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【完結】記憶喪失で私だけを忘れた恋人のため、使用人として身を引かせていただきます  作者: 木風


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第三話 あなたが帰るべき場所

四日目、アベルはようやく短い時間なら起き上がれるようになった。

私は彼に頼まれ、子爵家へ手紙を書く準備をした。

紙も封蝋も残っていなかったので、大家の老婦人に頼み込み、古い便箋を一枚分けてもらった。


「君は字が書けるのか」


机代わりの箱の上に紙を置いた時、アベルが尋ねた。


「多少は」

「使用人なのに?」

「……以前、お仕えしていた家で教わりました」


我ながら苦しい言い訳だった。

アベルは何も言わず、私がペンを持つ手を見ていた。


「代筆を頼めるか」

「はい。何とお書きしますか」


彼は少し考えた。


「アベル・クライゼルは生きている。頭を負傷し、この街で保護されている。迎えを寄越してほしい」

「はい」


私は一字ずつ書いた。

久しぶりにまともな手紙を書いたせいか、手が震える。

公爵家で叩き込まれた筆跡は、どれほど隠そうとしても完全には消えない。

書き終えた紙を差し出すと、アベルはじっとそれを見つめた。


「綺麗な字だな」

「恐れ入ります」

「使用人の字ではない」


呼吸が止まりかけた。


「……以前の奥様が、作法に厳しい方でしたので」

「そうか」


彼は封を閉じた。けれど、その目はまだ私を疑っているようだった。


「エラ」

「はい」

「僕は実家へ戻る」

「さようでございますか」


わかっていたことなのに、胸が空っぽになった。


彼は帰る。

私と出会う前の世界へ。


私一人なら食い扶持はなんとでもなる。

そして彼は子爵家の息子として、温かな部屋と清潔な寝台のある場所へ帰る。


それがいい。その方が、彼は幸せになれる。

私は深く頭を下げた。


「ご回復なされましたら、どうかお元気で」

「何を言っている」

「え?」

「君も来るんだ」


私は顔を上げた。

アベルは、当然のように私を見ていた。


「いいえ、私は」

「君をここに置いていけない」

「ですが、私はただの使用人です。アベル様が実家にお戻りになれば、私の役目は終わります」

「終わらない」


きっぱりと言われた。


「僕には、確かめなければならないことがある」


確かめなければならないこと。

その言葉に、胸の奥が冷たくなった。


きっと、彼には私と出会う前、約束していた相手がいたのかもしれない。

家族が決めた婚約者がいたのかもしれない。

私ではない、思い出した誰かがいるのかもしれない。

私は邪魔になる。


今度こそ、本当に。


「それなら、なおさら私は同行できません」

「なぜ」

「アベル様が確かめるべきことに、使用人の私が立ち会う理由はございません」

「ある」

「ありません」

「僕があると言っている」


強い声。

だが、怖くはなかった。

怖いのは、その声に縋りたくなる自分。


「君は僕の命を救った。少なくとも、看病してくれた恩人だ。なのに、この部屋に一人残していくなどできない」

「恩など」

「それだけじゃない」


アベルは言いかけて、息を止めた。

そして、少しだけ苦しそうに眉を寄せる。


「それだけでは、ない気がする」


私は何も言えなかった。

彼の記憶には、私はいない。

それでも、私を置いていけないと言う。

その優しさが、嬉しくて、苦しくなる。


数日後、子爵家から迎えの馬車が来た。

大家の老婦人が、泣きながら私に古い外套を貸してくれた。

私は何度も礼を言い、ほとんど荷物のない部屋を見回した。


ここで、私たちは暮らしていた。

短い間だったけれど、確かに幸せだった。

アベルは私の横に立ち、黙って部屋を見ていた。


「何か、思い出されましたか」

「いや」

「そうですか」

「だが、ここで、君がよく笑っていた気がする」


彼は窓辺へ目を向ける。


息が詰まった。

そこは、私が洗濯物を畳んでいた場所。

窓の外を歩く太った猫を見て、何度も二人で笑った。


「気のせいです」

「そうか」

「はい」


そう答えると、彼はそれ以上聞かなかった。

馬車に乗る時、私は最後にもう一度だけ部屋を振り返った。


何も残っていない。

けれど、何もなかったわけではない。


私は胸の前で両手を握り、馬車へ乗った。

子爵家の屋敷は、記憶の中よりもずっと大きく感じられた。


以前、駆け落ちの前に遠くから見たことがある。

アベルが「あそこが僕の実家だ」と恥ずかしそうに教えてくれた屋敷。

公爵家の邸に比べれば小さいけれど、温かみのある美しい館だった。


馬車が門をくぐると、足が震えた。

彼の家族に会う。


そして、彼の確かめなければならないことを知るのが怖い。

もし、彼に婚約者がいたら。

もし、彼が私を連れてきたのが、ただ恩人としての保護だったら。

もし、私が本当に邪魔者になったら。


胸が苦しくなり、思わず外套の端を握った。


「エラ」

「はい」

「逃げないでほしい」


私は肩を揺らした。


「逃げたりいたしません」

「今、扉が開いた瞬間に走り出しそうな顔をしていた」

「そんなことは」

「また嘘だ」


アベルはかすかに笑った。

記憶を失ってから初めて見る、少しだけ柔らかな笑み。


「君は、本当に嘘が下手だ」


その笑みに、胸が壊れそうになった。


屋敷の広間へ案内された瞬間、私は息を呑む。

そこには、アベルのご両親だけではなかった。

私が捨ててきたはずの、公爵家の父と母がいた。


「お父様……お母様……?」

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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こちらの作品もよろしくお願いしますϵ( 'Θ' )϶
▶ 私の婚約者は優秀なのですが、ときどきどこかおかしい
〜人と熊を対立させて、一番得をするのは鮭だったようです〜
異世界恋愛/ラブコメ/王太子/公爵令嬢/婚約者が残念/鮭/生き物ガチ勢/平和な国
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