第九話「祈りの水深」
「人のアイデンティティというものは、環境の刺激を受けて常に変容していくものです」
アジアリージョン最大のハイパービルディング。トクズタワーの前で、再びあった天日とアウローラ。ヴィタルマナの持つ力が明らかに……
早朝の細雨は上がり、空にはただ一枚、薄い雲が残されていた。
その切れ間から差し込む陽光が、濡れた路面に白い筋を引いている。
風はない。街路樹の葉に溜まった雫が、ふと思い出したように、地面を叩いた。
SCTDが発足して、ひと月あまりが過ぎていた。
天日は、引き続きボルトの指揮下に置かれていた。とはいえ実戦要員にはほど遠く、マリィたちが作戦の骨子を練り上げているあいだ、天日に割り当てられたのは、膨大な座学だった。
軍と警察の統合防衛ネットワーク。境界の通信プロトコルと物理仕様。内務省が管轄する広域防衛システムの、複雑な階層構造。
一つの疑問を解けば、その奥でさらに二つの新たな疑問が、口を開けて待ち構えている。
正直に言えば――楽しかった。設計思想の随所に、マリィの残り香が読み取れる。冗長性の確保と効率性の追求とが、矛盾することなく一つの構造に同居している。
ペイル・ドゥと、畏れ混じりに呼ばれる所以が、コードの行間からじわりと滲み出ていた。
シモンもまた、約束を守り続けていた。任務の合間を縫っては、天日に稽古をつけた。
わだかまりが、すっかり消えたわけではないだろう。だが顔を合わせる回数が増えるにつれ、その声から、硬さが少しずつ抜け落ちていった。
ヴィタルマナとしてではなく、天日=エゼンという一人の人間として接しようとする――その不器用な努力が、確かに伝わってくる。軍人になった経緯も、中東リージョンで味わった凄惨な記憶も、シモンはぽつり、ぽつりと語ってくれた。
訓練の甲斐あって、天日は一通りの銃火器の扱いを習得した。
格闘術についてはどうやら筋がいいらしく、シモンが珍しく、素直に褒めた。あの男がお世辞を口にする場面など天日には到底想像できなかったから、それは何よりの自信になった。
入った当初は、自分にいったい何ができるのかと思い悩んだ。だが、やるべきことが次から次へと降り積もり、感傷に浸る隙間など、あっという間に埋め尽くされていった。
そして今日――どうしても果たさねばならないことがある。アウローラとの、再会だった。
「いいか。アウローラのことは、上層部には伝えていない。知っているのは、俺たちだけだ」
ボルトの言葉が、ふと脳裏をよぎる。
「シン・シティなる人権団体の本質が見えてくるまでは何とも言えんが、少なくとも俺は、水面下では協力的な関係を築くべきだと考えている。聡明そうな子だ。こちらの立場も、理解してくれるだろう」
天日には、もう一つ、心に引っかかっていることがあった。防衛システムを改竄した、内通者の存在だ。
マリィによれば、あのシステムの運用構造上、一人や二人の犯行で起こせるような規模の書き換えではないという。しかし現段階で判明しているのは、件の事務次官ほか数名が、忽然と姿を消したという事実だけだった。
テロリストたちは、いったいどのようにして内務省の職員を何人も篭絡し、いまなお潜伏させおおせているのか。
他者を感化する力。――その言葉が、頭の隅でちらつき、離れようとしなかった。
*
「ご連絡くださると、思っておりましたわ」
アウローラとは、すんなり連絡がついた。
落ち合う場所として彼女が指定したのは、トクズタワーの正面エントランスだった。約束自体は以前から交わしていたとはいえ、まさかこの繁華街の只中を選んでこようとは思わなかった。
トクズタワー。地上二六〇階建て、高さおよそ一五〇〇メートル。アジアリージョン最大のハイパービルディングだ。
周囲には多種多様な商業施設が建ち並び、人工の湖にはいくつもの浮島が係留され、上空を行き交う宣伝ドローンさえ、まるで街を彩る飾りのように見える。何か特別な祝典でも催されているかのような、華やぎだった。
仕事以外でオリジン区画に足を運ぶことのない天日にとっては、その目まぐるしさそのものに、酔ってしまいそうだった。
「それじゃあ、行きましょうか」
約束の時間からわずかに遅れて現れた天日を、アウローラは笑顔で迎えた。言うが早いか天日の手を取り、トクズタワーの中へとぐいぐい引いていく。
「す、すみません。こういう場所は、初めてで――」
アウローラは気にする素振りもなく、一直線にエレベーターへと向かった。
ヴィタルマナ特区で会ったときの、あの差し迫った空気は、もうどこにもない。まるで無邪気な少女のような足取りだった。
「ずっと、行ってみたいと思っていたの」
指定されたのは、一八〇階。内務省タワーの四十階まで、階段で駆け上がった記憶を持つ身としては気の遠くなるような高さだが、エレベーターはものの十数秒で到着した。
「アクアリウムが、ありますのよ」
扉が開くと同時に、アウローラが言った。
「アクアリウム?」
「そう。大きな水槽。――ほら」
アウローラがフロアの入口に立つと、自動扉がするりと開いた。室内であるはずなのに、眩い光が差し込んでくる。天日は反射的に目を細めた。
やがて視界が開けると――真っ青な海が、眼前にどこまでも広がっていた。
壁という壁が、天井が、そして足元の床までもが、すべて水で埋め尽くされている。
「素敵。まるで私たちまで、海の生き物になったみたい」
フロアへ踏み出したアウローラの声が、水の青へと溶けていった。
継ぎ目のない全面ガラス張りのトンネルが、緩やかにうねりながら、奥へと続いている。本当に床があるのかどうかすら怪しく思え、天日は溺れはしまいかと足元を確かめながら、おそるおそる踏み入れた。
「よかったですわ、喜んでいただけて。でも、わざわざ空中に海を作るだなんて、お魚たちにとっては、迷惑だったかしら」
アウローラが振り返り、いたずらっぽく微笑んだ。
「そうですね……とにかく、驚いてはいます」
感想に迷った天日は、そう答えるのが精一杯だった。
「天日、見てください。ほら――」
アウローラが、天へと指を突き上げた。天井と呼ぶべきかも分からないガラスの向こうから、色鮮やかな小魚の大群が、流星群のように、こちらへ降り注いでくる。
ぶつかる――天日はとっさに身を伏せた。当然のことながら、魚たちはトンネルの外壁に沿ってなめらかに迂回し、足元の下を通り抜けていった。
「――驚いた」
ゆっくりと身を起こす天日を見て、アウローラは声を立てて笑った。
「私たちも、あんなふうに自由に泳ぐことができたなら、きっと楽しいのでしょうね」
魚たちは、まるで本物の海を泳いでいるかのように、悠然としていた。床も、天井も、外壁さえも、目視ではまるで判別がつかない。
ここが地上一八〇階だなどとは、到底信じられなかった。
二人は、ガラスに浮かぶサインに従って、ゆっくりと歩いた。アウローラは海洋生物に詳しいようで、道すがら、種の名や習性をあれこれと教えてくれた。
まるで海中を、人魚に案内されているような――またとない体験だった。
どのくらい歩いただろうか。蛇行するトンネルのせいで、体感はずいぶんと引き延ばされていた。周囲に他の客がいないことを確かめて、天日はふと足を止めた。
「アウローラ――その、感化の力について、教えてほしい」
アクアリウムは、確かに美しい。だが今は、果たすべき役割があった。
「ええ。そのつもりですわ」
アウローラは歩みを止めて振り返った。
微笑んではいたが、先ほどまでとは、何かが違う。瞳の奥に、芯のようなものが、すっと据わっていた。
「折角ですから、歩きながらお話ししましょうか」
天日が歩み寄ると、アウローラはその真横に並んだ。二人は再び、ゆっくりと進み始めた。
道すがら、アウローラは天日の問いに、一つひとつ丁寧に答えていった。
感化の力は、要領さえつかんでしまえば、暴発するような類のものではないという。意識によって制御することが可能で、ヴィタルマナ特区でのあの時に制御できなかったのは、ただ、それどころではなかったからだと、彼女は言った。
その強度は、受け手によっても異なるらしい。
ただ、念じる程度では、相手の行動を無条件に操れるような力はない。せいぜいが「そんな気がしてきた」と思わせる程度のものだ。しかし、前後にかける言葉次第で、行動を促すことは十分に可能だ、とも付け加えた。
アウローラ自身は、意図して恣意的な思いを向けたことは一度もないと断った。だが同時に、目の前の相手をひととき操る程度のことであれば、できてしまう、とも言い添えた。
同じ力を持つ者には、これまで会ったことがないという。天日がそうかもしれないと知って、つい親近感を覚えてしまった――と。それほどまでに希少な事例なのだろう。
力の強度に個人差があるのかどうかは、確かめようがなかった。
「人のアイデンティティというものは、環境からの刺激を受けて、絶えず変容していくものです。その意味において、とりわけ強い影響を与えてしまうことは、確かでしょう。けれど、たった一度の接触で、その方の人生観をまるごと塗り替えてしまうような効果は、期待できません。――ですが、交渉の場で意見を取りまとめていくような使い方であれば、非常に効果的だと考えられます」
そして、最も肝心な点。――本心でないことは、決して伝わらない。たとえば「死にたい」とどれほど強く念じたところで、念じる本人にそのつもりが微塵もなければ、相手には何一つ伝播しないのだという。
「ねえ、試してみましょうか」
エレベーターのエントランスが視界の先に見えはじめ、アクアリウムもいよいよ終盤に差しかかった頃だった。
「それが、一番手っ取り早いですわ。天日、今この瞬間に思い浮かぶもので、心から願えることを一つだけ決めて――私に、強く訴えかけてみてください」
そう言ってアウローラは、天日を下から覗き込むようにして、にこりと笑った。
「いいですか、真剣に」
天日は、今すぐにでも臨場感を抱ける願いを一つ選び、心のなかで強く念じた。
アウローラが、鋭い眼差しを向けてくる。天日は祈るように指を組み、頭のなかがそれだけで満たされるまで、何度も繰り返した。
――すると、アウローラは「そう」と、どこか意地悪げに笑った。
思いは、見事に伝わったらしい。だが、自分が何を選んだのかを悟られてしまった気恥ずかしさが、遅れてじわりと押し寄せてきて、天日はその選択を少しだけ後悔した。
「ふふ、いいですわね。私も、お腹が空いてまいりました。そうですね、よい時間ですし――お昼にしましょうか」
アウローラはそう言うと、再び天日の手を引き、軽やかにエレベーターへと急いだ。
*
「私たちもディマンドの行方を追っているのですが、あれ以来、こちらからは連絡が取れなくなってしまって――」
アクアリウムを出た二人は、トクズタワー内のナチュラルフードのレストランで、食事をしていた。マリィが教えてくれた、ブラフマナスパティ社系列の店だ。
他愛のない話に興じていたアウローラが、食事を終えると、ふいに表情を切り替え、ディマンドのことを切り出した。
「アウローラが責任を感じることじゃない、と思うけど」
天日は、ヴィタルマナ特区のホテルで聞いた、彼女の告白を思い返していた。
「確かに、私には、彼を正しい方向へ導くことができませんでした。彼だけではありません。彼についていったシン・シティの仲間たちも、大勢――けれど、それだけが理由ではないのです」
窓際の席からは、アジアリージョンの巨大な街並みが、一望のもとに広がっていた。
上海区の高層ビル群の向こう、西には中央区が、北にはヴィタルマナ特区が、淡く霞んで見える。
「天日――平等とは、何でしょう。公平とは、何でしょうか。長い時間をかけて、議論され尽くしたはずなのに、私たちは、また同じ過ちを、繰り返してしまっている」
アウローラはそう言うと、長い沈黙を選んだ。
自問の答えを探すように、じっと窓の外を見つめている。その視線の先に、境界が見えた。
雲がゆっくりとテーブルの上を横切り、淡い影を落とした。
天日は考えるふりをしながら、彼女の言葉の続きを、静かに待った。
「――誰もが、望むことを認められ、休むことを許される。幸せのかたちを、自らの手で決めることができる、絶望のない世界。生きることも、そして死ぬことさえも、奪われてはならない。だからこそ私は、この世界を正しく糺さなくてはならない。そう、思っているのです」
その瞬間のアウローラの眼差しには、一点の曇りもなかった。
「ディマンドのやり方では、本当の意味で世界は変わらない――そういうこと?」
「ええ。私は、そう信じています。だから、天日――どうか彼を、お願いします」
彼女が今日、天日に会った目的は、SCTDへの期待を伝えることだったのだろう。あるいは――その器を、見極めることだったか。
違法行為に手を染めてはいないとはいえ、アウローラたちシン・シティが急進的な思想の持ち主であることに、変わりはない。シン・シティそれ自体、議会も注視している存在だ。
「アウローラの言っていることは、理解できる。――でも正直に言うと、僕には、よく解らないんだ」
天日は、視線をガラスへと向けた。
透き通ったアウローラの横顔が、街並みの上に、淡く重なっている。
世界を憂う気持ちは、本物だ。糺そうとする決意も。そして自らもまた正しくあろうとする覚悟が、その小さな体を、何倍にも大きく見せていた。
「ヴィタルマナだからって、不自由だとか、生き辛いだとか。そういうのは……僕には、解らない。経験がないんだ。辛い記憶を探すほうが難しいくらいで、むしろ――感謝しているくらいで」
「天日……」
「僕にはむしろ、オリジンたちのほうが、ずっと苦しそうに見える」
天日は、カップの縁を指先でなぞった。その指の上を、マリィの声が、すっと通り過ぎていく。
「――マリィさんが、言ったんだ。『魂が宿っていなかった』って。そう言って――たぶん、泣いていた。だからきっと、そういうことも、君の言う間違いの断片なんだと思う。あんな思いを、誰かがする必要なんて、ないほうがいい」
アウローラにとっては脈絡のない話だったはずだが、彼女はそれを、静かに聞いていた。
マリィはあのとき、つい漏らしてしまったのだと思う。だからこそ「忘れて」と天日に言った。けれど天日はその一言が忘れられず、オリジン区画に足を運ぶたびに、ふと思い出してしまうのだった。
「心配しないで。軍も警察も、ディマンドを止めたいと思っている。僕も――僕は、アウローラの言っていることは、正しいと思う。だから、僕にできることは、やってみるよ」
「ありがとう、天日」
アウローラの声は、小さかった。その響きには、世界を変えようとする者の強さではなく、誰かを信じようとする者の、静かな覚悟があった。天日は、それに何も返さなかった。
窓の外では、さきほどまでテーブルに影を落としていた雲が、いつの間にか、流れ去っていた。




