逃げ場なき契約
伊地知守はワイングラスを鼻に近づけて、その芳醇な香りに酔いしれているような表情を見せた。そしてグラスをゆっくりと回転させながら「今日はお疲れさまでした。ここからは腹を割って、2人だけでアフタートークでもしましょうか」とマスクを口元から下げてみせた。僕もワイングラスの足をつかみながら「そうですね」と不愛想に応じてグラス同士を触れ合わせた。
「乾杯」と白ワインを口に含んでからメニュー表に視線を落とす。
小エビのサラダ、たまねぎのズッパ、エスカルゴのオーブン焼き、辛味チキン、マルゲリータピザ、ミラノ風ドリア、ミートソーススパゲッティ(ボロニア風)、柔らかチキンのチーズ焼き、コーヒーゼリー&イタリアンジェラート……。魅力的な写真がところ狭しに並んでいる。
僕は口内で急速に分泌され始める唾液を音を立てずに飲み込みつつ、伊地知の反応をうかがった。彼は奢るからイタリアンレストランで話をしようと言ってきた。その真意はどこにあるのか。これからどのような話が始まるのか。相手の手の内がわからない以上は、どうしても交渉のテーブルは伊地知に有利に働いてしまう。なるべく多くの情報を引き出したい。僕は浅はかにもそんなことを考えていた。
「どうやらモバイル注文みたいなので、ここは僕がまとめてオーダーしますね」
そうスマートフォンでバーコードを読み込んで、僕は注文画面を開いた。
男2人が黙っていても空気が重くなるだけなので、何気なく質問もしてみる。
「そういえば伊地知さんって有名人なんですよね。サングラスやマスクをしてますけど、こういう庶民的なお店に来ても大丈夫なんですか?」
「ええ、有名人といっても、もともと僕は都市伝説やオカルト系、それと心理学による時事ネタ解説をやってネットの片隅で食い扶持を稼いでいただけの人間なので。多少の案件はもらえるようになりましたが、人気者とは程遠いですよ。さて、注文いいですか?」
伊地知が右ひじをテーブルに載せるのを見ながら、僕は「どうぞ」と答えた。
「ほうれん草のソテー、チョリソー、焼きチーズ・ミラノ風ドリア、イタリアンプリンとティラミスの盛り合わせ。せっかくなので可能なものはシェアして食べましょう。ほうれん草のソテー、焼きチーズ・ミラノ風ドリア、イタリアンプリンとティラミスの盛り合わせはセパレートできないので追加注文しましょうか。他に何か食べたい物はありますか?」
僕は黙って首を振って、注文送信を押した。
さて、どこから攻め込んでくる?
企業の虎での醜態について踏み込んでくるか?
それとも他のネタで、精神的に揺さぶりを仕掛けてくるつもりか?
「僕、マクドナルドやサイゼリヤとかのお店が大好きなんですよね。だって安くておいしいじゃないですか。学生の頃からよく通うくらい好きなんですよ」
腹黒いことを言われるのかと身構えていたら、肩透かしを食らった。
中身はただの世間話のようだ。
ただ普通に食事がしたかっただけなのだろうか?
僕は考えすぎだったかなと、ワイングラスを口に運んだ。
「それに……あなたみたいなフリーターの方でも、ここなら身の丈に合っていて落ち着くでしょう?」
伊地知はそうサングラスをテーブルの脇に置いた。
遮るものがなくなった眼差しは、純度100%の悪意を孕んでいた。
僕は音を出さないように深呼吸をしてから、「あなただって……」と反論を試みる。
しかしウエイトレスさんがほうれん草のソテーを運んできてくれたので、その言葉をいったん呑み込む。
皿いっぱいに広がるほうれん草の豊かな緑色と、パンチェッタのピンク色の美しいコントラストが食欲を刺激した。カトラリーケースを開けてフォークを2本取り出す。片方を伊地知に渡してから、口いっぱいに頬張る。
その瞬間、語彙力が消滅した。
うまい!
決して薄くなりすぎず、きちんと味付けされた程よい塩味。
廃棄弁当がもらえない日は、もやしに塩コショウを振って生活することもあった。
だからこそより強く、脳が揺さぶられる感覚を覚えた。
こんなに安価で餌付けされてしまうのは悔しいが。
「皿まで舐めまわして、まるで犬ですね。喜んでもらえて嬉しいです」
伊地知の冷笑で、はっと我に帰る。
僕は無意識のうちに皿を持ち上げて、フォークで食料を流し込んでいた。
さすがに皿は舐めていないが、少し恥ずかしさを感じてしまう。
「舐めているのは伊地知さんの方でしょう。僕のことを舐めすぎです」
次の言葉を考える時間なんて与えられない。
一瞬の沈黙すらも、伊地知はこちらの敗北として利用するからだ。
「これはこれはご傷心中のところ、どうも失礼しました。では傷を舐めてあげましょうか。あなたと違って、負け犬同士の傷の舐め合いはできませんが」
何かを言い返してやろうと、机に手をついて身を乗り出すと、今度は焼きチーズ・ミラノ風ドリアとチョリソーが運ばれてきた。
伊地知はサングラスを掛け直して「ありがとうございます」と微笑を浮かべて受け取った。相変わらず外面を取り繕うことだけはうまいようだ。
「そういえば伊地知さんは知ってますか? サイゼリヤのキッズメニューの裏面にある間違い探しのイラスト。あれは大人でも探すのが難しいそうですよ。人の粗探ししかできない伊地知さんには、一生見つけられないかもしれないですね」
僕はそう伊地知を煽ってから、届いた商品に目を向けた。焼きチーズ・ミラノ風ドリアだ。定番メニューのミラノ風ドリア。その表面をカリッカリの焼きチーズがコーティングしている。
「粗探ししかできないとか言ってますけど、あなたは人生の間違い探しをした方がいいんじゃないですか? それとも間違えた選択肢しかなさすぎて、正解探しをする方が難しいですか?」
じゅわじゅわと浮かぶチーズの泡沫。伊地知はそれをくるくる巻いて端に寄せて、ミラノ風ドリアに喰らいついた。
「本当に食えない人ですね、伊地知さんは」
「実際に飯が食えていないのはあなたの方では? 僕は食に困っていませんよ。今度は黙って見ているので、さっきみたいにミラノ風ドリアをかき込んだらどうですか?」
「口の中を火傷しますよ!」
僕はそう冷水を口に含む。
「犬なのに猫舌なんですね」
伊地知はチョリソーの1本にフォークを刺した。
「食えない人だ」
「食わせているのは僕ですけどね」
ひと通りの食事が終わると、デザートのイタリアンプリンとティラミスの盛り合わせが運ばれてきた。
「伊地知さんでも甘い物を食べるんですね。僕の前では、常に苦虫を噛み潰したような顔をされているので、苦虫がお好きなのかと思っていましたよ。たで食う虫も好き好きと言いますし、パクチーとかお好きなんじゃないですか?」
僕はそうスプーンをイタリアンプリンの表面に添わせる。
もっともろくて崩れやすいと思っていたが、固くて弾力があった。
カラメルソースが皿の底に溜まっていて、お腹が鳴るのを抑えられなかった。
「はい、大好きですよ、パクチー。あなたみたいに癖が強くて、みんなに嫌われているところとか、見ていて滑稽ですよね。ご住所を教えていただければ、パクチーを段ボールで郵送して差し上げますよ。あれ、でも送る住所があるのか、怪しかったですね。これは失礼しました」
僕はもっちりとした触感と卵の濃厚な風味、そしてカラメルソースの苦みとのコントラストを楽しんでいたが、伊地知のせいで口の中を台無しにされた。実際の彼は甘いマスクと一部の視聴者からもてはやされているが、だったら一生マスクでもして、その醜い素顔を隠しやがれと内心毒づく。
「……何が言いたいんですか。まさか僕を路頭に迷わせて、自分の手駒にでもしようって算段ですか」
僕が絞り出すような声で抗議すると、伊地知はデザートスプーンを静かに皿の脇へ置いた。カチャリと冷たい音が鳴る。
「路頭に迷わせるだなんて、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。放っておいても、あなたは勝手に人生に迷っているんですから。そんな惨めな人間に、こちらから悪意を持って何かを仕掛けるなんてことはしませんよ」
伊地知はため息を吐きながら、スマートフォンの画面を操作して僕に見せてきた。画面に映っていたのは、先ほど収録したばかりの『起業の虎』の動画データだった。僕が無様にしどろもどろになり、最後には『モンスター』として追放される場面が静止画で表示されている。
「だからこそ善意をもってあなたに手を差し伸べるつもりです。救済の手を取っていただけますか?」
「……拒否権は、ありますか?」
伊地知は「うーん、そうだな」と考えるそぶりを見せながら、わざとらしく頬杖をついてみせた。
いつでも逃げ出せる空間にいるはずなのに、僕は袋小路に追い詰められていくネズミのような心情だった。ことごとく退路をつぶされていくような感覚。もしかしてそのために、今まで雑談をしていたのだろうか。
「この動画の著作権は、僕が買い取っています。つまり、これをどう料理しようが僕の自由なんです。もちろん無編集で動画を出してもいいし、視聴者が楽しめるように多少手を加えてもいい」
僕の喉はカラカラに乾いていたが、ワイングラスに手を伸ばすことすらできない。そんなことをすれば手が震えてしまうはずだ。心理的な動揺を隠せる自信がない。
「わかりますか? あなたの社会的な生殺与奪の権は僕が握っているんですよ。逃げるのは構いませんが、逃げられるとは思わない方がいいですよ」
背中に冷や汗が伝う。
目の前の男の計算高さに恐怖すら覚える。
「もう一度言いますが、嫌なら断ってください。強制なんてしません。ただし僕の会社で働くつもりがないのであれば、仕方がない、交渉決裂です。このまま動画を投稿するだけです。僕にとってはセルフブランディングもできているので問題ありませんしね」
この男は何手先まで盤面を読み切っているのだろうか。まるでこちらの手札がすべて見透かされていて、そのカードを事前に無効化してくるような物言いだ。
「ああ、それと。マクドナルドでの前払い金の件も覚えていますよね。もちろんあちらも即座に返済してもらいますよ。契約不履行なんですから、当たり前ですよね?」
伊地知はそう冷徹な瞳で、僕の表情の変化を観察していた。
一矢報いてやりたい。なんとかガツンと言い返してやりたい。
だが幾重にも仕込まれていた罠が一気に僕の足元をからめとっていく。
「そ……それは」
僕が言葉を発しようとした瞬間に、伊地知は被せ気味に言った。
「ですが僕の下で働くというのであれば、家賃の心配も食費の心配も必要ありませんよ。経営者として、きちんと社員の生活の面倒も見てあげます」
もはや僕に選択肢はなく、あいまいに頷くことしかできなかった。
イタリアンプリンもティラミスも、味がしなかったので残した。




