第15話 辺境からの打診
本作は70話完結予定です。毎日5話ずつ更新します。本話は21:00投稿分です。面白ければ評価をいただけると励みになります。
昼の診察が終わったあと、ソーリーがエルナを呼んだ。「少し時間があるなら、続きの話をしましょう」
執務室に入ると、ソーリーは書類を一枚机の上に出した。窓から午後の光が差し込んでいた。昼を過ぎた光は、朝よりも少し角度が低い。その光の中で、紙の上の文字がはっきりと見えた。
「辺境伯ライナルト殿から、正式な文書が届いているのよ。薬師の長期派遣打診」
「長期、というのは?」
「最低でも一年。状況によっては延長もある、と。辺境の医療拠点に専門的な薬師を一名常駐させたいという依頼よ」
エルナは書類を受け取った。王家の紋章ではなく、地方の侯爵家の紋が押されている。文面は丁寧で、要件が簡潔にまとめられていた。薬師を一名、辺境の医療拠点に長期派遣してほしい。専門的な診察能力と調薬の知識を持つ人材が必要だ——そういう内容だった。文末に、人材の選定はギルドの判断に委ねるが、以下の三点を必須条件とする、と記されていた。
調薬だけでなく診察能力があること。長期の過酷な環境でも仕事を続けられること。自分で判断できること。
エルナはその三点をもう一度読んだ。どれも、今の自分に当てはまる条件だった。薬師ギルドで五年間働き、診察も調薬も一人でこなしてきた。過酷な環境というのが具体的に何を指すのかはわからないが、長期の地方派遣は経験がなくても、体力に自信はある。自分で判断する——それは、むしろ得意な方だと思っていた。
「辺境では、数年前から問題が続いているのよ。街道沿いの交易が増えて、人口が増えた。でも薬師の数が追いついていない。重症患者が出たとき、対応できる人間が足りない状況が続いているの。先月も、産後の感染症で対応が遅れて、一人亡くなったと聞いている」
「それは深刻ですね」
「深刻よ。ライナルト殿はかなり真剣に対応策を探している。ギルドへの正式な依頼は今回が初めてではないけれど——今回は、こちらに人材を指名してほしいという形で来た」
「……それは、私への打診ですか」
ソーリーが少し頷いた。「あなたが適任だと、私が伝えた。あなたの経歴と実績は、辺境での長期対応に向いている。それは事実だから。ライナルト殿のご判断も同じよ」
返す言葉を考えた。辺境。王都から遠い場所。
五年前なら、「辺境に行く」という言葉に動揺していたかもしれない。婚約者がいる。父がいる。馴染みのギルドがある。それらが理由として並んだはずだ。でも今は——
今の状況を思うと、遠い場所は、必ずしも悪くない。婚約の問題が続いている。王都にいる間は、それは続く。でも、辺境に行けばどうなるか。
そこで思考が少し止まった。
怖くない、ということに気づいた。王都を離れることへの抵抗が、どこにもなかった。いつからそうなったのか——考えてみると、答えは出なかった。ただ、今は怖くない。それだけは確かだった。
「王都から離れることへの抵抗は?」ソーリーが静かに聞いた。
「……ないです。少なくとも、今の自分には」
ソーリーが少しだけ頷いた。「そうか」その「そうか」には、昨日と同じように、余計なものが何もなかった。
「少し、考えさせてください。手続きのことと、合わせて整理したいので」
「もちろんよ。急かすつもりはない。ただ、辺境の状況は深刻だから、あまり長く待たせることもできないのも事実よ。ライナルト殿は待ってくださる方だけれど、現場の患者は待てない」
「わかりました。来週中には返答します。もし早まれば、もっと早くお伝えします」
「それで十分よ、ありがとう」
書類を返して、執務室を出た。廊下に出て、少し立ち止まった。
辺境伯からの打診。王都から離れる機会。婚約の手続きは今動き始めたところだ。テレーズへの診察の機会を作って、別の薬師の確認を得て、ギルドの公式意見書を発行してもらう——その手順が具体化したのは、今日の話だ。
「(これは、組み合わせられるかもしれない)」
婚約解消の手続きが一段落したタイミングで、辺境への派遣を受け入れる。王都を離れることで、関係が清算されたあとの空白を埋める。辺境での仕事は、逃げ場ではなく、次の場所だ。
そう考えたとき、初めて少し、前の方向が見えた気がした。先が決まった、というのとは違う。ただ——選択肢が、一つ増えた。それが今は、十分だった。
午後の診察が始まる前に、エルナは手帳を取り出して、書き出した。婚約の手続き。辺境への返答期限。次の社交の日程。整理すべきことを並べて、順番をつける。今日できることと、今日考えるだけでいいことを分ける。
そして——今日考えなくていいことを、一旦きれいに横に置く。それが今のエルナのやり方だった。
手帳に書かれた文字を見ていると、三つの事柄が一本の線でつながっているように見えた。婚約の手続き、辺境行きの検討、そして薬師としての次の仕事。別々に始まったものが、同じ方向を向いている。そのことが、ほんの少しだけ、気持ちを楽にさせた。
ダルトン伯爵邸に帰ったら、父に話そう、とエルナは思った。全部を話す準備は、まだできていない。でも——動いていることだけは、伝えられる。話してみなければわからないことを、一人で抱えていても仕方がない。




