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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第50話 ここが合っている

 一ヶ月が過ぎた日、エルナは夜に帳面を開いた。一月分の記録を最初から読み返した。


 最初の日。城館の医療室を確認した日。薬草の保存状態が悪かったこと。ヴェルガーが「申し訳ない」と言ったこと。エルナが「やれることがわかった。それで十分です」と答えたこと。棚の配置を変えて、換気を改善して、乾燥剤を替えた。それが最初の仕事だった。午後から夕方まで、一人で作業した。作業している間、頭が静かだった。薬師として動いている、という感覚があった。


 二日目。記録の様式を設計した朝、空気が昨日より冷たかった。患者番号、受診日、年齢、症状の開始日、主訴——項目を考えながら書いた。ギルドで使っていたものを基準にして、辺境の環境に合わせて変えた。ギルドでは常勤の記録係がいたが、ここでは自分でやる。だから様式をシンプルにした。必要な情報だけが残るように設計した。


 三日目。村の診察に同行した。フリスと出会った。「二十年この村の人たちを診てきた」という男の、懐疑的な目線を受けた。何も言わなかった。仕事で示すしかない、と思った。その判断は正しかった。子どもの腸の感染後遺症を特定した。「この症状は二週間前から始まっていませんか」という問診が当たった。フリスが少し驚いた顔をした。


 四日目。重篤な子どもの患者。三日間の高熱が続いていた。フリスが「手が尽きかけている」と言った。エルナが診察した。発汗ができていないという判断が鍵だった。エルダーフラワー、ペパーミント、ジンジャーの組み合わせで処置した。「下がります」と言った。確信があった。


 五日目。翌朝、熱が下がった。子どもが「ありがとう、エルナ」と言った。名前で呼ばれた。それが嬉しかったことも、帳面に書いた。薬師の記録に「嬉しかった」と書くのは初めてだった。フリスが「見事だった」と認めた。その一言が、辺境での最初の手応えだった。


 それからの日々は速かった。フリスとの協力関係が深まった。週次報告書を提出した。ライナルトが「思ったより詳細だ」と評価したとヴェルガーから聞いた。兵士の集団発熱が起きた。六人が同時に、というパターンから水源の問題を疑った。川の上流まで歩いた。採掘場からの汚染を特定した。三日で六人が全員回復した。ライナルトが「助かった」と言った。


 一ヶ月の記録を読み終えて、エルナは帳面を閉じた。読み返してみると、一日一日は短い記録でも、積み重なると密度がある。一ヶ月が一冊の小さな報告書になっていた。


 王都のギルドに勤めていたときの一ヶ月と比べた。ギルドでは一ヶ月に百人以上の患者を診た。記録の量は多かった。でも「状況を変えた」という手応えは薄かった。仕組みが整っていて、薬草が揃っていて、患者が来て、処置して、記録する——その繰り返しだった。良い仕事ではあった。でも、「自分でなければできなかった」という感覚は少なかった。


 ここでは違った。何もないところから、何かを作った。そういう一ヶ月だった。薬草庫の整備も、記録の様式も、フリスとの関係も、水源の発見も——全部、この一ヶ月で作ったものだ。


 「忙しい。それがいい」——エルナは思った。ここは常に、やることがある。一つ解決すると、次が見えてくる。終わらない。終わらないことが、今は心地よかった。王都では、婚約者という立場が薬師の仕事に影を落としていた。でもここでは、薬師だけだ。薬師として動いた分だけ、何かが変わる。それが実感できる。その実感が、今の自分を正しい場所に置いている。


 帳面を開いて、一行書いた。「一ヶ月。ここは、自分に合っている」


 自分に合っている——という言葉は、王都にいるときは考えたことがなかった。王都のギルドは良い職場だった。ソーリーは良い上司だった。患者との関係も悪くなかった。でも婚約者という立場が常にあった。薬師として動こうとすると、どこかでぶつかった。テレーズの診察を断られたことは、一つの例だ。あの一件だけではない。小さなぶつかりが、二年間あった。ここにはそれがない。


 ライナルトが昨日「明日も頼む」と言った。廊下ですれ違いざまに、それだけ言って去った。何に対する「頼む」かは言わなかった。でも言う必要がなかった。仕事全体に対して言っている。ここでは、そういう言葉が通じる。エルナは帳面に「辺境伯より、「明日も頼む」」と書き加えた。記録は続く。言葉を受け取ったものは、全部記録する。それがエルナの習慣だ。


 机の上に、手紙が一通ある。昨日、ヴェルガーが持ってきた。王都からだ。差出人は父だ。重さが少しある。一枚より多い。父は普段、手紙が短い。「読め」と一言書いて書類を送ってくることもあれば、三行で用件だけ書くこともある。複数枚になるということは、何かまとめて書くことがあったということだ。


 王都で何かが起きている。おおよその見当はついていた。婚約解消の後、テレーズのことが何らかの形で動いたはずだ。それが父の手紙に入っているのだろう。読む前から、内容はある程度わかっている気がした。でも読む必要がある。父が書いたものは読む。


 窓の外で風が鳴った。辺境の秋の夜の音だ。この音にも、一ヶ月で慣れた。王都では聞こえなかった音だ。慣れたことが、少し嬉しかった。


 エルナは封を切った。

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