第51話 そうですか
父の手紙は、三枚あった。
エルナは机の椅子に座り直した。燭台の光が手紙を照らしている。夜は静かだ。廊下を歩く音もない。城館の夜は早い。兵士も城館の使用人も、陽が落ちたら動かない。辺境の夜は暗く、早い。それに慣れた。エルナは一枚目を広げた。
父の筆跡だ。いつも通りの、整然とした字だ。感情が出ない字を書く人だ。父の手紙を読むとき、エルナは行間を読む習慣があった。用件が先に来て、背景が後になる書き方だ。どこに感情が入っているかを探す。「エルナへ。辺境での仕事が順調なことを願う。王都で動きがあった。報告する」——最初の一文でそれが来た。エルナは続きを読んだ。
「薬師ギルドの公式意見書が、ヴェルニエ侯爵家に正式に提出された。意見書の内容は、テレーズ・ノルト嬢の「慢性疾患」という診断に医学的根拠が認められない、というものだ。これはギルドの審査委員会が出した公式の見解だ。意見書はソーリー・ヴァルハン氏が主導した。お前が王都を離れる前に動いていた手続きの結果だ。意見書には、お前が作成した観察日誌の記録が根拠の一つとして引用された。二年間の記録が、正式な文書の中に入った」
エルナは一度、紙から目を離した。燭台の炎を見た。揺れていない。空気が動いていないのだろう。夜が静かだ。
ソーリーが動いた。出発前に「手続きは任せろ」と言っていた。あの言葉から、何ヶ月が経っただろう。ソーリーはきちんと動いた。王都のギルドで、実務的に、正式な手順を踏んで、動いた。そしてエルナの観察日誌が、正式な文書の根拠になった。あの毎日の記録が、王都の正式な手続きに入った。あの人はそういう人だ。エルナはそれを信頼していた。信頼が正しかった。
続きを読んだ。紙を少し持ち直して、二段落目に目を向けた。
「侯爵夫人は「調査する」と言っていた。その調査の過程で、テレーズ嬢が複数の医師の診察を改めて受けることになった。侯爵夫人がテレーズ嬢を守るために動かせた医師たちが、そのままギルドの意見書に反論する立場になるはずだった。しかし、その医師たちが揃って診察を行ったことで、逆に証拠が揃う形になった。侯爵夫人の「調査」が、結果としてテレーズ嬢に不利な状況を作った」
エルナは少しの間、その段落を読み返した。燭台の炎が少し揺れた。
侯爵夫人がテレーズを守ろうとして動いた。その行動が、証拠を揃える結果になった。意図と結果が逆になった。それは——予測できた、とエルナは思った。複数の医師の目の前で、テレーズが「慢性疾患」の演技を一貫して続けることは難しい。医師たちは疑問を持つ。記録に残す。その記録が、意見書の裏付けになる。一人の医師の前では演じ続けられたものが、複数の目の前では難しくなる。それは薬師として、エルナには最初からわかっていたことだ。
感情的に高揚する気持ちはなかった。「思った通りに動いている」という確認があった。それだけだ。二年間記録してきたのは、この瞬間のためではなかった。テレーズを追い落とすために記録してきたわけではない。正しいことを記録することが目的だった。その記録が正しい結果を生んだ、ということだ。因果が正しく動いている。それで十分だった。
「侯爵家内部での対応は、現時点では公開されていない。ただ、ヴェルニエ侯爵からダルトン家に対して非公式の接触があった。内容は次の手紙に書く。テレーズ嬢の扱いが、変わったことは確かだ。それだけ伝える。辺境での仕事に集中しなさい。父より」
そこで一枚目が終わった。
エルナは紙を膝の上に置いた。手紙を読んでいた間、胸の中に何が来るかを確認していた。怒りが来るかと思った。それとも安堵か。でも来たのは、どちらでもなかった。「そうですか」——声に出した。部屋には誰もいない。自分だけに向けた確認の言葉だ。
感謝でも、怒りでも、快感でもない。ただ「そうですか」だった。二年間記録してきた。ソーリーが動いてくれた。父が動いてくれた。その結果として、正しいことが正しい方向に動いた。それだけだ。それ以上でも、以下でもない。テレーズのことは、もう遠い出来事に感じた。王都での二年間が、まるで別の人の話のようだ——とまでは思わない。でも今の現実は、ここにある。
辺境の夜に窓の外で風が鳴った。手紙の紙が少し揺れた。エルナはそれを押さえて、二枚目を広げた。続きがある。父がここまで書くのは珍しい。三枚あるということは、まだ何かある。エルナは続きを読んだ。一枚目の最後の一文、「辺境での仕事に集中しなさい」——それが父なりの、エルナへの言葉だと思った。感情を直接言わない人だ。でも「仕事に集中しなさい」の中に、「心配するな」という意味が入っている。そういう人だ。
王都のことは、今では少し遠くなっている。辺境での一ヶ月の密度の方が、今は現実感がある。フリスと一緒に村の患者を診たこと。ライナルトが「助かった」と言ったこと。子どもが「ありがとう、エルナ」と言ったこと。それが今の現実だ。それでも、王都の話は読む。父が書いたものは読む。ソーリーが動いてくれたことには、きちんと返事を書かなければならない。それが次にやることだ。手紙を読み終えたら、返事を書く。今夜中に草稿を作る。それがエルナの決めていることだ。




