第1話 令嬢の朝
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は7:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
朝の光が薬草棚の瓶を照らすころ、エルナ・ダルトンはすでに白衣の上掛けをまとっていた。
今日摘んできたカモミールを束ごとに仕分け、乾燥が足りないものを選り分け、ガラス瓶に詰める。爪の先までを使って茎の状態を確かめながら、エルナは指を動かし続けた。この作業が好きだった。考えなくていい。ただ、手と目だけで完結する。
「お嬢様、朝のお茶をお持ちしました」
侍女のリリーがトレイを持って入ってきた。エルナは手を止めずに「ありがとう、そこに置いておいて」と答えた。
「今日は午後にクロード様と散策のご予定でしたよね。お召し物の確認を——」
「ええ」
エルナは短く答えた。クロードとの約束は、たしかに今日の午後だ。先週、珍しく自分から誘ってくれた。ヴェルニエ家の庭は今この季節が一番きれいだから、と言っていた。
悪い気はしない。ただ、そこに以前のような弾みがないことに、エルナは気づいていた。
薬草の整理を終えてお茶を飲んでいると、玄関の方から声がした。リリーが出て行き、すぐに戻ってきた。その顔がわずかに曇っていた。
「クロード様からのお使いの方が参っております」
エルナはカップを置いた。
「何とおっしゃっているの」
「テレーズ様のご体調が優れないため、本日の散策はご延期に、とのことで……」
リリーが言い訳をするように語尾を落とした。エルナは少しの間、窓の外を見た。
空は晴れていた。馬車も出せる、歩ける、そういう日だった。
「わかりました。クロード様によろしくとお伝えして」
「お嬢様……」
「いいの」
エルナは立ち上がり、白衣の前ボタンを留め直した。「では、ギルドに行ってきます。今日は予定が空いたから」
リリーが何か言いたそうにしていたが、エルナは帳面——薄い革表紙のノート——をそっと棚から取り出してから玄関へ向かった。
外に出ると、午前の風が頬を撫でた。
悲しくはない、とエルナは思った。怒ってもいない。ただ——何かが、一枚ずつはがれていくような感覚があった。最初の頃は傷ついた。半年ほど前からは「また」と思うようになった。今日は、それすらない。
帳面を開くと、細かな字で書き込まれたページが続いていた。
エルナは歩きながらその日の日付を書き込んだ。
「今日も約束はなくなった」
そう記したあと、少し考えて付け加えた。
「テレーズ様のご体調。今日で十七回目」
数えていたわけではない。ページをめくれば自然とわかる。最初の記録は二年前だった。
薬師ギルドまでの道を、エルナは静かに歩いた。何軒かの商家の前で子供たちが遊んでいる。パン屋の窓から焼きたての匂いがした。王都の朝は、いつもこんな具合だ。
ギルドの扉を押すと、薬師仲間のシゲルが顔を上げた。
「エルナさん。今日は早いな」
「予定が変わりましたので」
それ以上の説明はしなかった。シゲルも聞かなかった。ここでは、そういうものだ。
カウンターの奥から、ギルド長のソーリーが出てきた。六十代の小柄な女性で、白髪を束ねている。鋭い目をしているが、エルナに対しては常に穏やかだった。
「ちょうどよかった。今朝、往診の依頼が来ていてね。エルナに頼めると思っていたところよ」
「はい、行きます」
「町の端の靴職人の家。奥方が腰を痛めているそうよ。詳しい症状はここに——」
ソーリーが書き付けを渡してきた。エルナはそれを読みながら、すでに何を持っていくべきか頭の中で整理し始めていた。
「そういえば」とソーリーが付け加えた。「辺境伯から薬師の派遣についての打診が来ているのだけれど——」
「辺境伯、ですか」
「ヴェステル辺境のね。詳しくは後で話しましょ。まず往診を済ませてきなさい」
「わかりました」
エルナは薬箱を手に取り、ギルドを出た。
辺境伯からの打診。
考えながら歩く。ヴェステル辺境は王都から馬車で三日以上かかる場所だ。医療の手が届きにくいという話は聞いたことがある。
それが今、なぜ自分に——
エルナは少し首を振った。まず、今日の仕事だ。
靴職人の家はすぐに見つかった。扉をノックすると、心配そうな顔の職人が出てきた。エルナが白衣を示すと、表情がほっとしたものになった。
「薬師さん、来てくれたか。ありがとうございます、どうぞ」
部屋に案内されると、寝台に横になった中年の女性がいた。エルナは道具袋を置き、膝をついた。
「どのくらいから痛みがありますか」
「三日前から急に。朝、寝台から起き上がろうとしたら……」
「右と左、どちらが強いですか」
「右の方です」
「腕を上げてみてください。はい、もう少し——」
診察をしながら、エルナの手は迷いなく動いた。ここでは、判断を疑わなくていい。見て、触れて、答えを出すだけだ。
処置を終えて職人の家を出ると、空はもう昼を過ぎていた。
帰り道、エルナは帳面を開いた。今日の往診の記録をつける。患者の状態、処置の内容、次回確認すべき点。こうして書き残す習慣は、薬師としての訓練で身についたものだ。
ページをめくっていると、二年前の記録が目に入った。
テレーズ様、初回。体調不良を訴える。顔色に問題はなし。脈拍は安定。
その一行が、今もそこにある。
エルナは帳面を閉じた。
ギルドに戻れば、ソーリーが辺境伯の件を話してくれるだろう。それが今日の最後の仕事だ。
約束のなくなった午後は、意外なほど充実していた。エルナはそのことに気づいてから、少し複雑な気持ちになった。
複雑だが——深くは考えないことにした。




