第18話 父の覚悟
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は13:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
翌朝、食堂で父と顔を合わせた。
窓から朝の光が差し込んでいた。テーブルの上にはスープとパンが並んでいる。カティが椅子を引いて、エルナが座るとすぐに引き下がった。父はすでに食事を始めていたが、エルナが来ると顔を上げた。
「よく眠れたか」
「はい」
「そうか」父がパンを置いた。「昨夜の話の続きを、少し整理しておきたい」
「私もそう思っていました」
スープに手をつけながら、二人で段取りを話した。
「婚約解消の申請だが、手順はこうだ」父が言った。「ギルドの公式意見書が出たあとで動く。それが一番確実だ。意見書なしでは、ヴェルニエ侯爵家に対して正式な理由を示せない。感情論で動くことになる。それは避けたい」
「同意します。意見書があれば、感情ではなく事実として話ができます。ヴェルニエ侯爵家も、医療ギルドの公式文書を無視することはできません」
「そうだ。問題は時間だ。意見書が出るまでどのくらいかかるか、ソーリー殿に確認できるか」
「次にギルドに行ったときに聞いてみます。別の薬師がテレーズを観察する機会が作れれば、それほど時間はかからないと思います」
「わかった」父が頷いた。「それが確認できたら、すぐに知らせなさい。そこから先は私が動く」
エルナは少し間を置いて言った。「ただ——相手は侯爵家です。こちらは伯爵家で、格が違います。正式な申請を出しても、受け入れられるかどうか」
「格の問題で正しいことを曲げるつもりはない」
父が静かに言った。感情を高ぶらせているわけではなかった。ただ——一切の迷いがない声だった。
「お前の父親だからな」
エルナは少しの間、何も言えなかった。その言葉が短くて、でもそこに全部が入っていた。格の違いを知らないわけではない。難しいことも承知している。それでも動く——それが父の答えだった。
「格が違っても、書面で出せば相手は受け取らなければならない。無視することはできない。受け取った上でどう判断するかは相手の側だが、私たちはやるべきことをやる。書面を出さなければ、何も始まらない。格の話を理由にして最初から動かないのは、正しいことを諦めることと同じだ」
「……もし侯爵家が拒否した場合は」
「その場合は、また考える」父が言った。「一手先を見て動く。拒否されてから次を考えても遅くはない。今から最悪の場合だけを心配しても仕方がない。動けるところから動く。それだけだ」
エルナは頷いた。それは正しいやり方だ。自分がよくやることだ。手順を考えるとき、できることから動く。できないことを先に心配しない。父も、同じように考えている。血がつながっているのだ、とエルナは思った。考え方が、似ている。
「少し前の夕食のとき——父上が言っていましたね。お前には選択肢がある、と」
「覚えているか」
「覚えています。そのとき、それがどういう意味かよくわかりませんでした。婚約の枠の中での選択肢、という意味かと思っていました。でも今は——違う意味だったんだと思います」
「どういう意味だと?」
「婚約の外にある選択肢も、含まれていた。ということだと思います」
父が少しの間、何も言わなかった。それから「そうだ」と言った。「お前がどう選んでも、それを支える準備はしていた。ただ——お前が自分で動くまで、待っていた」
「……どのくらい、待っていたんですか」
「二年は待っていたな」父がやや低い声で言った。「一年目は、様子を見た。二年目に入ってから、何度か声をかけようとした。でもお前が必要になるまで、自分から話してくることがなかった」
エルナは少しだけ、胸が痛かった。もっと早く話していれば——という後悔ではなく、二年間父も待っていたという事実が、重かった。
「これからは、早めに話します。一人で二年、というのはさすがに長すぎました」
「そうしなさい」父が少し眉を動かした。「まったく、その通りだ」それだけ言って、また視線をスープに戻した。「わかってくれたなら、それでいい」
朝食を終えて、ギルドに向かう準備をしていると、玄関でカティが言った。「昨日よりお顔が明るいですね、お嬢様」
「そうですか」
「はい。なんと言いますか——目の色が違います」
エルナは答えなかった。確かに、違うかもしれない。何かが違う朝だった。
その同じ日の午後、クロードは書類仕事の手を止めて、しばらく何かを考えた。
エルナのことだ、とすぐに気づいた。最近の社交の場で見た顔が、頭に引っかかっている。いつもの穏やかな顔だった。何も変わっていない。笑顔も、言葉も、立ち居振る舞いも——何一つ変わっていないはずだ。
でも——なぜか、何かが違う気がした。うまく言葉にできなかった。そもそも、何が気になるのかすら、はっきりしない。
クロードは少し考えて、違いを言葉にしようとした。いつもエルナは穏やかだ。感情を荒立てない。どんな場面でも、波を立てない。それは今も変わっていない。変わっていないのに——何かが、違う。
目の色、だろうか。
言葉にしてみて、それでもしっくりこなかった。でも、何かが気になった。これまで気になったことがなかったのに、今は気になる。
なぜ気になるのか、自分でも理由がわからなかった。




