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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第6話 一人の散策

本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は7:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。

 クロードから散策の約束を取り付けたのは、十日ほど前のことだった。


「来週の休日、エルナと出かけたい。王都の西側に新しい花市場ができたと聞いた。一緒に行かないか」


 久しぶりに自分に向けられた誘いだったから、エルナは少し驚いた。「はい、ぜひ」と答えた。そのとき確かに、温かいものが胸に戻った気がした。失われたわけではない、ただ埋もれているだけだと思いたかった。


 当日の朝は早く起きた。散策に合った靴を選び、カティに髪を整えてもらった。鏡を見ると、顔が少し明るい気がした。期待しているのか、と自分で思った。期待することを、いつの間にかやめていたのに。


 玄関の呼び鈴が鳴った。カティが出て行き、すぐに戻ってきた。その顔を一目見て、エルナは内容を察した。


「クロード様からのご伝言です。テレーズ様が昨夜から急に体調を崩されて、今朝もまだ床に臥せっていらっしゃるとのこと。本日の散策はご延期させていただきたい、と」


「わかりました。ご伝言をお伝えください。テレーズ様が早くよくなられますよう、と」


 カティが頭を下げた。しかし立ったまま動かなかった。唇を固く結んでいる。何か言いたそうな顔だ。怒っているのだ。エルナのために怒っている。その怒りは受け取れる。でも、言葉にしてしまったら、何かが壊れてしまいそうな気がした。


「天気がいいから、一人で散歩してきます。準備をしてくれますか」


「エルナ様……本当によろしいのですか」


「ええ。もったいないでしょう、こんないい天気」


 カティが深くお辞儀をした。その沈黙の中に、言えなかった言葉が全部入っていた。


 王都の西側に向かって、ゆっくりと歩いた。


 初夏の風が頬を撫でた。空は雲が少なくて、よく晴れていた。石畳が続く通りを、一人で歩く。この道をクロードと並んで歩くつもりだった。彼は歩くのが速いから、ついて行くのが少し大変で、でもそれが嫌ではなかった。五年前の話だ。最後にそうやってゆっくりと歩いたのは、いつのことだったか。思い出せないくらい前のことだ。


 花市場は思った以上に賑わっていた。色とりどりの花が並び、売り子の声が飛び交う。家族連れや仲のいい夫婦、友人同士の令嬢たちが花を選んでいた。エルナは一人で通り過ぎた。二人で来たなら、どれがお好きですかと聞けたはずだ。答えを聞いて、それを買って帰れたはずだ。


 市場の外れに、小さな広場があった。噴水が中央にあって、周りに石のベンチが並んでいる。エルナはそこに腰を下ろした。


 どこで間違ったのだろう、とエルナは思った。


 婚約したのは五年前だ。その頃のクロードは、エルナに丁寧に接していた。誠実で、責任感があって、会うたびに穏やかだった。悪い人ではない。今でもそれは変わっていない。ただ——その誠実さの向く先が、いつの間にか変わっていた。いつ変わったのかわからない。気づいたときには、もうそうなっていた。


 怒ることができないのは、悪意がないからだ。怒るためには「故意に傷つけられた」という実感が必要だ。でもクロードに故意はない。ただ——自分を見ていないだけだ。優先順位の外に、エルナがいるだけだ。怒れない。だから疲れていく。怒れないことの方が、怒れることよりずっと疲れる。


「エルナさん?」


 声がした。顔を上げると、ギルドで顔を合わせることのある令嬢、マリが立っていた。侍女を連れて、花市場の帰りらしい。


「一人ですの?」


「ええ、少し散歩に」


「まあ、素敵。お天気がいいですもの」マリが笑った。屈託のない笑顔だった。「クロード様とご一緒ではないのですか?」


「今日は別々に」


「そうですか。……また機会があれば、ご一緒しましょうね。よいお天気でしたもの、もう少し楽しんでいらして」


 マリは去っていった。悪意のない言葉だった。それがわかっていても、少しの間、ベンチに座ったままでいた。


 答えは出なかった。出ないまま、石のベンチに座っていた。噴水の音が続いている。遠くで子どもが笑っていた。その声が今日はなぜか遠く聞こえた。


 帰り道、薬草を売っている店の前を通った。梅雨向けの薬草が並んでいる。エルナは一束買った。理由はなかった。ただ、何かを手に持って帰りたかった。今日、手に入れたものがこれだけだとしても、それでいい。


 自室に戻り、帳面を開いた。


「散策の約束がまたなくなった。何回目か、もう数えていない。数えることに、意味があると思えなくなっているのかもしれない」


 少し迷ってから続けた。


「どこで間違ったのか、ずっと考えたが、答えは出なかった。出ないということが、今の答えなのかもしれない。怒れない自分がいる。怒れないことの方が、怒れることよりずっと疲れる」


 観察日誌を引き出しから出して開いた。昨日書いた行を見た。


「これだけ積み重なれば、証拠になるかもしれない」


 昨日書いた言葉が、今日も同じ意味で立っていた。今日の出来事も、この積み重なりに加わる。帳面を閉じ、引き出しに戻した。薬草の束が机の端に置いてある。梅雨向けの薬草だ。役に立つものを手に持って帰れた。それだけは、確かだった。明日はギルドで使えるかもしれない。


 夕方の光が差し込んで、机を橙色に染めていた。エルナはしばらく動かなかった。

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