第20話 三つの書類
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は21:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
辺境伯からの返事は、思ったよりも早く届いた。
ギルドに出勤した朝、受付でソーリーから手渡された。「ライナルト伯から。あなた宛てというより、ギルド経由での個人への連絡ね。開けてみなさい」
「ありがとうございます」
午前の診察が始まるまでに少し時間があった。エルナは診察室の端に座って、手紙を開いた。外から朝の音が聞こえてくる。受付での会話、薬棚を整理する音、廊下を歩く足音。いつものギルドの朝の音だ。その音の中で、一人で封を開いた。
封蝋を割ると、中から一枚の紙が出てきた。便箋は厚手で、ライナルト家の紋章が右上に入っている。紋章のデザインは、王都の貴族家のものとは少し趣きが違った。剣と葉が組み合わさった、実用的な印象のものだった。
文章は、予想より短かった。
「ダルトン伯爵令嬢エルナ様。ギルドよりお名前をうかがいました。辺境の状況について、率直に書かせていただきます。こちらでは専門的な薬師を必要としており、長らくその欠員が続いています。あなたのような方に来ていただけるなら、大変ありがたいことです。ご都合の許す限りで構いません。いつでもお待ちしています。辺境はあなたのような薬師を必要としています。ライナルト」
エルナは手紙を二回読んだ。
簡潔な文章だった。余分な言葉がない。「ご都合の許す限りで構いません」という一文が、相手に時間を与えようとしていることを示している。急かさない。でも待っている。「いつでも」という言葉が、形式的ではなく、本心に聞こえた。王都の貴族の社交文書とは文体が全く違う。社交の場で使われる言葉の膨らみがない。それが逆に、信頼できると感じさせた。
「誠実な人だ」
声に出さずに思った。文章の短さが、誠実さを示すことがある。長い文章で取り繕う必要がない人間が書く文章は、短くても重い。この手紙がそうだった。
手紙を読んだあと、エルナはソーリーの執務室に向かった。
「読みました」
「どうだった」
「誠実な方だと思いました。文章が短くて、余計なことが書いていない」
ソーリーが少し頷いた。「ライナルト伯はそういう方よ。約束したことは守る。口先だけで動かない。辺境を任されているのも、その信頼があるからだと聞いている」
「辺境行きは、婚約の件が片付いてから、と考えています」
「わかっているわ。急かさない」ソーリーがそれだけ言った。「でも、一つだけ。辺境は今も患者が待っている。手続きが終わったら、なるべく早く動けるよう、心づもりをしておきなさい」
「はい」
診察室に戻って、今日の仕事をした。軽症が二件、子供の咳が一件、老人の慢性的な膝の痛みが一件。一人ひとりと丁寧に向き合った。その間も頭の一部は、三つの書類のことを考えていたが——仕事をしている間は、それが邪魔をしなかった。むしろ、仕事をしているときの方が、気持ちが落ち着いていた。目の前の人に集中することで、他のことを一時的に横に置ける。これは薬師の仕事の、一つの良さだとエルナは思っていた。
その日の夜、自室に戻って、エルナは引き出しを開けた。蝋燭の光が机の上を照らしていた。
観察日誌のコピーがある。ソーリーに渡した原本の写しを、自分用に一冊ずつ作っておいたものだ。その隣に、父から受け取った委任状がある。婚約解消の申請を代理で進める権限を与えるという、父の署名入りの文書だ。父が昨夜書いてくれた。「準備ができれば使う。今は持っておけ」と言って渡してくれた。
そしてライナルトからの書状。
三つが、引き出しの中に並んだ。
「(全部、揃った)」
揃った、という感覚は、達成感とは少し違った。高揚感がなかった。ただ——確認できた、という静けさがあった。三つのものが全て手の届く場所にある。
次に必要なことは、ギルドの公式意見書が出ること。それが出れば、父が動く。父が動けば、婚約解消の申請が正式に提出される。申請が受理されて、正式に婚約が解消されたあと、辺境に向かう。
順番がある。でもその順番の全てのステップに、準備ができている。準備が揃っているときの感覚は、こういうものか、とエルナは思った。不安がなかった。恐怖がなかった。ただ——やるべきことがある、という静かな確認だけがあった。
「(あとは、時間の問題だ)」
内心で言葉にしてみると、そうだ、と思った。何も足りないものはない。必要なのは、ただ時間だ。焦る必要もなく、急く必要もなく——ただ、順番に進めばいい。
引き出しを閉めた。
二年前の自分に見せてあげたいとも、少し思った。あの頃は、ただ記録を続けることしかできなかった。先の見通しが全くなかった。一人で観察を続けて、証拠の形にならないまま抱えていた。それが今は、三つの書類として引き出しの中に並んでいる。父がいる。ソーリーがいる。ライナルトがいる。王都の外にも、自分の場所がある。一人ではない。二年前とは、全てが違う。
蝋燭の光が揺れていた。机の前に座ったまま、少し間を置いてから、エルナは今日の患者記録を書き始めた。今日の仕事を先に終わらせる。それが今できる最善だ。引き出しの中のものは、必要なときに使う。今夜は仕事の続きをする。それが、今のエルナの一日の終わり方だった。




