第59話 薬師の仕事ではない
翌日の午後、エルナが薬草庫の整理をしていると、ライナルトが入ってきた。
珍しかった。ライナルトが薬草庫に来ることはなかった。「失礼する」と言って入ってきた。エルナが手を止めると、「続けてくれ」と言った。邪魔しに来たのではない、という言い方だった。薬草庫の中は、乾燥した草の匂いがする。入り口から光が差し込んでいた。整理中の束がいくつか机の上に置かれていた。
「昨夜の話について、一つ確認がある」ライナルトが棚を見ながら言った。「婚約者の幼馴染の体調管理、というのは、どういうことをしていたのか」
「薬を届けたり、症状を記録したり、医師との連絡を取ったりしていました」エルナは答えた。乾燥薬草の束を整理しながら、続けた。「実質的には、患者の日常的な管理を担っていました。その方が「慢性疾患がある」という前提で、診察に立ち会うこともありました」
「診察に立ち会う」
「はい。医師が来るたびに、症状の報告をまとめて伝える役目でした。婚約者の家の依頼だったので、断る立場にありませんでした」
ライナルトが棚から目を離して、エルナを見た。「その方の診察を、あなたがしたことはないのか」
「申し出ましたが、断られました」
「なぜ」
「薬師に診てもらう必要はない、ということでした。医師が来ているから十分だ、と」
ライナルトが少し間を置いた。「それはおかしい」
「……どういう意味でしょうか」
「薬師に診させない理由があるとすれば、診られると困ることがあるからだ」ライナルトが静かに言った。「あなたが気づくことを、恐れていた」
エルナは手を止めた。そう言われると——そうだった。診察を断られた当時、エルナはその理由を深く考えなかった。断られたから、観察することで代替した。断られた理由は、後になって記録の積み重ねで明らかになった。でも「診させない理由があるとすれば、診られると困ることがあるから」——その言葉は、当時のエルナが明言しなかったことを、今日まとめて言語化していた。
「……そうだったかもしれません」エルナは手の中の薬草を見た。「当時は、それが自分の役割だと思っていました。婚約者の家から頼まれた仕事だったので、薬師としての判断より、関係性を優先することが多かった」
「それは薬師の仕事ではない」ライナルトが言った。
短い言葉だった。断定だった。責めでもなく、慰めでもなく、ただ事実として言った言葉だった。
エルナは少し止まった。「……そうですね」
言葉が短かった。でも、その「そうですね」には二年間が入っていた。断られた診察の申し出。記録し続けた二年間。婚約者の立場で動いた時間。それが全部、この一言に圧縮されていた。感情は出なかった。ただ、そうですね、と言えた。
「誰もそう言わなかった、ということか」ライナルトが静かに言った。
エルナは少し間を置いてから答えた。「言いませんでした。私自身も、言いませんでした。薬師の仕事ではないかもしれない、と思う場面はありましたが、それを言えば関係が壊れると思っていました。言うことより、続けることを選んでいました」
ライナルトが何も言わなかった。それ以上は続かなかった。薬草庫の中が静かになった。外で風が鳴った。
エルナは作業に戻った。乾燥した薬草の束を棚に並べていく。ライナルトはしばらく立っていた。棚の薬草を見ていた。薬草の知識があるわけではないだろうが、眺めていた。
「ここでの仕事は、あなたにとって薬師の仕事か」と聞いた。
「はい」エルナは即答した。「ここでの仕事は、薬師の仕事です」
ライナルトが少し頷いた。「続けてくれ」と言って出ていった。
一人になってから、エルナはその言葉を確かめた。「それは薬師の仕事ではない」——誰もそう言わなかった。クロードも、ソーリーも、父でさえも、「状況をどう対処するか」という話しかしなかった。「それが間違っていた」とは言わなかった。ライナルトが今日、初めてそう言った。断定として、静かに、責めずに。その言葉の重さが、今ここに来て初めてわかった。二年前に誰かがそう言ってくれていたら——と思う気持ちが少しあった。でもそれより、今日言ってもらえた、という事実の方が大きかった。
夜、机に帳面を広げた。書こうとして、少し止まった。王都から手紙が届いていた。父からだ。今日は読まずにいた。開けると、いつもより短かった。「エルナへ。テレーズ嬢が社交界の場から姿を消している。クロード殿下への周囲の見方が変わりつつある。詳細は次の手紙に書く。辺境での仕事を続けなさい。父より」
手紙を置いた。「そうですか」——心の中で言った。感情は動かなかった。テレーズが社交界から姿を消した。クロードへの評価が変わりつつある。それは、二年間の記録が正しかったことの続きだ。でも今のエルナには、それより今日ライナルトに言ってもらった言葉の方が、重かった。「それは薬師の仕事ではない」——その言葉が、今夜の一番大事な記録だった。帳面を開いて、そこから書き始めた。王都の手紙は、後で記録する。今日の出来事の方が先だ。今日、ここで起きたことが、今のエルナには現実だった。王都の話は読んで記録すれば十分だ。そちらへの感情は、もう動かない。




