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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第2話 薬師ギルドの午後

本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は10:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。

 午後の光が窓から差し込んでいた。


 薬師ギルドの処置室はいつも、煮詰めた薬草の匂いがする。青みがかったウォートの葉と、少し甘い乾燥ラベンダーと、それから鉄分の強いモスの香り。エルナはその匂いが好きだった。王宮の庭よりも、夜会の会場よりも、このにおいの中にいるときが、いちばん自分に戻れる気がした。ギルドではエルナは「薬師」だ。婚約者でも、侯爵家の令嬢でも、誰かの隣に立つ人間でもない。ただ薬師として、目の前の人に向き合えばいい。


「失礼します」


 患者が入ってきた。三十代の男性で、顔に疲労の色が濃い。


「どこが悪いですか」


「左の腰です。三日前から。朝に起き上がるのが、一番つらいです」


「では座ってください。後ろから確認しますね」


 エルナは患者の後ろに回り、腰周りを丁寧に指で押していった。患部の硬さを確かめ、筋肉の走る方向を読む。胸椎の下から仙骨にかけて、骨盤周囲の筋肉が過度に緊張している。急性ではない。じわじわと積み重なった疲労性の緊張だ。炎症が起きているわけではないから、温めた方がいい。


「前に曲げると痛みますか。体を前に倒したとき、それとも後ろに反らしたとき、どちらが苦しいですか」


「前です。前に倒すのが……」


「わかりました。筋肉の緊張ですね。骨の問題ではありません」


 患者の顔に安堵の色が出た。エルナは薬棚に向かい、温湿布に使う薬草と、筋肉をほぐす内服薬を選び出す。量を量りながら、説明の言葉を組み立てる。専門用語を使わずに、しかし正確に。患者が理解できなければ、指示は守られない。


「三日分です。使い方はこのように——」


 使用法を説明し、注意点を伝える。「改善しなければまた来てください。それから、前屈の動作は今週は控えて。買い物袋を地面から持ち上げるような動きも」


「ありがとうございます。助かりました」


「お大事に」


 患者が帰ると、エルナは処方記録を書き込んだ。症状、診断、処方内容、次回確認の目安。記録することが大事だとソーリーはいつも言う。「薬師は記録で考える。記録しないなら、観察していないのと同じだ」——その言葉は入ってすぐに教えられた。


 エルナは記録を書きながら、患者の顔を思い出した。説明が終わったときの安堵の表情。「骨の問題ではない」と聞いたときに、体から力が抜けるのがわかった。人は「何が起きているか」を知るだけで、少し楽になれる。その手伝いができるのが、薬師の仕事だとエルナは思っていた。


「戻ったか」


 整骨専門の薬師、シゲルが声をかけてきた。三十代の大柄な男で、エルナとは同時期にギルドに入った仲間だ。


「ホワイトウィローの在庫、また減ってるな。補充の申請は出したか」


「朝のうちに出しました」


「さすが早い。今日も患者が多かったか」


「腰痛が三件。梅雨前はこれが増えますね」


 シゲルが棚の整理をしながらうなずいた。「王都は雨が多いからな。体がついていけない人が増える。辺境はもっと大変らしいぞ。専門の薬師がいないから、重症の感染症や骨折が適切に処置されないまま悪化するって話を聞いたことがある」


 エルナは何も言わずに、記録を書き続けた。


 しばらくして、奥の扉が開いた。ギルド長のソーリーだった。六十代の小柄な女性で、白髪を後ろに束ね、いつも細い目をさらに細めるようにして周囲を見ている。エルナを見つけると、静かに手招きをした。


「少しよろしい?」


「はい」


 執務室は書類と薬草サンプルで埋まっていた。南向きの窓から午後の光が入り、並んだ瓶がそれぞれの色で輝いている。ソーリーが椅子を示したので、エルナは座った。


「今日の患者の対応は正しかった。腰痛の三例を見ていたが、説明の丁寧さが特にいい」


「ありがとうございます」


「謙遜はいい。事実として言っている」


 ソーリーはそういう人だった。良いことを感情ではなく、判断として言う。エルナはそれが好きだった。


「それで——一つ話があるのだけれど」


 ソーリーが書類の端に目を落とした。「ヴェステル辺境伯から、薬師の長期派遣について打診が来ている。詳しい話は今日はしない。ただ、そういうことがあると知っておいてほしかった」


「辺境への派遣、ですか」


「ええ。医療体制が整っていない地域で、長期間にわたって医療を担う仕事。あなたに向いていると思っている。記録する習慣があって、観察が正確で、患者への説明が丁寧。その力が一番活きる場所は、王都のギルドだけではないかもしれない」


 エルナは少し間を置いた。「今は婚約の問題があります。すぐにはお返事できません」


「知ってる。急かしていない。頭の隅に置いておきなさい、ということよ」


 執務室を出ると、夕方の患者が来始めていた。エルナは帳面を開いて今日の記録の最後に書き足した。


「辺境への派遣打診、初めて聞いた。詳細不明。現状は婚約の事情により保留」


 少し迷ってから、もう一行足した。


「その仕事をしている自分を、一瞬だけ、想像した。遠い場所だが、想像することに、抵抗がなかった」


 帰宅すると夜会の招待状が届いていた。テレーズも来る席だ、と侍女が言った。エルナは封を開けずに、机の端に置いた。明日また、違う場所で「別の顔」を使う日が来る。

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