠す余裕もない。
「ひどい顔でしょう」
「いいや」
アベルは静かに首を横に振った。
「一番、綺麗だ。きっと僕は、何度でも君に恋をするだろう」
その後、私は公爵家へ一度戻った。
温かい湯で髪を洗われ、荒れた手に薬を塗られ、柔らかな寝台で眠る。
母は何度も部屋を覗きに来た。父は毎朝、食事をきちんと取ったか侍女に確認していた。
アベルもまた、子爵家で療養を続けた。
彼の記憶は、戻らなかった。
私と出会った舞踏会のことも、庭園で交わした言葉も、駆け落ちの夜の約束も、まだ彼の中にはない。
けれど、彼は毎日手紙をくれた。
今日、庭の薔薇を見た。なぜか君を思った。
薬湯はまだ苦い。君が冷ましてくれたものの方が飲みやすかった。
父に、僕は昔から頑固だと言われた。君は知っていたのだろうか。
次に会う時、君の好きな菓子を教えてほしい。覚えていないのなら、もう一度教えてほしい。
私はその手紙を、何度も読み返した。
失われた記憶は、確かに悲しい。
けれど、彼は空っぽになったわけではなかった。
私たちの過去が消えたのではなく、今はまだ閉じた扉の向こうにあるだけなのかもしれない。
そう思えるようになった。
結婚式は、春の終わりに執り行われた。
私は最高級のシルクで仕立てられた白いドレスを着た。
袖口には小さな真珠が縫い込まれている。母が、売ってしまった髪飾りの代わりにと用意してくれたものだった。
鏡の中の私は、かつての公爵令嬢に戻ったように見えた。
けれど、手のひらにはまだ少し荒れた跡が残っている。
私はそれを隠さなかった。
礼拝堂の扉が開く。
光の中に、アベルが立っていた。
彼は私を見た瞬間、息をのんだ。
そして、泣きそうなほど優しく微笑んだ。
「エラ」
「はい、アベル様」
「今日のことは、忘れたくないな」
「忘れてしまったら、私が何度でもお話しします」
「なら、安心だ」
彼は私の手を取った。
かつて、すべてを捨てて逃げた夜と同じように。
けれど今度は、誰からも隠れない。
祝福の鐘が鳴る。
彼の記憶は、まだ戻っていない。
それでも、私たちはここにいる。
失った日々を嘆くだけではなく、新しい日々を重ねていくことができる。
アベルが私の手をそっと握りしめた。
「エラ」
「はい」
「明日も、君に恋をしていいだろうか」
涙が滲んだ。
けれど今度は、悲しい涙ではなかった。
「はい。何度でも」
彼は笑った。
その笑顔を、私は一生忘れないと思った。
きっと、私も彼に何度でも恋をしてしまう。
最後までお付き合いありがとうございました。
「記憶を失っても、もう一度同じ人を好きになるのかもしれない」と思って書いたお話でした。
エラは身を引くつもりでしたが、アルベルトの方は二度目の恋を始めていました。
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