第40話 失礼します
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は21:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
馬車が玄関前に用意されていた。
荷物は昨日のうちにまとめた。薬師道具の入った木箱、着替えが入った革袋、帳面と筆記具が入った小袋——全部で三つの荷物だ。それを御者が馬車に積んでいる。父が玄関先で見送りに来ていた。侍女のセナが目を赤くしていた。
「セナ、泣かなくていい。しばらく経ったら手紙を送る」
「はい。でも——」セナが少し口をつぐんだ。「長い間、一緒にいましたから」
「そうね。ありがとう」エルナは言った。セナが来たのはエルナが十二歳のときだ。十年になる。「元気でいなさい」
父と向き合った。父は何も言わなかった。エルナも何も言わなかった。言葉より先に、二人はわかっていることがあった。父の顔を見た。いつもの父の顔だ。感情をあまり出さない顔。でも目の奥に、何かがある。それをエルナは見た。
「行ってきます」エルナは言った。
「行ってきなさい」父が言った。「手紙を送れ。薬草が必要になったら、送ってやる」
「はい」
馬車に乗り込もうとしたとき——別の蹄の音が聞こえた。急いでいる音だ。エルナは足を止めた。振り返った。
クロードだった。
馬から下りながら「待ってくれ」と言った。息が少し乱れていた。礼服ではなく、外出着だ。急いで来たのだと、それだけでわかった。父が少し後ろに下がった。エルナはその場で、待った。
「エルナ」クロードが来た。「少し——少しだけ、聞いてくれ」
「はい」
「テレーズのことは——」クロードが少し声を詰まらせた。言葉が重かった。「私が間違っていた。テレーズが——演じていたことが、わかった。でも、それより前に。お前のことを——ちゃんと見ていなかった。五年間、お前のことを、本当の意味では見ていなかった。だから——もし、できることなら」
クロードが止まった。
「もし、できることなら」——その続きを、クロードは言えなかった。なぜなら、手続きは完了している。できることは、もう何もない。言葉が続かなかった。
エルナはクロードを見た。今日のクロードは、これまでと少し違う顔をしていた。誠実で、真剣で——そして何かを悔いている顔だ。この言葉は、クロードの本心から来ている。嘘ではない。今日のクロードは、初めて本当にエルナを見ようとしている目をしていた。
この目を、もっと早く向けてほしかった——そう思う部分が、エルナの中のどこかにある。でもそれを言う場所ではない。今は、そういう場所ではない。全部終わった後に、言葉を使う理由がない。
遅い、とエルナは思った。でも声には出さなかった。出す必要がなかった。
「存じております、殿下」エルナは言った。
静かな言葉だった。声に怒りはない。責めてもいない。冷たくもない。ただ事実として——知っている。クロードが間違えたことも、見ていなかったことも、今日ここで言おうとしていることも。全部、知っている。全部、知っていて、それでも手続きを進めてきた。
「……エルナ」クロードが言った。続く言葉がなかった。
「手続きはすでに完了しております」エルナは続けた。「また、ヴェステル辺境伯より採用のご連絡をいただいております。今日、こちらを出発いたします」
クロードが黙った。
「どうかお身体に気をつけて」
エルナは一礼した。クロードに向かって、深く、礼儀正しく。馬車に乗り込んだ。御者が「出発してよろしいでしょうか」と確認した。「はい」とエルナは言った。
馬車が動き出した。
窓の外にクロードが見えた。立ったまま、馬車を見ていた。エルナはその姿を一瞬見た。振り返らなかった。振り返る必要がなかった。全部終わった。全部、正しく、終わった。あとは、前だけだ。
王都の街が、窓の外に流れていく。いつも見てきた建物が、石畳が、噴水が、通り過ぎていく。秋の朝の光の中で、街が動いている。感傷はなかった。ここで生きてきた。ここで薬師の仕事を覚えた。ここで二年間、記録してきた。それが今日終わって、次が始まる。
ギルドの建物の前を通った。エルナは窓からそれを見た。ソーリーはいつも通り仕事をしているだろう。シゲは受付にいるだろう。いつも通りの日だ。それでいい。エルナがいなくても、ギルドは動く。それでいい。そういうものだ。
馬車が街道に入った。王都の端を越えた。木々が増えた。空が広くなった。
辺境は、遠い。
それでいい。遠ければ遠いほど、そこには新しい患者がいる。新しい仕事がある。自分がそこで何かをする場所がある。王都では手続きを進めてきた。それが終わった。次は——薬師として、働く。ライナルトが待っている。患者が待っている。薬草の知識が必要な場所が待っている。それが、これからのエルナの場所だ。
帳面を開いた。「出発。辺境へ向かう」——書いた。そして少し考えて、もう一行書いた。「父に感謝。ソーリーに感謝。二年間の記録を、正しいものにしてくれた全ての人に」——それから閉じた。
馬車は走り続けた。王都が、遠ざかっていった。道が長い。辺境は遠い。でも、遠ければ遠いほど——その先に、エルナの仕事がある。馬車の中で、エルナは背筋を伸ばした。薬師として、向かっている。それが今の、エルナのすべてであり、これからのことだ。馬車は走り続けた。




