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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第53話 ここの人間

 手紙への返事を書き終えて、エルナは窓の外を見た。


 辺境の夜が広がっている。月がない。星が少ない。雲が空の大半を覆っていて、見える星はわずかだ。でも、わずかでも見える。王都では街の明かりが空に溶けていて、星を見ようとしてもほとんど見えなかった。辺境に来てから、星が存在するということを改めて知った気がする。当たり前のことだが、見えるようになると、世界が少し広くなる。夜の静けさも同じだ。王都の夜はどこかで音がしていた。ここは、本当に静かだ。その静けさに、一ヶ月半で慣れた。


 エルナは椅子の背にもたれた。手紙を書き終えた後の、静かな時間だ。父への返事と、ソーリーへの返事の草稿——二通を書いた。ソーリーへの返事には少し時間がかかった。感謝の言葉を正確に書こうとすると、どう書いても足りない気がした。最終的に「二年間の記録が役に立ちました。ありがとうございました。辺境での仕事は続いています」とシンプルにまとめた。部屋の中で筆を動かしながら、エルナは少し前の自分のことを考えていた。王都のことを思い浮かべようとした。


 ダルトン家の邸の書斎が浮かんだ。窓の向きが違う。東を向いていた。朝の光が入ってくる。父の執務室と繋がっている廊下。セナが「お茶が入りました」と言って来る。王都の薬師ギルドの受付で、シゲが来客の名前を確認している。ソーリーが薬草の在庫チェックをしている。あの日常だ。二十二年間、その中で生きてきた。それが今は、ひとつの絵のように浮かんで、遠い。


 それが、遠い。


 遠い、とはっきり思ったのは今夜初めてではない。辺境に来て一ヶ月が経つ頃から、少しずつ感じていた。でも今夜、父の手紙を読んで、テレーズのことを「そうですか」「そうなりましたか」で受け取って——その遠さが、はっきりした。「そうですか」と言えた。それで十分だ、と思えた。それがこの一ヶ月半の結果だ。


 かつての王都での日常が、どこか他の人の話のように感じる。エルナ・ダルトンが婚約者だった時期があって、テレーズ・ノルトという人物がいて、二年間記録してきた——それは全部本当のことだ。自分がそこにいた。でも、今のエルナには、今夜の作業の方が現実感がある。父の手紙を読んで記録して返事を書いた、その一連の作業が、今夜の現実だった。


 代わりに浮かんでくるものがある。王都の記憶ではなく、辺境の記憶だ。


 フリスの顔。「見事だった」と言ったときの、少し表情を崩した顔だ。あの人は二十年間、言葉が少なかったかもしれない。でも「見事だった」という言葉には、重さがあった。昨日のことのように鮮明に覚えている。それがエルナの記憶に残っている。王都では、そういう重さを持った言葉をもらう機会が少なかった。社交の言葉は軽い。辺境の言葉は重い。それが、ここに来て気づいたことの一つだ。


 子どもの声。「ありがとう、エルナ」と言った声だ。名前を呼ばれた。薬師として呼ばれる名前と、個人として呼ばれる名前は、少し違う。あのときエルナが感じたのは、後者だった。薬師としてではなく、エルナとして、ありがとうと言われた。王都では「ダルトン薬師」か「ダルトン嬢」だった。ここでは「エルナ」と呼ばれることがある。それが当然になり始めている。


 ライナルトの言葉。「助かった」の二文字。廊下に残った言葉だ。短い言葉が、重い。今でも覚えている。そしてその言葉が、エルナが辺境に来た理由が正しかったことを確認させてくれた。必要とされている、ということを、言葉より重い形で教えてくれた言葉だった。


 王都のことは「過去にあったこと」として整理されていく。クロードへの感情も、テレーズへの怒りも——今のエルナには、強さがない。怒る、ということには、対象への関心が必要だ。今のエルナにとって、テレーズはもう関心の対象ではない。クロードも同様だ。今夜の手紙で「円満解消」を求めていることがわかった。それに異論はない、と書いた。それだけで十分だ。王都での二年間は、記録の中に入っている。整然と入っている。それで十分だ。


 帳面を開いた。「辺境での一ヶ月半。少しずつ、ここが馴染んできた。王都のことは遠くなっている。フリスのこと、子どものこと、ライナルトの言葉——こちらの方が、今の自分に近い。私はもう、ここの人間になりかけている。それでいい」と書いた。


 書き終えて、少し止まった。「ここの人間」——という言葉は、少し前には使えなかっただろう。ここに来て一ヶ月半、それだけ時間が経った。それだけのことが、一ヶ月半の間にあった。場所は人を作る。それがエルナには、今夜少しわかった。


 王都で生まれて育って、二十二年間を過ごした。でもここに来て一ヶ月半で、何かが変わった。根っこが動いた感覚がある。根っこが動くと、過去が遠くなる。それは悪いことではない。遠くなった分、今がくっきりする。今夜の辺境の夜の静けさが、今のエルナのものだ。


 燭台を吹き消した。部屋が暗くなった。辺境の夜の暗さだ。目が慣れれば、窓から僅かな光が入っている。明日も仕事がある。村の定期診察がある。フリスと合流する約束がある。村の患者たちが待っている。ここには、エルナを必要としている人たちがいる。その事実が、今夜のエルナには一番大事なことだった。エルナは目を閉じた。

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