第十六話「カーテンコール」
「――殺せ」
ディマンドが求めたカーテンコールは訪れなかった。傾いた天秤、運命のその先にあるものは……
世界が終わろうというのに、ずいぶんと静かだった。
ディスプレイは、赤一色に染まっていた。プログレスバーは役目を終え、行き場を失っている。結末を催促するように明滅を繰り返していたが、やがて、それも止んだ。
ディマンドは両手を広げたまま、カーテンコールの余韻に浸っていた。
アルフレッドは、椅子の上で石になっていた。
静寂は、数秒だったかもしれないし、もう少し長かったかもしれない。ただしその静寂は、ディマンドだけのものだった。正確には、ディマンドとアルフレッド、二人だけの。
ボルトたちのイヤーデバイスには、マリィの声が途切れることなく流れていた。
『ターゲット・プロトコル、アクティブを確認。ダミー・レセプター、ダイバート――サクセス』
報告は淡々と、しかし正確に続いた。
数値の羅列に、温度はない。だがその無機質さが、かえって背骨を支えた。
『欺瞞シーケンス、オールグリーン。正常に推移』
ボルトの眉が、かすかに動いた。身構えていた拳を、ゆっくりと開くときの、あの微細な変化。安堵とは違う。だが確かに、何かが弛んだ。
シモンは目を伏せた。祈るように、ではない。溢れそうな何かを、押し戻すように。
アナスタシアだけが、動かなかった。射線を維持したまま、待っている。彼女にとっては、静止さえ行動の一部だ。
ディマンドの視線が、ボルトの顔を捉えた。次に、天日。
シモン。アナスタシア。死にゆく者たちの顔にあるべき恐怖が、どこにも、なかった。
蒼白でもなく、苦悶でもなく、ましてや心筋梗塞の前駆症状など、微塵もない。全員が、生ある人間の顔をしていた。
幕は下りたのに、拍手が鳴らない。
ディマンドの広げた両手が、ゆっくりと下りていく。
『フィードバック値、ディビエーション・ミニマム……ゼロに収束』
マリィの声が、静かに変わった。データログを読み上げる速度が、落ちている。
感情を殺しきれなかったのか、あるいは意図して、一語ずつ噛み締めていたのか。
『シミュレーション・シンクロ率、九九・八二……九九・九六――一〇〇パーセント』
計算通り。何も、起きなかった。
ディマンドの仕込んだナノマシンは、滞りなく発動し、オリジンの心臓に手を掛けた。その数、およそ三億人。
唯一にして最大の問題は、この地球上にオリジンが一人として存在しなかった、という、ただその一点だけだった。
ディスプレイの表示が、いつの間にかリザルト画面に切り替わっていた。
――死者数、〇/三〇二、六四七、七一〇。
「切り札は――先に切った方が、負ける」
それは、ディマンドが数分前に吐いた台詞の、そのままの引用だった。因果を、等価で清算する。軍人の矜持というのは、そういう形をしている。
マスクの奥の暗闇が、天日を見つめていた。
「……何を、した」
問いの形をしていたが、答えを求めてはいなかった。声にしたのは、結論を受け入れるための儀式に過ぎない。天日には、それが解った。
嘆息が零れる。
「――君か」
たった一言だった。問い返しもせず、駆け引きもせず、ディマンドは敗因の核心に辿り着いていた。
わずか数秒で、だ。
天日は何も答えなかった。だが背筋には、冷たいものが走っていた。
敗北を認めた者は安全だ。だが、敗北から学ぶ者は危険だ。この知性が次の一手を打てば、判別プロトコルの変更ひとつで、カウンターナノマシンは無力化される。そうなれば、全人類が標的になる。
天日は、その恐怖を顔には出さなかった。
ボルトの照準は、ディマンドをロックしたまま、固定されている。
「終わりだ。投降しろ」
ディマンドは、すぐには答えなかった。視線が、ゆっくりとアルフレッドへ向く。それから、天日、シモン、アナスタシア。最後に、ボルトへと戻った。
部屋を周回するその眼差しは、別れを告げるようでもあり、記憶に刻むようでもあった。
「……見事だ」
ディマンドの声は、不思議なほど穏やかだった。敗者の言葉ではなく、対局を終えた棋士の、感想のようだった。
「バレンチノ=ボルト大佐」
「何だ」
「――殺せ」
短い言葉だった。交渉も、駆け引きもない。命令でも、懇願でもない。ただの、選択だった。
ディマンドが選んだ、最後の選択。
ボルトの指がトリガーにかかっている。
その銃口は、ディマンドの眉間に据えられている。
――沈黙が横切る。
そこへ、銃声が響いた。
ディマンドの体が、糸の切れた操り人形のように崩れた。
膝から力が抜け、長衣の裾が床に広がる。
白い長髪が顔にかかり、ベネチアンマスクが――割れていた。弾丸は仮面の右目の縁を通過し、眉間を、射抜いている。
ボルトでは、なかった。
シモンでも。アナスタシアでも。
硝煙は、天日のハンドガンの銃口から、立ち昇っていた。
構えは、崩れていない。脇は締まり、両手は銃を包み、肘はわずかに曲がっている。シモンに叩き込まれた、正しい形だった。
シモンが、天日を見た。だがその瞳に浮かんだのは、非難ではなかった。
セイヴの顔が、過ったのだろう。唇を引き結び、視線を落とした。受け入れたのだ。それが正解かどうかではなく、そうなるべきだったのだと。
アナスタシアは、やはり動かなかった。銃口を下ろしもせず、上げもせず。ただ、佇んでいた。
ボルトは――逡巡していた。
自分たちは、警察ではない。軍人だ。していることは捜査ではなく戦争であり、殺すことも、許容される。だが、許容と必要は違う。拘束は、できた。
それを承知の上で引き金を引くのは、正義でも任務でもない。個人の、判断だ。
しかしボルトは、その違和感を、黙って胸の引き出しにしまった。しまったが、鍵はかけない。また開けるときが来る。そんな予感があった。
割れたマスクの隙間から、ディマンドの素顔が覗いていた。
天日は、目を逸らせなかった。
痣、というには、重々しかった。火傷のそれとも、違う。内側から滲み出ているような、形容しがたい痕。皮膚は熟柿のように爛れ、じくじくと湿っていた。まるで、細胞が宿主を拒んだ傷痕。
久視細胞を異物として受けた体が、長い歳月をかけて悲鳴を上げ続けた、その果てがそこにあった。
ディマンドの唇が、かすかに動いた。
何か、言葉を発していたのかもしれない。だがもう、その声はボルトたちの耳には届かなかった。
天日だけが、その口の動きを、見つめていた――。
やがてディマンドの目から光が消え、長衣の黒が、床の影と同化していった。
天日は、銃口を下ろした。
ボルトが、天日を見ていた。何か言いたげなのは明白だったが、声にはしなかった。しなかったということが、この男の下した判断なのだと、天日は即座に理解した。
代わりにボルトは、短く息を吐き、イヤーデバイスに触れた。
『ウルフ・ワンより全局。――作戦終了』
イヤーデバイスの向こうで、マリィも小さく息を漏らした。
安堵とも嘆息ともつかない、短い呼気だった。
ボルトが、振り返る。
「アナスタシア、議長の拘束を解け。シモン、退路の安全を確認。天日――」
ボルトは翻り、天日に背を見せた。
「……よくやった」
天日は、小さく頷いた。
ディスプレイの赤い光は、まだ部屋を染めていた。だがその赤は、もう誰の命も奪わない。ただの色であり、ただの光だった。
アナスタシアが拘束を緩めると、アルフレッドは捲し立てるように声を荒らげた。だがもはや、誰も気に留めなかった。
天日は、部屋の出口へ目を向けた。来た道を、戻ることになる。だが、蛙は前にしか跳べない。帰り道もまた、前方だ。
地上はまだ霧の中だろうか。
――なぜディマンドを撃ったのか。その答えを、天日が明かすことは、この先もないだろう。




