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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第66話 あなたがいてくれて、本当によかった

 翌日の夕方、薬草庫を出たところで、ライナルトが廊下にいた。


 待っていたのか、通りかかったのか、わからなかった。ライナルトが「少し時間があるか」と言った。


「はい」


 廊下の奥、窓際に二人で立った。昨日の朝と同じ場所だ。外は夕の光が差していた。辺境の秋の光は低い。山の稜線が窓の向こうに見えた。空が少し赤い。城館の廊下は静かで、誰も通らなかった。


「昨日、「また話す」と言った」ライナルトが言った。


「はい」


「……あの場では、ああ言うしかなかった、というのは——」ライナルトが少し間を置いた。「正確ではない」


 エルナは黙って待った。続きがある、とわかっていた。


「「医療顧問だから引き留めた」というのが、唯一の理由ではない。あなたがリンダル男爵のもとに行くことが——」また間があった。「考えられなかった」


 廊下が静かだった。外の光が少し揺れた。雲が動いているのだろう。ライナルトが窓の外を見た。それから、エルナを見た。


「あなたがここにいてくれて——」ライナルトが言った。「本当に、よかった」


 その言葉が、廊下に落ちた。


 エルナは何も言えなかった。言葉が出てこなかった。珍しいことだ。エルナは言葉が出ないことがない。薬師として、正確に言葉を選ぶのが習慣だ。患者に「下がります」と言えた。フリスに「前兆だと仮定して動きます」と言えた。ライナルトに「確認が必要です」と言えた。でも今日は、言葉が出なかった。


 「あなたがいてくれて、よかった」——その言葉が、今まで誰かから受け取ったことがなかった種類の言葉だとわかった。婚約者からも、父からも、仕事を評価する言葉や、感謝の言葉は受け取ってきた。でも「いてくれて、よかった」は違う。「あなたがここにいる」という事実そのものへの言葉だ。存在への言葉だ。


 「本当に」という言葉も聞こえていた。この人が強調語を使う場面を、エルナは見たことがなかった。常に過不足がない言葉を使う人だ。その人が「本当に」と言った。「本当に」がある言葉は、その人にとって最大の言葉だ。この人の「本当に」は、多くの人の「とても」より重い。それがわかるほど、エルナはこの二ヶ月でこの人を見てきた。


 エルナの目が、少し熱くなった。涙は出なかった。エルナは泣く習慣がなかった。でも熱さがあった。二年間のことが、一瞬で浮かんで消えた。クロードに必要とされなかった二年間。「薬師の仕事ではない」場所で動いた二年間。誰かのためになっているのかわからないまま、記録し続けた二年間。それが今日、一つの言葉で答えを受け取った。「いてくれて、よかった」——この言葉は、存在を肯定する言葉だ。仕事を評価する言葉ではない。エルナという人間が、ここにいることへの言葉だ。そんな言葉が来るとは、思っていなかった。


「……」エルナは口を開いた。何も出てこなかった。もう一度、開いた。


「ありがとうございます」と言った。


 その言葉が、今のエルナの全部だった。「ありがとうございます」の中に、今まで誰からも受け取れなかった言葉への、全ての応答が入っていた。感情が言葉を追い越していて、言葉がそれを追いつけていなかった。


 ライナルトが少し、表情を緩めた。エルナはそれに気づいた。この人が表情を緩める場面を、初めてはっきりと見た。笑う、という言葉では正確ではない。固かったものが溶けた、という顔だった。安堵のような、何かが解けたような顔だった。


「言えた」とライナルトが小さく言った。


「はい」エルナは答えた。「受け取りました」


 二人の間に、静かな時間があった。外の光が少し傾いた。廊下が薄暗くなった。


「仕事に戻る」ライナルトが言った。


「はい」


 ライナルトが去った。エルナは廊下に残った。窓の外の山の稜線を見た。辺境の夕方が続いていた。何も変わっていないように見えて、今エルナの中で何かが確定した。その感覚があった。


 夜、帳面を開いた。書こうとして、筆が止まった。今日受け取った言葉を一行に収める言葉が、見つからなかった。「「いてくれてよかった」という言葉を受け取った」とだけ書いた。それ以上は書けなかった。今夜は記録より先に、受け取ることが必要だった。帳面を閉じた。辺境の夜が深くなる。


 明日、エルナはライナルトに返事を言う。「ありがとうございます」では足りない。もう一つの言葉が必要だ。その言葉を、今夜考える。眠れないかもしれない。でもそれでいい。受け取った言葉に、返す言葉を考える夜があっていい。


 辺境の夜が深い。エルナは帳面の表紙に手を置いたまま、しばらくそこにいた。「いてくれてよかった」——その言葉が、空気の中に残っている気がした。廊下の窓から見た夕の光が、まだ目の裏にあった。言葉は短かった。でも短いことが、この人の誠実さだ。必要なことだけを言う人が「本当に」と言った。それだけで十分だ。


 エルナはもう一度帳面を開いた。一行だけ追加した。「本当に——という言葉が残っている。今夜これだけ書けば十分だ。明日、返事を言う」と書いた。帳面を閉じた。燭台を消した。辺境の夜が広がった。その夜は、長かった。でも、眠れなくはなかった。返す言葉は、朝になれば出てくる。そう思えた。

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