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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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19/70

第19話 クロードの違和感

本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は18:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。

 クロードは机の前に座って、羽根ペンを持ったまま、書類を見ていた。


 見ていた、というのは正確ではない。視線が書類の上にあるだけで、内容が頭に入ってこなかった。


 エルナのことを考えていた。


 なぜエルナのことを考えているのか、自分でもよくわからなかった。婚約者だから——というのは当然の理由だが、今日に限ってそうなった理由にはならない。最近の社交の場で見た顔が、ずっと頭に残っている。何が違うのかが言葉にできない。でも何かが違う、という感覚がある。


 クロードは羽根ペンを置いた。窓の外の午後の光を、しばらく見た。光の中に答えはなかった。


 エルナは五年間、変わらなかった。夜会でも茶会でも、いつも穏やかで、いつも礼儀正しく、いつも端に立ってにこやかにしていた。テレーズのそばにいるクロードを咎めるでもなく、同情を向けてくる令嬢たちに感情的になるでもなかった。怒ることも、泣くこともなかった。その変わらなさが——クロードにとって「エルナはそういう人だ」という認識になっていた。


 エルナが怒ったり、泣いたり、不満を口にしたりする場面を、クロードは見たことがなかった。それが「心が広い人だ」という印象になっていた。婚約者として、扱いやすい人だ、とも思っていた。今思えば、「扱いやすい」という表現は失礼かもしれない。でも、あの人は——何も要求しなかった。


 だから気にしなかった。


 五年間、気にしなかった。


 エルナがどんな気持ちで夜会の端に立っていたのか。クロードがテレーズのそばにいることを、どう思っていたのか。「クロード様はテレーズ様とお似合いですね」と令嬢たちに言われ続けながら、何を感じていたのか。聞かなかった。聞こうと思ったことがなかった。


 なぜ聞かなかったのか。


 エルナが何も言わなかったから——という答えは、正しいかもしれない。でも今思うと、何も言わない人間には聞く必要がある、という発想がそもそもなかった。


 クロードは少しだけ不快な気持ちになった。自分への不快感だった。でもそれを長く抱えるほどの時間もなかった。テレーズのことを考えなければならない。テレーズは今日も体調が悪いと言っている。見舞いの品も届いた。そちらへの対応が先だ。


 気にしなかったことが、今になって気になっている。気になり始めた、ということが、何かを意味するのかもしれない。でもクロードには、その先がわからなかった。


「クロード様、テレーズ様からお見舞いの品が届いています」


 侍従が声をかけてきた。クロードは思考を切り替えた。「わかった、後で見る」


「はい」


 侍従が出ていくと、また頭がエルナに戻った。エルナに手紙を書こうか、とクロードは少し考えた。「最近調子はどうか」——そういう内容の短い文を。婚約者として、最低限の連絡は取るべきかもしれない。確かに最近、二人で直接会話した記憶がほとんどなかった。社交の場に二人ともいるのに、話した内容が思い出せない。


 書きかけて、止めた。書くべき言葉が見つからなかった。


 テレーズのことが先だ、とクロードは思った。テレーズは体調が悪い。昨日も今日も、体調不良の申告がきている。そちらを心配する方が先決だ。エルナは大丈夫だ——あの人はいつも大丈夫だから。大丈夫ではない顔をしたことが、一度もなかったから。


 そう自分に言い聞かせて、書類に戻った。


 ペンを持ち直して、また書類を読もうとした。でも頭に入ってこなかった。書類の文字が目に入るが、処理されない。結局しばらくして、書類を脇に置いた。今日はこれ以上は無理だ、と判断した。テレーズの見舞い品の礼状を書く方が、今はできる気がした。


 翌日、茶会でテレーズに会った。


 テレーズが少し微笑みながら言った。「エルナさんは最近、元気そうですね」


「そうか? お前はどうだ、体調は」


「私はいつも通りよ。少し胸が苦しい日が続いていて……」テレーズが胸に手を当てた。「でも、エルナさんのことが気になって。なんだか最近、目の色が違うような気がして」


「目の色?」


「うまく言えないのだけれど」テレーズがそこで言葉を濁した。「きっと気のせいね。私が体調が悪いから、そう見えるのかもしれないわ。ごめんなさい、変なことを言って」テレーズが少し首を傾けて微笑んだ。


 クロードはその言葉を聞きながら、「目の色」という表現が頭に引っかかった。自分も似たようなことを感じていた。テレーズが「気のせいかもしれない」と言う。ならば気のせいだろう。エルナが変わるような理由がない。いつもと変わらない婚約者だ。


 エルナに手紙を書くことは、その日も結局しなかった。羽根ペンは机の上に置いたままだった。


 テレーズへの礼状を書き終えて、クロードはようやく少し落ち着いた。文章を書いている間は、他のことを考えなくて済む。エルナのことは、また今度考えよう。今度というのがいつになるのか、決めないまま、そう思った。


 もし手紙を書いていたら——もし何かが変わっていたら——それを、この時点のクロードはまだ考えていなかった。考える必要がないと思っていた。エルナはいつもそこにいる。婚約者はそこにいる。だから大丈夫だ——その思い込みが、どれほど見当外れだったかを、まだ知らなかった。

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