第29話 変わった娘
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は18:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
好きだったか、どうか。
エルナは侯爵夫人の問いを、もう一度頭の中で繰り返した。応接間の窓から差し込む光の中で、夫人の目が答えを待っている。
好きではなかったのか——その言葉を使うとすれば、事実と合わない。好きだった。五年間の婚約の中で、クロードのことを好きでなかったことはない。誠実で、優しくて、責任感がある人だと思っていた。社交の場でいつも礼儀正しく、約束を守ろうとした。それは今も変わらない。クロードを嫌いになったわけではない。
ただ——好きだった、ということと、これからも婚約者でいる理由は、別の話だ。愛情と手続きは別の次元にある。夫人はそれを一つのものとして問いかけている。でも、エルナの中ではとっくに分かれていた。
「侯爵夫人様」エルナは言った。声は穏やかだった。「一つだけ申し上げてよいでしょうか」
夫人が少し眉を上げた。「どうぞ」
「手続きは、感情を根拠にしたものではございません。二年間の観察記録と、それに基づく公式の意見書、そして正式な申請書。手順を踏んで進めております。だから——感情についての問いは、この手続きとは関係がないのです」
夫人が黙った。何かを言おうとして、止まった。
「クロード殿下のことを好きだったかどうか、という問いは、私の心の中にある問いです。それに答えることは、私の自由でもあります。でも——侯爵夫人様にお答えする必要は、今はないと考えております。手続きを通じてご判断いただければ、それで十分です」
「……」夫人が少し間を置いた。「感情のない娘だとは思っていないわよ。ただ——」
「感情はあります」エルナは静かに言った。「ただ、それを今日ここで申し上げることが、何かを変えるとは思っておりません」
夫人が、エルナを見た。
その目が、少し変わった。探る目から、観察する目になった。エルナを「引き留められるかどうか」という計算で見ていた目が、エルナをただ見る目になった。応接間が静かだった。時計の音がした。外から鳥の声がした。夫人は何も言わなかった。エルナも何も言わなかった。その沈黙の中で、何かが夫人の中で変わっていくのを、エルナは感じた。
「……お前は」夫人がゆっくりと言った。「変わった娘だ」
批判ではなかった。敵意でもなかった。どちらかといえば、当惑に近い声だった。これまでたくさんの令嬢を見てきた人の声だ。その中で、今日のエルナが、どこかに分類できない娘だったのだと思う。泣くか怒るかすれば、対処できた。哀願するか、言い訳をするか、あるいは拒絶するか——どれかに当てはまれば、夫人には手がある。でもエルナは、どれでもなかった。
「ありがとうございます」エルナは答えた。
夫人が小さく笑った。笑うつもりではなかったのかもしれない。でも微かに、口の端が動いた。
「本当に……変わっているわね」
「侯爵夫人様にそう言っていただけるなら、光栄です」
夫人が立ち上がった。「今日は失礼しました。ダルトン卿にも、よろしくお伝えを」
「はい。ありがとうございました」
夫人が出て行った。馬車の音が遠ざかった。馬の蹄が石畳を叩く音がして、それも消えた。
エルナは応接間の椅子に、もう少し座っていた。
動じなかった、という達成感はなかった。当然のことをした、という感覚だけがあった。侯爵夫人は感情に訴えれば動くと思っていた。でもエルナには、感情で動く理由がなかった。二年間の観察記録が、その確信を作った。愛情がなくなったと確認した日が、その確信を完成させた。感情で揺れる場所が、もう自分の中にない——それだけのことだ。
好きだったかどうか、という問いへの答えは、エルナの中にある。それは誰にも言わなくていい答えだ。自分が持っていればいい。
手続きが動いている。向こうが動いてきたということは、こちらが正しく進んでいる証拠だ。
廊下を歩いて、執務室に向かった。扉をノックして開けると、父が書類を広げていた。
「夫人が来ていました。帰りましたよ」
「聞こえていた」父が言った。「どうだった」
「穏やかに対応できました」
「そうか」父が少し頷いた。エルナを見て、また書類に目を落として、もう一度エルナを見た。「お前は本当に……落ち着いているな」
「父が動いてくれているので」エルナは言った。
父が少し黙ってから、「そうか」ともう一度言った。その「そうか」の中に、いくつかの感情が入っていた。エルナにはわかった。でも言葉にするより、そのままにしておく方がいい気がした。
その日の夜、ソーリーから短い書状が届いた。「辺境採用の正式書類を締結した。出発は婚約解消の手続き完了後とする——ライナルト伯も承知した」と書かれていた。
エルナはその書状を読んで、蝋燭の光の下で帳面を開いた。「正式書類、締結。出発はこちらの手続き完了後。段取りが揃った」——書いて、閉じた。揃った、という言葉を書いたとき、胸の中に小さな静けさが広がった。嬉しいという感情とは少し違う。でも確かに、何かが落ち着いた感覚だった。二年間分の観察記録、公式意見書、婚約解消の申請書、辺境採用の書類——全部が今、同じ方向に向いている。それでいい。今夜は、もうやることがない。あとは、待つ番だ。




