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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第57話 記録しないと見えないことがある

 翌日の朝、エルナは日誌を持ってライナルトの執務室に向かった。


 二冊持ってきた。一冊目は王都のギルド時代のもので、最初の一年分が入っている。二冊目は辺境に来てからのもので、まだ途中だ。どちらも革表紙で、裏まで書き込んだページもある。持ち歩くことを考えて、小さめの判型にしてある。


 執務室に入ると、ライナルトは机に向かって書類を読んでいた。エルナが入ったのに気づくと、書類を脇に置いた。


「持ってきました」エルナは二冊をテーブルに置いた。


「二冊あるのか」


「一冊目が王都のギルド時代の記録で、二冊目が辺境に来てからです。辺境の記録だけで十分であれば、そちらだけお見せします」


「両方見せてもらう」


 ライナルトが近づいて、一冊を手に取った。開かずに、まず表紙を見た。それから背表紙を見た。何も書いていない。「日付は」と聞いた。


「中の最初のページに書いてあります」


 ライナルトがゆっくりページをめくった。読むのではなく、構造を確かめているような開け方だった。日付、患者の番号、症状の記載、経過の記録——一ページに収まる形式になっている。


「この患者番号は」


「個人名を書かないようにしています。番号で管理して、別の帳面に対応表があります。個人の医療情報を公開の記録に残さないための方法です」


「なるほど」ライナルトが続きをめくった。


 しばらく無言でページをめくっていた。エルナは立ったまま待った。急がなくていい、と思った。読んでいる間に説明を挟む必要はない。


 ある箇所で、ライナルトの手が止まった。「これは——」と言いかけて、止めた。エルナは何のページか、遠目に確認しようとした。開いているのは辺境に来て二週間目あたりだ。フリスと初めて難しい患者を一緒に診た記録がある。「フリス・ヴァルク。判断が速い。患者の信頼が厚い。こちらが初対面で試されている、と感じる。」と書いた箇所だ。


「フリスのことを書いているのか」


「診察で関わる人は、記録に入れています。観察の対象として」


 ライナルトが少し何かを考えるような間を置いて、続きをめくった。


 ライナルトが顔を上げた。「毎日書いていると言っていたが、体調が悪い日や、書けない日はどうするのか」


「書けなかった日は、翌日に前日の分を書きます。どうしても書けない場合は、一行でも書きます。日付と「特記なし」だけでも入れておけば、記録の連続性が保てます」


「なぜそこまでするのか」


 エルナは少し考えてから答えた。「記録は連続してこそ意味があります。一日でも空白が入ると、その日の前後が比較できなくなります。疫病の前兆のような、ゆっくり変化するものを見るには、空白があると困ります」


 ライナルトが少し間を置いた。「記録しないと見えないことがある、とあなたは言った」


「はい。昨日の患者は、一人一人は「軽い症状」です。でも四人並べると、パターンが見えます。パターンは、記録がなければ見えません。記録があるから比較できる。比較できるから、気づける」


「辺境に来てからも、毎日書いている」


「はい。最初の日から書いています。薬草庫の状態も、フリスとの診察も、患者の症状も——全部入っています」


 ライナルトが二冊目、辺境に来てからの日誌を手に取った。開いて、最初のページを見た。「薬草の保存状態が悪い。換気が必要。乾燥剤を交換する」という記録が最初のページにある。


「初日から書いたのか」


「はい。着いた日に書きました」


 ライナルトが少し目を細めた。二冊を閉じて、エルナに返した。「わかった。あなたの記録の意味は理解した」


「お時間をいただいてありがとうございます」


「一つ聞いていいか」


「はい」


「この記録は、あなた個人のものか。それとも、薬師として辺境に置いていくものか」


 エルナは少し止まった。その問いを予測していなかった。「今は個人のものです。でも、辺境の医療の記録として使えるものなら、置いていきたいと思っています。辺境の患者の状態を継続的に記録したものは、ここには今まで存在しなかったと思いますので」


 ライナルトが短く言った。「そうだ。存在しなかった。それが今、あなたが作っている」


 部屋を出てから、エルナはその言葉を反芻した。記録を「作っている」——それは、ここで自分がしていることへの、正確な評価だった。日誌は個人の習慣として始めた。でもそれが、辺境の医療の記録になっていく。そういうことだと、今日初めてはっきりわかった。


 廊下を歩きながら、エルナはライナルトの問いを思い返した。「辺境に置いていくものか」という問いは、エルナがここに長くいることを前提にしていた。いつか去る人間には出ない問いだ。この城館での仕事が、長く続くものとして考えられている——そのことがエルナには、小さな確認として届いた。


 夜、エルナは帳面に「辺境伯に日誌を見せた。「あなたが作っている」という言葉を受け取った」と書いた。記録することが、誰かに認められた日の記録だった。書くという行為が、今日まで誰かのためになったことはなかった。自分のためだけに書いてきた。それが今日変わった。その変化を、記録した。翌日からも、書き続ける。それだけは変わらない。

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