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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第8話 父の目

本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は13:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。

 ダルトン家の夕食は、いつも質素だった。


 飾りのない丸いテーブルに二人で向かい合って座り、料理人が作った三品を食べる。今夜はスープと焼いた鶏肉と、季節の野菜の蒸し物だった。父のアレン・ダルトンは食事中にあまり話さない人で、エルナもそれに倣っていた。会話がなくても、気まずくならない。それが父娘の夕食のかたちだった。


 今日のギルドは忙しかった。往診が二件、ギルドでの診察が四件。帰り道で疲れを感じたのか、それとも帰り着いて気が緩んだのか——夕食の席についたとき、エルナの肩はかなり重かった。


 ただ今夜は、いつもより父の視線を感じた。


「最近、顔色が悪いな」


 スープを飲んでいたところで、父が静かに言った。


 エルナはカップを置いた。


「そうですか。気をつけます」


「気をつけると言っても——体の調子が悪いのか」


「いいえ、体は問題ありません。少し睡眠が浅かっただけです」


「そうか」


 父はそれ以上追わなかった。エルナも続けなかった。二人でしばらく、食事を続けた。蝋燭の明かりがテーブルを照らしていた。外から夜風の音が聞こえた。


 父は今年で四十八歳になる。穏やかな性格で、仕事は丁寧で、家臣から信頼されている。社交的ではないが、礼儀はきちんとしている。母が早く亡くなってからは一人でエルナを育てた。薬師の勉強がしたいと言ったとき、「やりたければやれ」とだけ答えた。余計なことを言わない人だった。余計なことを聞かない人でもあった。だから今夜の「顔色が悪いな」は、珍しい問いかけだった。


 しばらく沈黙が続いてから、父がパンをちぎりながら言った。


「クロード殿とは、どうだ」


 エルナはカトラリーを皿の端に揃えた。


「変わりありません」


「変わりない、か」


 繰り返すだけで、感想は言わなかった。


「……少し、疲れているかもしれません」


 自分でも驚いた。「大丈夫です」で止まるはずの言葉が、一行余計に出てきた。父の前では、少し気が緩むのかもしれない。婚約者の前でも、令嬢たちの前でも、ギルドの仲間の前でも言えないことが、なぜか父の前だと出てくる。疲れていると言っただけで、何も解決しない。でも言えたということが、今日は少しだけ軽くなる気がした。


 父は顔を上げなかった。スープをすくいながら「そうか」と言った。その「そうか」が、責めていなかった。ただ受け取った、という返事だった。


「クロード殿のことで疲れているのか」


「……そういうわけでは、ありません」


「そうか」


 また同じ返し方だった。踏み込んでこない。エルナはその距離感に、少し安堵した。詮索されるより、こちらの方がいい。


「お前には、選択肢がある」


 唐突に父が言った。


 エルナは父の顔を見た。父はスープを見たままで、こちらを向いていなかった。


「薬師の仕事を持っていて、ギルドに評価されている。伯爵家の娘だ。どんな状況になっても、お前が望むなら、なんとかできる。困ったことがあれば言いなさい」


「……」


「それだけだ。聞かせてもらいたいわけではない」


 父は淡々とした口調で言って、パンをちぎった。エルナはしばらく何も言えなかった。「選択肢」という言葉が指すものを、直接尋ねる気にはなれなかった。でも、その言葉が持つ意味は確かに届いた。父はエルナが疲れていることを、どこかで察している。そして「なんとかできる」と言っている。


 これは「なんとかしようか」ではなく、「なんとかできる」だ。エルナが望めば、動く。そういう意志の表明だ。父はそういう人だった。助けを押しつけない。ただ、できると言ってくれる。できると知っていれば、人は少し楽になれる。薬師の仕事をしていても、それを実感することがある。「治せる」と言われるより、「治せるかもしれない」と言われた方が、患者は安堵することがある。確実でない希望でも、それがあるだけで違う。


「ありがとうございます」


 エルナは静かに言った。


「なんのことだ」


 父はとぼけた顔をした。それ以上は何も言わなかった。


 食事が終わり、父は書斎に戻った。エルナは後片付けを手伝ってから、自室に上がった。


 机の前に座って、帳面を開いた。


「父様との夕食。顔色を指摘される。体調は問題なし。父様より、『お前には選択肢がある』との言葉あり。選択肢——その意味をまだ整理できていない」


 書いてから、しばらく止まった。


 選択肢がある——何年もそれを信じられなかった。侯爵家が相手では、伯爵家から婚約解消を申し出ることに大きな壁がある。それを知っているから、「婚約を壊す」という発想が出てこなかった。でも父は「なんとかできる」と言った。


 もし本当に動くとしたら——その話を父に全部話す日が来るかもしれない。二年間の記録のことも、テレーズのことも、クロードへの気持ちが変わりつつあることも。話せる日が来るかもしれない。まだではないが、その日は思ったより遠くないかもしれない。父が「なんとかできる」と言ってくれた。その言葉を、今日は信じておこうと思った。


 その言葉が、今夜の空気の中に静かに置かれていた。エルナはしばらく窓の外を見てから、帳面を閉じた。明日も、ギルドの仕事がある。今日と同じように、仕事をする。

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