第30話 旅支度
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は21:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
翌朝、ソーリーから書状が届いた。昨夜のものとは別だった。「辺境採用の書類締結が、評議会で正式に承認された。ギルドの記録に残った」という内容だった。
エルナはその一文を三回読んだ。内容は変わらない。でも三回読んだ。記録に残った——それは消えない、ということだ。ギルドに記録された事実は、誰かが意見を言っても変わらない。エルナが辺境に赴く薬師として、正式に登録された。頭の中に、その事実が定着するまで、少し時間が必要だった。
机の上に書状を置いて、立ち上がった。今日からできることがある。
部屋の隅に置いてある木箱を引き出した。薬師道具が入っている。普段ギルドで使う道具は別にある。これは、自分が外に出るときのための道具箱だ。旅の薬師が持ち歩く形にまとめたもので、三年前に父に作ってもらった。蓋を開けると、乾燥薬草の香りがした。
中を点検した。量りが一つ、すり鉢が一組、折りたたんだ布が数枚、乾燥薬草の小袋が十二袋、小瓶が六本。乾燥剤の入れ替えが必要だった。瓶の中身は二本が空で、一本は残り少ない。メモをした。補充が必要なもの、現地で調達できるもの、どうしても今のうちに用意しておかなければならないもの——分類しながら、一つずつ確認した。
辺境にいる間、どんな患者と出会うかはわからない。でも、基本的な道具と薬草があれば、まず対応できる。ライナルトの手紙には「冬は乾燥する。風が強い」と書いてあった。肌荒れ、乾燥からくる咳、手足のあかぎれ——そういう患者が多いだろう。保湿に使えるラベンダーとホホバの実を多めに用意しよう。体を温める薬草も要る。
リストが埋まっていくにつれて、頭の中が整っていく感覚があった。これをする、あれを準備する、これは現地で——順序立てて考えると、漠然とした「辺境に行く」という事実が、具体的な形になってくる。それが少し、落ち着く感覚だった。
辺境のことをライナルトの手紙から思い出した。「街道から外れた村に患者がいる。季節によっては道が塞がれる」と書いてあった。ということは、出向いて診察することが多いだろう。街道が塞がれる前に、薬を届けに行く必要があるかもしれない。外傷の治療ができる道具も要る。縫合の糸と針は多めに。消毒に使うアルコールも。感染症の予防薬——市販のもので足りるか、専門的なものが必要になるかは、現地を見てから判断する。
紙にリストを書き続けながら、エルナは自分がここまで具体的に「辺境の仕事」を想像したことがなかったと気づいた。書類が整ってから、初めて実感として降りてきた。辺境に行く——その言葉が、今日初めて本物の重さを持った気がした。怖いとは思わなかった。ただ、重さがある、という感覚だった。その重さが、準備をしっかりやらなければという気持ちに変わっていく。
昼過ぎ、使いの者がやってきた。「ヴェルニエ殿下より、エルナ様にお手紙です」と言って、封書を渡した。
エルナは受け取った。クロードの筆跡だ。封蝋を見た。私的な封蝋だった。公式なものではない。
「ありがとう。確かに受け取りました」
使いの者が帰った。エルナは封書を机の上に置いた。
読まなかった。
開けることができなかったわけではない。読む気になれなかったわけでもない。ただ——今、この封書を開けることが何かを変えるかどうか、考えた。婚約解消の申請が出ている。手続きが進んでいる。そういう状況で、クロードから私的な手紙が来た。読めば、何かが書いてある。読めば、それに対して何かを感じるかもしれない。感じたとして——それがこの手続きに影響を与えるかというと、与えない。今の自分の確信は、そういう感情よりずっと先にある。
だから今は、読まない。
机の上に置いたまま、薬師道具の整理に戻った。すり鉢の内側を布で丁寧に拭いた。量りの分銅を一つずつ手に取って確認した。狂いはない。三年間、手入れを続けた道具は、まだ使える。旅に出ても、きちんと働いてくれるだろう。
夕方、父が仕事から戻った。執務室に顔を出して「明日、侯爵家に確認に行く」と言った。手続きの期限が明後日だ。先方の回答が来ていれば、明日わかる。
「わかりました」エルナは言った。「私の方は、旅支度を始めています。道具の点検と、必要なもののリストを作りました」
「そうか」父が言った。「急がなくていい。手続きが終わってからで十分だ」
「はい。でも、早めに始めておいた方が——」
「わかっている」父がやや口調を和らげた。「お前は仕事のことになると急くな」
エルナは少し黙った。そうかもしれない、と思った。
「お前は普通にしていなさい」父が言った。「明日のことは、私が確認してくる」
「はい」
自室に戻って、窓の外を見た。夕暮れの空が橙から紫に変わっていく。あそこに、辺境がある。王都から遠い場所。会ったことのない人たちがいる土地。エルナはその方向を、少しの間見ていた。
(明日、父の手続きが完了すれば、全部終わりです)
机の上の封書に目が行った。一度見て、また窓に目を戻した。今夜は読まない。終わったあとで——読むかどうかも含めて、判断する。それが今のエルナの答えだ。
帳面を開いて「旅支度、開始。道具の点検と補充リストを作成した」と書いて、閉じた。これが今日だ。明日、全部が終わる。そしてその後から、本当に始まる。




