第32話 遅すぎた誠実さ
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は10:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
翌日の午後、クロードが来た。
侍女が「ヴェルニエ殿下がいらしています。直接、エルナ様にお会いしたいと」と告げたとき、少しの間だけ意外だった。ギルドではなく、ダルトン邸に来たのは初めてだ。それだけ、今回は違う来方をしたということだ。申請書が届いたから来た——それが最も自然な理由だろう。
「応接間にご案内して」エルナは言った。「私もすぐ行く」
廊下を歩きながら、エルナは自分の状態を確認した。緊張しているか——していない。揺れているか——揺れていない。かつて婚約者だった人が来た、という感慨があるか——静かに考えてみた。感慨がないわけではなかった。五年間、婚約者だった人だ。その人が今日来た。それは事実として、静かな重さがある。でも今の自分の重心は、手続きの完了という事実に置かれていて、クロードが来たという事実は、その脇にある。揺らす力はない。
応接間の扉を開けた。
クロードが立っていた。今日の衣装は礼服ではなく、外出着だった。でも端正な身なりだ。エルナの顔を見た瞬間、少し表情が変わった——どう変わったかは、正確にはわからなかった。安堵か、緊張か、あるいは何かを確認しようとしている目か。エルナはその変化を見て、今日のクロードが本気で来ていることを理解した。儀礼的な来訪ではない。
「急に訪ねてすまない」クロードが言った。
「いいえ。どうぞ、おかけください」
向かい合って座った。侍女が「お茶をお持ちします」と言って、扉を静かに閉めた。部屋に二人が残った。
クロードがエルナを見た。エルナはその視線を、正面から受け止めた。五年間、向かい合ってきた顔だ。誠実な顔だ。今も誠実そうに見える。その誠実さは本物だと思う。ただ——今のエルナには、その誠実さを婚約者として受け取る場所がなかった。それは事実だ。良い人かどうかとは別の話だ。
「エルナ、正直に聞きたい」クロードが言った。
「何をお聞きになりたいのですか」エルナは穏やかに問い返した。
「申請書が出たと、家の書記官から聞いた」クロードが続けた。「お父上から、という形で。僕に対しての、婚約解消の申請だ」
「はい」
エルナは肯定した。否定する理由がなかった。事実だから。
「それは——お前の意思か」クロードが言った。声に力があった。問い詰める声ではない。本当に聞きたい、という声だ。
「はい」エルナは言った。「私の意思です」
クロードが少し黙った。テーブルの上を見て、また顔を上げた。
「なぜ——急に? 何があったのか」
エルナはその問いを聞いた。
(ここで何を聞いても、手続きは変わらない。変えるつもりもない)
「急に」——クロードにはそう見えているのだと思う。でもエルナにとっては、急ではなかった。二年間、観察してきた。考えてきた。記録してきた。愛情がなくなった夜がいつだったか、エルナはまだ覚えている。その夜の蝋燭の光を、帳面に書いた言葉を、覚えている。それが積み重なって、今日がある。急でも突然でもない。
クロードは知らなかった。それは責めることではない。ただ——知ろうとしていなかった、という部分はあった。でも今日、クロードが来たのは、知ろうとしたからだ。遅かったかもしれないが、来た。それは事実だ。遅すぎた誠実さは、遅すぎたとしても誠実さだとエルナは思う。ただ、何かを変える力は、今はもうない。
「殿下に、お答えできることと、お答えする場でないことがあります」エルナは静かに言った。「婚約解消の申請は、正式な手続きを通じて進んでいます。明日、手続きが完了します。その後、正式にお伝えすることがあれば、改めて伝えます」
クロードが少し止まった。
「……話を聞いてもらえないのか」
「今日は、聞く場ではないと思っています」エルナは言った。「明日以降でしたら、改めて場を設けることができます。でも今日は——手続きが完了する前に、ここで話すことが、何かを変えるとは思えません」
クロードがエルナを見た。長い間、見ていた。
エルナは視線を外さなかった。揺れる場所が、もうない。だから目を逸らす理由がない。
侍女がお茶を持ってきた。カップが二つ、テーブルに置かれた。侍女が静かに出て行った。
「なぜ」クロードがもう一度言った。今度は声が少し小さかった。「なぜ急に——と思っているのに、急じゃないと言いたいのか、お前の目を見るとわかる気がする。お前はいつも、目だけが正直だった」
エルナは少し驚いた。クロードが、エルナの目を読んだことに。五年間、そんなことを言われたことはなかった。今になって——この場で、そう言う。遅い、とエルナは思った。でも声には出さなかった。
「急ではありません」エルナは言った。「でも、理由を今ここでお話しする場ではないと思っています」
クロードが深く息を吸った。何か言おうとして、止まった。それからまた、言おうとして、止まった。そのまま少し黙った。窓の外から、馬の音が遠くに聞こえた。
エルナはお茶に手をつけずに、クロードを待った。クロードが何を言おうとしているか、エルナにはまだわからなかった。でも、今日ここで何が語られても——手続きは、明日完了する。それが今のエルナの事実だ。




