表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/70

第46話 記録から

 翌朝、エルナは早めに城館を出た。空気が冷たい。霜が降りているかもしれない、と思っていたが、草が少し濡れているだけだった。秋が深くなっている。道の両脇の木が昨日より色付いている。風が止んでいて、静かだ。足音だけが聞こえる。


 昨日の家に着くと、フリスがすでにいた。「おはようございます」とエルナは言った。フリスが小さく頷いた。その表情が、昨日と少し違う。


 奥の部屋に行った。昨日、煙の匂いが充満していた部屋は、今日は窓が少し開いていた。空気が違う。男の子が寝台に横になっていた。昨日と同じ場所だが——顔の色が違う。赤みが引いている。口が閉じている。呼吸が落ち着いている。エルナはその顔を見て、一瞬、息を止めた。良い方向に変わっている。確信が結果になった瞬間だ。


「熱が下がりました」母親が言った。声に涙が混じっていた。「夜中の三時ごろ、急に汗をかきはじめて——朝になったら、熱が下がっていました」


「確認させてください」エルナは子どもの額に手を当てた。熱が残っているが、昨日とは明らかに違う。低い。まだ安心はできないが、方向が変わった。脈を確認した。昨日より遅く、しかし力がある。良い変化だ。「水分は取れていますか」


「昨日の夜から、少しずつ飲めています。今朝は、お粥を少し食べました」


「良かったです。今日から回復します。まだ安静にしてください。明日また来ます」


 子どもが少し目を開いた。エルナを見た。「……ありがとう」と小さな声で言った。


 エルナは少し笑った。「もう少し寝ていてください」


 母親が「名前は?」と聞いた。子どもに向かってではなく、エルナに向かって言った。「この先生の名前を聞いておきなさい」と子どもに言った。


 子どもが「……なんて言うの?」と母親に聞いた。


「ダルトン薬師。エルナという方よ」母親が言った。


「エルナ?」子どもが繰り返した。「ありがとう、エルナ」


 エルナは少し驚いた。そういう呼び方をされることはあまりない。でも、子どもに呼ばれる名前は、どこかあたたかかった。


 外に出ると、フリスが待っていた。朝の光の中で、フリスの顔に昨日とは違うものがある。


「……見事だった」フリスが言った。


「ありがとうございます」エルナは静かに答えた。


「発汗できていない、という見立てが正確だった。私はウィローバークだけ続けていた。組み合わせという発想がなかった」フリスが少し間を置いた。「どこで学んだのか」


「王都の薬師ギルドで、二年間働きました」エルナは言った。「それと——記録から、です」


「記録?」


「患者を診察するたびに、状態と処置を帳面に書いてきました。症状と処置と、その後の経過を。同じような症状でも、患者によって経過が違う。その違いを書き溜めていると、パターンが見えてくる。昨日の診断は、その記録から来ています。発汗が止まった高熱の患者に、あの組み合わせが効いた事例が三例あります」


 フリスが少し目を細めた。「二年間、毎日?」


「はい。今もここで続けています」


 フリスが少し黙った。「……私は、感覚でやってきた。長年の勘、とでも言うか。記録という発想はなかった」


「どちらも必要だと思います」エルナは言った。「フリスさんは二十年間、この村の人たちを見てきた。体質を知っている。生活環境を知っている。それは記録では代えられないものです。私にはその部分が全部ない。これから教えていただきながら働きたいと思っています。村の人たちの既往症や、季節によってかかりやすい疾患の傾向も、教えてもらえると助かります」


 フリスが少し間を置いた。「……なかなか、そういうことを言う人はいない」


「事実です。私一人ではこの村の医療は担えません。一緒に働いてください」


 フリスが空を見た。朝の光が広がっている。「わかった」と短く言った。


 それだけだった。しかしその言葉の中身が、昨日とは違った。今日の「わかった」は、受け入れる言葉だ。昨日の「よろしく」とは違う。エルナはそれを聞いて、何も言わなかった。言葉を重ねる必要がなかった。一日でここまで変わった。それは子どもの回復が変えた。結果が、言葉より先に信頼を作った。


 フリスが、少し考えながら言った。「……この村は、冬になると雪で孤立することがある。近くの町に行けない期間が一ヶ月ほど続くこともある。その間、患者が来れば、自分たちで何とかするしかなかった」


「それは、どんな疾患が多かったですか」エルナは聞いた。


「冬の咳が一番多い。それから凍傷。以前は子どもの熱が一番厄介で——冬の間、手を尽くせないまま亡くなる子が何年かに一人は出た」


エルナは頷いた。「それを変えたいと思います。冬になる前に、必要な薬草を揃えます。補充の計画を立てます。フリスさんに、何が必要かを教えていただけますか。私はこの土地のことをまだ知らない」


「……ああ」フリスが言った。少し間を置いて「そうしよう」と続けた。


 帰り道、エルナは帳面を開いた。「発汗停止型高熱、処置翌朝に解熱。フリス・ヴァルク氏との信頼形成、初期段階完了。冬の孤立期間——要対策。冬季薬草の補充計画を立てる」——書いた。記録は続く。辺境でも、ここでも、記録は続く。それがエルナの仕事の骨格だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ