第六話「アウローラ=イェスニー」
「……これ以上話すのは危険だ」
ヴィタルマナ特区に帰省した天日。アナスタシアと共に訪れた屋台街で、男達に絡まれる一人の女性と出会う。
オリジンから、およそ〇・一パーセントの確率で生まれる突然変異種――ヴィタルマナ。
「久視細胞」と呼ばれる特殊な細胞を持ち、免疫力と再生能力において、オリジンを遥かに凌駕する。
極めて長寿であり、シミュレーションでは、少なくとも千年以上の寿命を持つと推定される。現在確認されている最古の個体は一〇四歳と公開されているが、その外見は、二十代のそれと見分けがつかない。
その存在が世に知れたのは、別世界秩序から、わずか五年後のことだった。
きっかけは、とある小さなメディアが報じた情報番組――「年齢の割に、あまりにも若い人がいる」という、ただそれだけのチープな話題である。
しかし、その珍妙な噂はソーシャルネットを通じ、瞬く間に拡散した。各地で年齢にそぐわぬ若さの人々が取り沙汰され、なかには外見と実年齢の乖離があまりに著しいために「地球外生命体だ」などという馬鹿げた推測が、大真面目に論じられる始末だった。
収拾がつかぬと見た世界評議会は、西暦二一三五年、ついにヴィタルマナの存在を公開する。同年に実施された特定調査では、世界中で約一五〇万人のヴィタルマナが確認された。
西暦二一三八年。中東リージョンで、ヴィタルマナによる武力蜂起が起きる。首謀者は「偏見に満ちたこの世界を、変えたかった」との声明を残した。
このテロを受け、翌年、世界評議会は「ヴィタルマナ人権法」を施行。各都市の近郊に、「ヴィタルマナ特区」の建設が始まった。
まだ幼いヴィタルマナを抱える親たちは反対運動を起こしたが、世論は次第に賛成へと傾いていき、すべてのヴィタルマナは血縁から引き剥がされ、特区への移住を強いられた。当時の差別は、古の魔女狩りさながら、今日とは比較にならぬほど苛烈だったという。
ヴィタルマナ特区は、前時代の生活インフラが残された地域を土台に建設された。居住区と商業区はコンパクトに整理され、その外周には工業地帯と農場が広がっている。
一次産業と二次産業は、ヴィタルマナの主要な労働だ。世界中で消費される食料や資材の八割以上を、このヴィタルマナ特区が支えている。もっとも、大部分はオートメーション化されており、その実、暇を持て余す者も少なくない。
ヴィタルマナの経済は、コミュニズムに近い。
人権法によって過剰な資産の個人所有が制限されている以上、働こうが怠けようが、生活に大きな差は生まれにくい。そんな世界にあって、寝る間を惜しんで働く天日は、ヴィタルマナのなかでも、極めてマイノリティな存在だった。
品種改良の途上にある「きのこ」については、天日の後任が、市場に卸すまで責任をもって研究を続けてくれることになった。
引き継ぎを終えた天日は、無理を言って、丸一日だけ自由な時間をもらっていた。
しばらく見納めになる特区を、歩いておきたかった。知人に、せめて挨拶くらいはしておこうと思ったのだ。
帰省には、復帰したばかりのアナスタシアが同行していた。
名目は、護衛。だがその実は、監視だろう。天日は気にも留めていなかったが、ボルトは、ばつの悪そうな顔でそれを説明していた。
ヴィタルマナ特区には、オリジン区画ではもう見ることの叶わない、レトロな町並みや歴史的建造物がいくつか残されている。その風情を求めて足を運ぶオリジンも、実のところ少なくない。
なかでも天日のお気に入りは、屋台街だった。
古典のテキストでしか見かけぬ文字を模したネオンサインが、闇夜に滲む。
何百年、あるいは何千年と語り継がれてきたアジアン料理の匂いが、あたり一帯を席巻している。タイムスリップという概念がまだ息づいていた時代であれば、まさにそう呼ぶにふさわしい――そんな錯覚を与えてくれる場所だった。
天日は、ちらりとアナスタシアの横顔を窺った。
普段は鉄仮面のごとく感情の一片も零さない彼女が、屋台から屋台へと、忙しなく視線を泳がせている。「目移り」という言葉がこれほど似合う瞬間を、天日は他に知らなかった。
「アナスタシアさん、あれなんてどうですか?」
ひしめき合う屋台のひとつを、指差した。
「蛙肉を使った料理です。ケミカルフードで、わざわざ蛙肉なんて再現しませんし――鶏肉みたいで、美味しいですよ」
天日は、両手で蛙の大きさや動きを表現してみせる。
からかってやろうという邪な気持ちは、なかった。だが、彼女の人間的な一面に触れてみたい――そんなわずかな好奇心がよぎったことは、認めざるをえない。
「カエル――聞いたことは、ありますが」
アナスタシアが眉を寄せた。オリジン区画では、お目にかかることもない生き物だろう。
能動的な教育システムへ移行して以来、必要のない情報を学ぶ機会は限られている。天日は胸ポケットからグラスデバイスを取り出し、アナスタシアへ渡した。
彼女はそれを掛けるなり、案の定、目を見開く。レンズには、蛙の図鑑データが映し出されていたはずだ。
「こ、これを、食べるのですか」
「大丈夫です。皮を剥いで調理してしまえば、見た目は他の肉とそう変わりませんよ。僕、ちょっと買ってきます。あそこのベンチで待っていてください」
「は、はあ」
なし崩しに了承を取りつけ、天日は人混みを掻き分けて屋台へ向かう。当のアナスタシアは、デバイスから目を離せずにいるようだった。
夕食どきとあって、通りはごった返していた。
蛙の唐揚げでもあればと近寄ってみたが、予想に反して、並んでいるのは串刺しの丸焼きばかり。蛙初心者が口にするには、いささかハードルが高い。
天日は諦め、他を当たることにした。
この街ならではのものが見つかればいいが――と、何気なく路地裏を覗き込む。
暗がりに、人だかりが見えた。
「――下がりなさい!」
女性の声だった。目を凝らすと、一人を数人が囲むように群がっている。腕を掴まれ、それを振りほどこうとする女性の仕草が見えた。
どうやら、様子を窺っている場合ではなさそうだ。
そう思ったのが先か、体が動いたのが先か。確かめる間もなく、天日は駆け出していた。
「やめろ」
女性と男たちのあいだへ割って入る――つもりだった。
だが、突如として視界が回転した。天地がひっくり返り、激しい衝撃が背中を貫く。
手前の男に組み止められたのだと、すぐに察した。体重をかけられ、地面に抑えつけられている。
人並み程度に体は鍛えてきたつもりだが、格闘技の類には、ただの一度も触れてこなかった。我ながら情けない、と天日は思う。
見上げた視線の先に、ネオンの陰に表情を奪われた、女性の顔があった。
「その方をお離しなさい。用があるのは、私でしょう」
女性の声は凛として、気品に満ちていた。どこか、聞き覚えのある声だった。
「お嬢様がおとなしくご同行くだされば、すぐにでもそういたしましょう。我々とて、事を荒立てたくはない」
彼女を取り囲む男の一人が応じる。その落ち着き払った態度を見るに、単なる路地裏の悪漢と切り捨てるのは危うい――直感が、そう告げていた。
「私が、あなたがたに協力することはありません。何度もお伝えしたはずです。どうして――何故、あのようなことを。大勢の明日を奪ってまで……」
堪えた涙が、声に滲んでいる。
天日は藻掻いて立ち上がろうとするが、圧倒的な力の差が、それを許さない。
「お嬢様のやり方では、変わるものも変わりませぬ」
「いいえ――必ず、その時は来ます。歴史が証明してきた事実を、疑ってはなりません。その時を、待つのです。私たちには、その時間がある」
「相変わらず、悠長なことを仰る。ならば、この今を捨てろと、そう仰るのですか」
「何を、急ぐことがあるのですか。たとえそれで成し得たとしても、流した血の量だけ、怨嗟は長く、そして深く刻まれる。そうして、出口のない螺旋に、再び呑み込まれるのです。それを雪ぐのは、未来に生きる者たち。――何故、それが解らないのですか」
潤んだ声が、怒気を纏った。空気が震え、深い沈黙が場を横切る。
「――そう理想論ばかり並べられましても、困りますな。我々とて、お嬢様の影響を受けているのですよ……」
別の男の声が、その沈黙を破った。
「理想論? そう仰るならば、なおのこと。あの者の征く道が、いかにそれとかけ離れているか――解っているはずです。さあ、お離しなさい!」
女性の声色が、さらに一段、凄みを増した。
風に揺れる雑草さえ、彼女に呼応しているように思えた。
その言葉に動揺したのか、天日を押さえつける男の腕が、わずかに緩んだ。その隙を縫って、腕を振り解く。男が仰け反った刹那に立ち上がり、女性の前へ躍り出た。
「……これ以上話すのは危険だ」
男が足を擦り、場に緊張が走る。
男たちが、順々に構えをとった。
「すみませんが、少々手荒くいかせてもらいますよ!」
先ほどまで天日を押さえつけていた男が、飛び込んでくる。
天日はとっさに腕を上げ、自らを盾とするように、女性の前へ立ち塞がった。そのとき――男たちの後方から、風を裂く音がした。
空中で体が弧を描き、回転の遠心力をそのまま踵に乗せて、男の顎を刈り取った。鎌のごとき軌道が、夜空に懸かる三日月と重なる。
ガードする間すら、与えない。鈍い音とともに、男の体が地面へ崩れ落ちた。影は、すらりと天日の前に降り立つ。
「誰だ、貴様!」
「国防庁アジアリージョン司令部所属。アナスタシア=タナトス少尉」
例によって過不足のない名乗りを終えるより早く、アナスタシアは構えをとっていた。
肩幅に足を開き、重心を深く沈める。両手を顔の前へ掲げ、右の拳を軽く握る。素人目にもわかった――長い鍛錬の果てに体へ刻まれた、美しい型だ。
サイバネティック・フレームが起動し、全身の神経に燐光が走る。光が衣服を透かし、闇へと漏れ出した。
先日の作戦で瀕死の傷を負った彼女もまた、ボルトと同様――否、全身に移植手術を受けていた。話には聞いていたが、天日が実際に目にするのは初めてだった。
闇に浮かぶその姿は、どこか神々しさすら帯びている。
男たちの陣形が、動いた。アナスタシアを囲むように、散開する。
沈黙を切り裂いたのは、ナイフを手にした男だった。
駆け寄るなり、アナスタシアの胸部めがけて、真っ直ぐに突き出す。素人の動きではない――だがアナスタシアは、わかっていたと言わんばかりに、体幹をわずかに捻った。
男のナイフが、空を裂く。
その手首へ、手刀が落ちた。
衝撃で指が開き、ナイフが宙に舞う。ほぼ同時に、膝が男の鳩尾へ突き刺さった。
声にならぬ呻きを漏らし、男は路面に這いつくばる。
「やる――だが」
リーダー格らしき男が、短い合図を送った。
残る者たちが、一斉に飛びかかる。
アナスタシアも動いた。むしろ自ら距離を詰め、最も近い敵の懐へ滑り込む。反応するより速く、アナスタシアの手刀が、一人目の首の側面を打ち抜いた。
頸動脈への一撃。
男が膝から崩れる。
その体がまだ地面に届かぬうちに、アナスタシアの視線は、もう次の標的へ移っていた。
二人目が、拳を振りかぶって突進してくる。
アナスタシアは紙一重で顎を引き、拳が頬を掠めた。
すかさずその腕を掴み、体を翻す。相手の勢いを利した足払い――一回り大きな体が宙へふわりと浮き、背中からアスファルトへ叩きつけられた。
だが、息をつく暇はない。
左右から、二人が同時に迫る。
挟撃。右から来る拳は顔面を、左から来る蹴りは脇腹を狙っている。
二人の呼吸は、ぴたりと揃っていた。
インパクトの瞬間――アナスタシアが、消えた。敵には、そう見えたはずだ。
真上へ、跳んでいた。
二人の攻撃が、空白の一点で交差する。アナスタシアは空中で体を捻り、両足を左右へ振り分けて、二つの顔面を同時に蹴り抜いた。――激しい衝撃音が、路地裏の壁に反響する。
着地。再び、構えをとる。
呼吸のひとつすら、乱れていない。一連の攻防は、瞬きほどの間の出来事だった。
結局、残ったのはリーダー格の男だけだった。
「『サイバネティック・フレーム』か。――実戦では、なかなかどうして。強化スーツでもなければ、どうにもならんな」
言葉とは裏腹に、男の手はすでに腰へ伸びていた。
ナイフが閃き、アナスタシアめがけて投擲される。と同時に、男も走り出した。陽動と本命を重ねた、一手。
そのナイフも、首の傾きだけで躱す。だが、男もそれは織り込み済みだった。
意識が逸れた、一瞬の隙。死角から、渾身のストレートを放つ――。
しかしそれさえも、アナスタシアには届かない。パリング。そこからワン、ツーの素早いカウンターが、男の顔面を打ち抜いた。首が鞭のようにしなり、体勢が崩れる。
アナスタシアは体を旋回させ、追い撃ちの蹴りを放った――が、路地裏に響いたのは、風切り音だけ。
男も、粘った。
紙一重で、それを躱す。しかしその顔に余裕は微塵もなく、鼻からは、一筋の赤い線が零れていた。
「――仕方ない」男が、袖で血を拭う。「俺が時間を稼ぐ。撤退しろ――急げ!」
地に伏していた仲間たちが、よろめきながらも立ち上がり、散り散りに駆け出す。男たちの情けない足音が、遠ざかっていった。
リーダー格の男が、再びアナスタシアへと仕掛ける。
不格好なタックル。ダメージを与える意図ではない――時間を稼ぐための、抱きつきだった。
アナスタシアの腕に絡みつき、動きを封じようとする。
彼女はその腕を振りほどき、腹部へ鋭い膝蹴りを叩き込んだ。
男の体が、くの字に折れる。
垂れた頭部、そのこめかみへ、追撃のハイキックが刺さった。
空気が、裂けた。
男の体が横殴りに吹き飛び、壁へ背を打ちつけてから、崩れ落ちる。
「……っ」
男のこめかみから、黒い血が伝い落ちている。それを手で強引に押さえ、男はゆっくりと立ち上がった。
ふらつきながらも周囲へ視線を巡らせ、仲間が引いたことを確認すると――最後のナイフを投げつけ、踵を返して走り出す。
そのナイフがアナスタシアに傷を刻むことは、なかった。だが、その隙を縫って、男は逃走した。
遠ざかる影。追えば、追いつけるだろう。それでも、アナスタシアは追わなかった。
アナスタシアの全身を巡る燐光が、静かに収束していった。
「お怪我はないですか」
声は、いつもの温度に戻っていた。
「大丈夫です。すみません――助かりました」
アナスタシアは天日を一瞥すると、視線を女性へ移した。
「助けていただいて、ありがとうございました」
銀色の髪に、ネオンの色が移ろう。天日はその横顔を見て、あの夜の記憶を手繰り寄せた。
「確か――アウローラ=イェスニーさん。でしたよね」
女性が、不意を突かれたように目を見開く。灰色の瞳が天日を捉え、戸惑いの色へと変わった。
「ええ、こうしてお顔を拝見するのは初めてですが、覚えております。重ねてお礼申し上げます」
彼女が深く頭を下げると、銀髪が肩から零れた。
天日は少し間を取るために服に付いた砂埃を払った。そして声を落として言った。
「――少し、お話を聞かせてくれませんか」
アウローラが、顔を上げた。その瞳からは戸惑いが消え、代わりに、何かが宿っている。問われることを――語るべきことを、知っている眼差しだった。
短い沈黙。
ネオンサインが明滅し、路面の水溜まりに、色彩が揺れた。
「――解りました」
アウローラはそう言って、静かに頷いた。




