第四話 本当に確かめたかったこと
声が震えた。
母が立ち上がる。以前より痩せた顔で、私を見つめるその目にみるみる涙が溜まる。
「エラ……!」
母は私へ駆け寄り、抱きしめられると、懐かしい香水の匂いがした。
公爵家にいた頃、毎朝この香りに包まれていた。
胸が詰まり、母の腕の中で立っていることしかできない。
「生きていてくれた……よかった……本当に、よかった……」
「お母様……怒って、いないのですか」
「怒るものですか。あなたがいなくなってから、どれほど探したと思っているの」
父がゆっくり近づいてくる。
厳しい顔は変わらない。けれど、その目の奥は赤かった。
「エラ」
「はい……」
「すまなかった」
父が頭を下げられ、私は呆然とした。
公爵である父が、娘に頭を下げるなど、ありえない。
「お父様、やめてください」
「やめぬ。私はお前の話を聞かなかった。アベル殿の人柄を見ようともせず、身分だけで退けた。その結果、お前たちを追い詰めた」
「違います。私が勝手に」
「勝手に出ていくほど、お前を追い詰めたのだ」
父の声がかすかに震えた。
「行方が知れなくなってから、ずっと探していた。だが見つからなかった。死んでいるかもしれぬと、何度も思った。……そんな時、クライゼル子爵家から連絡が来た」
父の視線が、アベルへ向く。
「アベル殿が手紙を寄越したのだ。エラという名の女性がいる。使用人と名乗っているが、立ち居振る舞いも筆跡もただの使用人とは思えない。もしや、行方不明の令嬢ではないか、と」
振り返ると、アベルは静かに立っていた。
「アベル様……」
「すまない。君のことを調べた」
「いつから……」
「最初から、少しおかしかった」
彼は私の前へ歩み寄った。
「目が覚めた時、君は僕を見て泣いていた。使用人が主人を心配する涙ではなかった」
私は唇を噛んだ。
「君は僕の好みを知っていた。薬湯の苦味を消すために蜂蜜を少し入れた。僕が熱いものを飲むのが苦手だと知っているように、必ず少し冷ましてから渡した」
「それは」
「君はいつも、自分の食事を僕の皿へ移していた。僕が気づかないふりをしていると思っていただろう」
言葉が出なかった。
「夜中に咳を殺していたことも知っている。毛布を渡すと、泣きそうな顔で礼を言ったことも。手が荒れているのに、僕の包帯だけはいつも丁寧に結び直していたことも」
彼の声は静かだった。
けれど、ひとつひとつの言葉が、胸の奥へ落ちていく。
「僕は、君を覚えていない」
その言葉に、現実へ引き戻された。
そうだ。彼は覚えていない。
今、どれほど優しい言葉をくれても、私たちの過去は彼の中にない。
「けれど、目が覚めてからずっと、僕は君を見ていた」
アベルは私の荒れた手を取った。
逃げようとしたのに、できなかった。
彼の指は、以前より少し痩せていた。けれど、温かかった。
「記憶の中に君はいなかった。だが、君が手を離そうとするたび、なぜか怖くなった。君が頭を下げるたび、胸が痛んだ。君が使用人だと言うたび、違うと叫びたくなった」
「アベル様……」
「医師には、頭の怪我と心の負荷が重なっているのだろうと言われた。君に関する記憶だけが、閉ざされているのかもしれないと」
彼は自嘲するように笑った。
「情けない話だ。君を守るために家を出たはずなのに、君に苦労をかけて、その記憶まで失った」
「違います。私が、あなたについて行くと決めたのです」
「それでも、君は一人で背負いすぎた」
彼は私の手を両手で包み、荒れた指の甲へそっと唇を落とした。
かつて、公爵家の庭園でそうしてくれた時と同じように。
私は息を吸うことも忘れた。
「僕には、君と過ごした日々の記憶がない。君が笑った声も、君が怒った顔も、君と交わした約束も、まだ思い出せない」
彼は顔を上げ、まっすぐに私を見た。
「だが、目が覚めてからの僕は、もう一度君に恋をした」
涙がこぼれた。
止めようとしても、止まらない。
「なぜ……私はこんな姿なのに」
「こんな姿などと言うな」
彼の声が、少しだけ強くなった。
「君は僕のために生きていてくれた。その手も、痩せた頬も、継ぎはぎの服も、すべて僕を見捨てなかった証だ。僕が恥じることはあっても、君が恥じるものではない」
「でも、私は嘘をつきました」
「ああ」
「あなたの恋人だと、言えませんでした」
「言えなかったのだろう。そうさせたのは僕だ」
その一言で、胸の奥に押し込めていたものが崩れた。
言えなかった。
名乗れば、拒まれるかもしれなかった。
信じてもらえなければ、彼の中に残っているかもしれない何かまで壊してしまいそうだった。
私は彼を失うのが怖かった。
二度も。
「怖かったのです……」
「ああ」
「あなたに知らないと言われて、私、どうしていいかわからなくて……」
「ああ」
「あなたが戻る場所へ帰れるなら、その方がいいと思いました。私と出会わなければ、あなたはこんな目に遭わなかったから」
「エラ」
アベルは私を抱き寄せる。
その腕は、少し痩せていたけれど、確かに彼だった。
「君と出会わなければよかったなど、一度も思っていない。たとえ今の僕が覚えていなくても、過去の僕は必ずそう言う」
私は彼の胸に額を押し当てた。
懐かしい匂いがした。彼自身の温かい匂い。
「アベル様……あなたには、確かめなければならないことがあると……」
「ああ」
「それは、私ではない誰かのことだと」
「君のことだ」
彼は少し困ったように笑った。
「君が何者なのか。なぜ、僕を見てあんな顔をするのか。なぜ、僕が君を放っておけないのか。それを確かめたかった」
「では、好きな人がいるというわけでは」
「いる」
胸がひやりとした。
顔を上げると、アベルは私を見ていた。
「目の前に」
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