狡猾な仮面
衣装ロッカーから青と白のストライプ模様の制服を取り出す。
まだ手の平が熱くて、まぶたが重い。
布団の中に入っているときの余韻が身体を包んでいた。
薄暗いバックヤードでひと眠りしたくなってしまうような気怠い朝の雰囲気。
僕はこのまどろみとも覚醒とも違う、二極化されない狭間の感覚が好きだった。
伊地知守との昨日のやり取りすらも夢だったのではないかなんて疑ってみるが、
「あなたみたいなフリーターの方でも、ここなら身の丈に合っていて落ち着くでしょう?」
「皿まで舐めまわして、まるで犬ですね」
「あなたは人生の間違い探しをした方がいいんじゃないですか?」
「大好きですよ、パクチー。あなたみたいに癖が強くて、みんなに嫌われているところとか、見ていて滑稽ですよね」
こんなキラーフレーズを何度も浴びせられたのだ。
あの屈辱は忘れられない。
それなのに最後は契約を結ばざるを得なかった。
決定権の自由を与えつつも、拒否という選択肢を奪い去る論理構成。
悔しいけど、伊地知というプレイヤーの方が何枚も上手だったと自覚する。
「おはようございます。今日もお願いします」
佐藤美咲さんが明るい笑顔であいさつをしてくる。
キャミソールにピンク色のカーディガン。それにジーンズでコーディネイトをしていた。
後ろ髪をシュシュで結んでおり、コンビニ店員よりもスターバックスで働いていそうな華のある女子学生だった。
「ああ、おはよう。早く制服に着替えてタイムカードを押しといてね」
今日もやることは多いよ、などといかにもな先輩風を吹かせる。
というか、立場上そうせざるを得ないのだ。
そんな単純なことが、最近になってようやく理解できた。
人間は立場や役職に応じていろんな顔を演じ分ける。
だとしたら伊地知がやっているセルフブランディングは悪なのか。
なんなら昨日のサイゼリヤでの会話だって、何か必要があったからやったのかもしれない。
善と悪の境界線はいつだってあいまいで、ブラックコーヒーにポーションミルクを垂らしたような、白と黒が不均一に混ざり合ったり、逆に混ざり合わなかったりして、不器用なコントラストを提示してくる。
伊地知が行ったことも救済と支配。
表だけ見れば善で、裏だけ見れば悪。
だけど両方から見ると白と黒が混濁していて、単一では存在していない。
店内のラジオが夏の定番ソングを流し終えて、あの男が話し始める。
僕はまたこれかよと肩を落とした。いい加減にもう聞き飽きていた。
「どうも、伊地知守です。世の中には、宗教上の理由や個人的な思想によって、現代医学の治療……医薬品や医療機器を使った治療を受けられない患者さんが、実はたくさんいらっしゃいます。僕はそのような既存の医療の手が届かない人たちを救いたいんです。そのために動画配信活動を始めました。僕が有名になることで、救えるはずの命が、一人でも多く助かってくれたらなと思います。ちなみに僕が好きな食べ物は、このコンビニ限定で発売している竜田揚げくんですね。子供の頃からずっと食べてました」
冷凍された竜田揚げくんの業務用袋をレジ台に置いて、ハサミで開封していく。
まるであいつに「そうしろ」と促されたようで心外だが、冷凍庫の在庫と発注数を見比べたら、ここで多めに作ってホットスナックの商品棚に陳列しておかないと処理が間に合わないと思ったのだ。
「あの先輩、ちょっといいですか?」
「どうした。業務上のトラブルか?」
「いえ、そんな。仕事の話じゃないんですけど」
佐藤さんはパンの品出しを続けていた。
お客様が商品を取りやすいように、賞味期限が近いものから順に並べている。
「今の店内ラジオの人、知ってますか?」
「それなりに知っているよ。なんかのインフルエンサーでしょ」
詳細な部分はあえてぼかしておく。
こんなやつと知り合いだなんて思われたくない。
いずれバレるにしてもここで打ち明けるメリットがない。
「そうです! すごく頭が良くて、魅力的なんですよ!」
「そうなんだ。面白いの?」
「はい。チャンネル登録して、毎回高評価を押してます!」
「ふーん、普段はどんなコンテンツを投稿している人なの?」
「私は都市伝説の動画とか好きでよく見るんですけど、伊地知くんの話って、なんか説得力があるんですよね。先輩も伊地知くんに興味あるんですか?」
「うん、ちょっとね」
フライヤーの高温の油で、一気に竜田揚げくんを調理していく。
その香ばしい匂いに食欲を刺激されながらも、僕の脳内だけは高速で情報処理を行っていた。
最近になってスピリチュアル医療を始めたということは、死神の力を得てからは、そこまで日が経っていないということか?
伊地知は、どのような経緯でこの能力を手に入れたんだ?
入手に至るまでの過程で、僕との共通点はあるのだろうか。
そもそも、この能力は複数人が所持できるものなのか?
もしそうなら、他にも能力者がいる。
伊地知は、どこまで知っているんだ?
そういえば最近、死神を見ていない。
危篤の人間の前にしか現れないという条件があるのだろうか。
だとすれば――死神が現れるのは、肉体的な死に直面した人間だけではないのかもしれない。
精神的な死に直面した人間。
そう考えなければ、肉体的には健康だった僕の前に、あの老爺が現れたことに説明がつかない。
「バイト終わりに、私も竜田揚げくんを買っちゃおうかな」
佐藤さんの明るい話し声でふっと我に返る。
いつの間にか長考していたようだ。
「伊地知くんがお勧めしてるくらいだし。食べたくなっちゃった」
「こんなの、どうせ案件でしょ」
「夢がないですね。先輩は」
「現実を見ているだけだよ」
「でも伊地知くんは希望を与えてくれます」
キッチンタイマーが鳴り響く。
僕はフライヤーから揚げ物を取り出して、油切りバットの網の上に載せた。
キッチンペーパーに滴る黄金色の油が輝いて見えた。
それを一つずつトングで掴んで、ホットスナックの商品棚に陳列していく。
「伊地知くんって、こういうの上手ですよね」
「こういうの?」
「普通の人がお勧めするときって、おいしいので是非食べてくださいってなるじゃないですか。でもこの人は、子どものころから食べていました。思い出の味ですって自分のエピソードも交えて話すんですよね」
「そうかもしれないけど、一般的な手法じゃないのか?」
「今日の先輩はなんだか意地悪ですね。伊地知くんのこと嫌いなんですか?」
「いや、好きでも嫌いでもないよ」
本音だった。まだ気持ちの整理がついていない。
好きではない。これは確実。
でも嫌いという感情でもない。
どんな感情なのか、白黒はっきりしない状態だ。
「1個食べてみようかな」
「勤務中に?」
「休憩時間にですよ」
「ならご自由にどうぞ」
「先輩も食べます?」
「僕はいらない」
「えー。伊地知さんがお勧めしてるのに」
「だからこそ、食べたくないんだよ」
「やっぱり嫌いじゃないですか」
「そうなのかもしれないな」
人間には多面性があるから、嫌いな自分も、好きな自分も、混ざり合わない感情が同居しているのかもしれない。
そんなことを考えつつ、バイトを終えた。
自動ドアをくぐって一歩外に出ると、そこは灼熱だった。
セミが道路に仰向けで横たわっている。
夏の風物詩ですらも焼き殺す異常な火力。
ネパールではヒマラヤ山脈の雪原が融けて、町中が洪水に飲み込まれているという。
地球温暖化はいまだに予断を許さない状況だ。
そんな中で、伊地知からメッセージが届いた。
「夕方に鳥貴族で集合できますか? 仕事仲間を紹介しましょう」
新たな心理戦が始まりそうな予感がした。
せめて冷戦で済めばいいのだが。




