第35話 泣きつく
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は21:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
テレーズが侯爵夫人の部屋を訪ねたのは、その日の夕方だった。
クロードが「ダルトン邸に行く」と言って出かけていった後、テレーズはずっと部屋にいた。窓の外を見ていた。テーブルの上のお茶が冷めても、飲まなかった。指先で膝の上の布地を少しずつ動かしながら、ずっと考えていた。
クロードがエルナに会いに行った。何を聞くつもりなのか、テレーズにはわかっていた。「何があったのか」を聞きに行った。婚約解消の申請が来て、クロードがそれを受け取って、確認しに行った。正直で誠実だからこそ、クロードは直接確認しに行く。それがこの人の性格だとテレーズは知っていた。
エルナが何を答えるか——それが怖かった。エルナは正直な人だ。正直だから——もしかしたら、全部話してしまうかもしれない。「テレーズの体調について、薬師として疑問を持っていた」と言ってしまうかもしれない。「ギルドの意見書がある」と言ってしまうかもしれない。
「(いいえ、そんなことはしない)」
テレーズは自分に言い聞かせた。エルナは手続きの中にいる。正式な場で言うべきことを、クロードとの私的な話で言うような人間ではない。そういう人間だということは、テレーズもわかっていた。わかっていたから、この二年間うまく動けてきた。でも——わかっていても、怖かった。
クロードが帰ってくる前に、動かなければならない。何かをしなければならない。テレーズにできることは限られている。直接手続きを止める方法はない。でも——侯爵夫人なら、調査を命じることができる。調査が入れば、少なくとも時間を稼げる。そう考えた。
侍女に「侯爵夫人様のお部屋に参りたい」と伝えた。すぐに案内された。夫人の部屋は豪奢だった。重いカーテン、広いソファ、壁際の書棚。夕方の光が窓から差し込んで、部屋を橙色に染めていた。夫人がソファに座っていた。テレーズを見て、「どうしたの」と言った。
テレーズは少し息を吸った。
目に涙を作るのは、難しくない。感情を引き出せばいい。今、テレーズの中には本物の不安がある。それを使えばいい。不安を引き出して、目に水分を呼ぶ。それだけだ。演技ではない——正確には、本物の感情を制御して、使っている。それがテレーズのやり方だった。
「……実は」テレーズが言った。声を少し震わせた。「エルナさんのことで、怖いことがあって」
「エルナさんが?」夫人が少し前のめりになった。
「薬師ギルドで、私のことを——何か調べているらしいと聞いて。私が、ちゃんと体調が悪いのかどうか、疑っているって」テレーズが目を伏せた。「怖くて……。私、本当に体が弱くて、いつも辛い思いをしてきたのに。それを——陥れようとしているなんて。信じたくないけれど、ギルドが動いているという話を耳にして」
「それは本当なの?」夫人が顔を引き締めた。声に力が入った。
「わかりません。でも——怖くて」テレーズが涙を落とした。本物の涙だ。不安から来た涙だ。「私は何もしていないのに。クロード様のそばにいさせてほしいというだけで——それが、罰になるの? 体が弱いことが、罰になるの?」
「テレーズ」夫人が立ち上がって、テレーズのそばに来た。「泣かないで。私が調べます。ギルドが何をしているのか、きちんと確認する」
「……でも、止められますか?」
「止められなくても、事実を確認できる。正当な手続きを踏んでいるかどうか、確認できる。何かおかしなことがあれば、こちらも手を打てる」
夫人の目が、ダルトン家への怒りで少し光った。テレーズはそれを見た。夫人は息子を守ろうとしている。だからテレーズを守ってくれている。間接的な関係だが——今はそれで十分だ。
テレーズは夫人の手を握った。暖かい手だった。利用しているとは思っているが——夫人のことは、好きだった。守ってくれようとしている。その気持ちは本物だ。それは、テレーズにも伝わっていた。
「ありがとう。怖かったの。一人では——」
「一人じゃないわ」夫人が言った。「うちの家の問題でもある。きちんと動く」
部屋に戻って、テレーズは窓の外を見た。夕暮れが深くなっていた。
夫人が「調査する」と言った。でもその調査で何かが止まるかどうかは、テレーズにはわからなかった。エルナが正当な手続きを踏んでいるとしたら——止める方法が、テレーズには思いつかない。調査をしても、手続きが正当だという結論が出るだけかもしれない。
でも今は、これしかできない。できることをした。それで十分だと、自分に言い聞かせた。
クロードはまだ帰ってこない。エルナと、今頃話している。何を話しているのか——テレーズは、少し怖いと思いながら、その想像を止めることができなかった。エルナが何を言うか。クロードが何を聞くか。二人の間で、今何かが決まっているかもしれない。
窓の外の夕暮れが、どんどん暗くなっていく。橙だった空が、青紫になっていく。クロードが帰ってくる足音を、テレーズは静かに待っていた。帰ってきたら、顔を見ればわかる。クロードは感情を隠すのが上手くない。何があったかは、表情に出る。テレーズはそれを、長い時間をかけて学んだ。よく知っていた。今のテレーズに残された、数少ない武器の一つだった。




