第17話 父の言葉
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は10:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
夕食が終わって自室に戻ったあと、父が来た。
扉を二度ノックして「少しいいか」と言った。エルナが「どうぞ」と答えると、父は入ってきた。椅子に座るでもなく、部屋の入り口の近くに立ったままで、少し間を置いてから口を開いた。
「今夜の話だが」
「はい」
「もう少し、聞かせてくれるか。お前が——何年間、耐えてきたかを」
エルナは少しだけ考えてから、話した。今度は、手順の話ではなく、経緯の話を。
婚約から五年が経ったこと。最初の頃はクロードとうまくやっていけると思っていたこと。テレーズが体調不良を繰り返し始めた頃から、クロードの関心の向き先が変わっていったこと。夜会のたびに一人で端に立っていたこと。「婚約者なのに可哀想」と同情され続けたこと。その同情が正しい理解とは違うことを、ずっと知っていたこと。
テレーズの観察を始めたのは、怒りからではなかった。薬師として観察する癖が、自然に動いただけだった。最初は「確証がない」と何度も自分を止めた。それでも記録をやめなかった。やめたら、薬師として観察していないのと同じだったから。二年間で六十回以上、同じパターンが続いた。
話しながら、エルナは自分の声が静かであることに気づいた。感情が入っていない声だ。でも——話すことができている。二年前の自分には、これができなかっただろう。誰かに話す言葉を持てていなかった。観察日誌の中にだけ書いて、あとは全部飲み込んでいた。
今はできる。それが変わったことの一つだった。
社交の場での出来事も、少し話した。「婚約者なのに可哀想」と言われ続けたこと。その同情が的外れであることを知りながら、何も言えなかったこと。「心が広い」と言われて、そうかもしれないと思っていたこと。でも今から振り返れば、心が広かったのではなく——ただ、どこに怒りをぶつければいいかがわからなかっただけだった。
父は聞いていた。部屋の入り口に立ったまま、何も言わずに聞いていた。途中で顔を少し伏せたが、遮ることはしなかった。
「……ずっと、気にしていた」
しばらく沈黙の後で、父が言った。声が、普段より低かった。落ち着いていたが、その落ち着きの下に何かが潜んでいるような声だった。
「お前が夜会から戻る顔を見るたびに。笑顔のまま帰ってきて、翌朝また普通に出かけていくのを見るたびに。何か言うべきか、何度も考えた」
「……でも、言わなかったんですね」
「そうだ」父が少し間を置いた。「お前が判断できると思っていた。それに——お前が自分で動くまで、待つべきだと思っていた。口を出すことが、かえって邪魔になることがある。それはわかっていた。でも……正直に言えば、もっと早く声をかければよかったと、今は思っている」
エルナは父の顔を見た。後悔しているような、でも怒っているわけでもない、静かな顔だった。長く生きてきた人間だけが持つ、重みのある静けさだった。
「なぜ早く話さなかったのか、と聞きますか」
「聞かない」父が首を振った。「お前がそう判断したなら、理由があっただろう。今、話してくれた。それで十分だ」
エルナは少しの間、黙った。
「婚約解消の申請を、お父様にお願いしたいと思っています。私の立場では動かしにくい部分があります。正式な手続きには、父親の名前が必要になると思います」
「わかった」父がすぐに言った。「それは私がやる。お前は何もしなくていい。ギルドの記録が整ったら、知らせなさい。そこから先は私が動く」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない」父がそこで初めて、わずかに表情を変えた。怒りとも違う、悔しさとも違う——ただ、確かに何かが揺れた顔だった。「どうすれば一番いいか、一緒に考えよう。一人でやることはない」
その言葉を聞いて、エルナの胸の奥で何かが静かにほぐれた。涙が出そうになった。出なかった。でも、出そうになったことは、自分でわかった。
父が部屋を出た。扉が閉まると、エルナは静かに深呼吸をした。
一人ではなかった。二年間、一人だと思っていた。でも——ずっと、見ていてくれる人間がいた。言葉にならなかっただけで、気にかけられていた。父はずっとそこにいた。エルナが話さなかっただけで、いなかったわけではなかった。それが今日、初めてわかった。
蝋燭の火が揺れていた。エルナはしばらく、その光を見ていた。
「どうすれば一番いいか、一緒に考えよう」——その言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。一緒に、という言葉が、今の自分には少し重かった。重い、というのは——大事だということだ。軽くない言葉を受け取ってくれた。遮られることも、批判されることも、責められることもなく、ただ最後まで聞いてくれた。そのことが、今夜一番の出来事だった。
手帳を取り出して、今日のことを書いた。「父に全て話した。父は怒らなかった。一緒に考えると言ってくれた」——それだけ書いて、帳面を閉じた。観察日誌とは別の帳面だ。こちらは、自分のための記録だ。誰かに見せるものではない。でも書く。書いておくことで、今日が確かにあったことになる。
明日もギルドに行く。診察をする。一人ひとりの患者に向き合う。いつも通りの仕事だ。でも今夜の後では——少し違う朝になる気がした。




