第23話 テレーズの不安
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は13:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
テレーズが侍女から話を聞いたのは、昼のお茶の席だった。
「そういえばダルトン伯爵令嬢様が、最近薬師ギルドにとてもよくいらっしゃるようで」
「そうなの」
「はい。週に何度もとか。何か調べ物でもされているのかしら、とギルドの近くにお住まいの方が話されていたそうで」
「そう。まあ、お仕事ですから」
テレーズはカップを持ち上げたまま、一瞬、手を止めた。指先に、ほんのわずかな力が入った。
「そうですよね。薬師さんですものね」
侍女は何も気づかなかった。カップのお代わりを注いで、また別の話を始めた。最近の社交で誰が誰と仲良くなったとか、どこの令嬢のドレスが素敵だったとか。テレーズはにこやかに聞いていた。でも言葉が耳を素通りしていった。
頭の中だけが、動いていた。
エルナが——薬師ギルドに、頻繁に?
普通のことかもしれない。エルナは薬師として働いている。ギルドに通うのは仕事だ。何もおかしくない。でも——「週に何度も」というのは普段と変わらないのか。「頻繁に行っている」という印象を与えるほど目立っているのはなぜか。
「(まさか——私のことを、何かしら調べている?)」
頭の中で声が出た。声を出さなかった。顔に出さなかった。侍女が気づかないように、微笑んだまま話に相づちを打った。
でも、考えが止まらなかった。
エルナは薬師だ。診察を申し出てくるたびに断ってきた。断るたびに、エルナは何も言わなかった。責めるでもなく、納得しているように見えた。でも——実は、観察していたのではないか。テレーズが「体調が悪い」と言っているときに、脈を見ようとしていた。呼吸を観察しようとしていた。それを断るたびに、エルナは何かを——書き留めていたのではないか。
「大丈夫なはず」
自分に言い聞かせた。エルナが何かを調べていたとしても、証拠になるものがあるはずがない。テレーズは病気だ、という認識は社交界全体にある。クロードも心配している。令嬢たちも気にかけてくれている。一人の薬師の主観的な観察が、それをひっくり返せるはずがない。
ひっくり返せない、はずだ。
でも——もしも記録があれば?
薬師は記録を取る生き物だ。テレーズはそれをよく知っていた。何度も診察を断ってきたが、エルナは「記録を取っています」と言ったことがなかった。でも取っていたとしたら? 診察の申し出を断るたびに、「断った」という事実を書き留めていたとしたら?
それ自体は、証拠にはならない。断った理由を問いただされれば、「怖かったから」「体が弱いから」と答えられる。でも——二年間、毎回断ったとすれば? 何十回もの「断り」が記録されていたとすれば? それが何かを示すのか、テレーズにはわからなかった。わからないことが、不安の原因だった。
お茶会が終わって、帰りの馬車の中で、テレーズはずっと考えていた。エルナのことを。あの穏やかな目を。社交の場でいつも端に立ちながら、何かを見ているような目を。診察を断るたびに、エルナは「そうですか」と言って引き下がった。でもその引き下がり方が——今思えば、諦めた様子ではなかった。むしろ、了解した、というような。確認した、というような。
怖い、と思う理由がそこにあった。エルナが感情的なら、対処できた。泣いたり怒ったりする婚約者なら、クロードが「エルナは感情的だ」と判断しただろう。でもエルナは感情的ではなかった。穏やかで、誠実で、論理的だった。そういう人間が——何かをしようとしているとしたら。
「(怖い)」
そう思った瞬間、テレーズは少し止まった。自分がその言葉を使ったことに、驚いた。
エルナを怖いと思ったことは、一度もなかった。あの人は穏やかで、感情的にならなくて、いつも端に立っていた。自分の障害になるとは、全く考えていなかった。なのに——今、怖い、と思った。
馬車が止まった。
テレーズは深呼吸をして、いつもの顔を作った。怖いという感情は、誰にも見せてはいけない。見せたら、何かが変わってしまう。クロードに怖いと言えば——それは弱さではなく、武器になる。でも怖いという本音は、隠したまま使う。
何かしなければ、と思った。
友人令嬢のサラが以前言っていた。「エルナさんって薬師なのよね。体のことはよくわかるって感じがする」と。無意識の言葉だったが、今思えば——そうだ。エルナは体のことがわかる人間だ。テレーズが長年演じてきた「体調不良」を、一番よく見てきた人間でもある。
クロードに話せば——クロードが動いてくれれば——何かがわかるかもしれない。あるいは、エルナを牽制できるかもしれない。クロードがエルナに確認すれば、エルナは「何もしていない」と言うだろう。でもその確認自体が、エルナへの圧力になるかもしれない。
テレーズは窓の外を見ながら、考えた。泣くか。泣けば、クロードは動く。あの人は、テレーズが泣くと必ず動く。それはわかっていた。
利用することに、罪悪感はなかった。クロードはずっとテレーズのそばにいてくれた。それは相互の関係だった、とテレーズは思っていた。今更だ。これまでと同じことをする。ただ——今回は、少し急いでいる。そう思いながら、馬車の窓に映る自分の顔を見た。いつも通りの顔だった。それでよかった。




