第十五話「時計の裏蓋」
「アルフレッド=キングレイ――現世界評議会議長は、私の実の父です」
ディマンドの確信の裏側ある隠れた物語。マリィがほほ笑んだ理由とは。物語は2ヶ月程遡ることになる――。
ディスプレイが赤く染まり、ディマンドが両手を広げた、あの瞬間。――マリィの口元が歪んだ理由を語るには、少しばかり時計の針を巻き戻さねばならない。
否、針を進めていた精緻な機構そのものに、触れるべきだろう。
ディマンドの声明が議会を震撼させてから、およそ二週間。ボルトが最終作戦会議で突入班の編成を告げる、ずっと前の話だ。
天日とアウローラは、行動を共にしていた。
シン・シティの情報網がウムコント社の周辺を洗い、セイヴの諜報ルートが流通経路の裏を掘る。二つの水脈が合流すれば、やがてディマンドの居場所に辿り着く――はずだった。だが現実は、そう都合よくはできていない。
点と点は見つかる。だが線にならない。そんな日々が続いていた。
転機は、アウローラの側からやってきた。
*
アウローラが指定した合流場所は、ヴィタルマナ特区の外れに建つ、古いマンションの一室だった。
シン・シティが管理する、安全な拠点の一つだという。
室内は必要最低限の家具だけで成り立ち、壁紙は色を失い、窓の外には雑居ビルの裏手が覗いていた。贅沢とは無縁の場所だが、それがかえって心を落ち着かせた。
アウローラは窓辺に立っていた。銀髪が午後の薄い光を吸い、いつもより白く透けている。
振り返った彼女の顔を見て、天日は一瞬、足を止めた。
凛々しさは健在だ。だがその奥に、見慣れぬ揺らぎがある。風のない水面に落ちた一滴の、ごく小さな波紋。以前の彼女には、なかったものだった。
「お待たせしました」
「いいえ。――座ってくださる?」
小さなテーブルを挟み、二人は向かい合った。
アウローラは手元に、一冊の古い手帳を置いた。革装の背表紙はすり減り、角は丸く削れている。デジタルではなく紙の手帳。ただそれだけで、持ち主の年代と気質が、なんとなく伝わってきた。
「天日。本題に入る前に、先にお伝えしなければならないことがあります」
声は静かだった。だが指先は、テーブルの縁を白くなるほど握りしめている。
覚悟を固めるのに、声と手とでは、速度が違うらしい。
「アルフレッド=キングレイ――現世界評議会議長は、私の実の父です」
天日は、瞬きを一つ。それきり、表情は動かなかった。
アウローラの眉が、かすかに跳ねる。
「……驚かないのですね」
「驚いてますよ。ただ、顔に出るのが遅いだけで」
嘘ではない。驚きは、ちゃんとある。だがそれ以上に、腑に落ちる部分のほうが多かった。
アウローラの育ちの良さ、政治的嗅覚、ディマンドとの因縁。散らばっていたパズルが、音もなく組み上がっていく。その感覚のほうが勝っていた。
「父は私をオリジンとして届け出て、育てました。ヴィタルマナであることを世間から――そして議会から、隠し通すために」
「つまり君は、境界の内側ではなく、外側で育った」
「ええ。特区に送られることなく、オリジンとして教育を受け、オリジンとして社会に出ました。――イェスニーは母方の古い系譜から借りた名で、正式な姓ではありません」
声は安定していた。これはすでに、消化された事実なのだろう。揺らぎは、その先にある。
「ボルト大佐に、このことを伝えなかったのは?」
「私心で惑わせたくなかったから。と、今は言い訳しておきます」
筋は通っている。だが、それだけではないことも、天日には解っていた。
「でも――今は話した」
アウローラが、一瞬、唇を噛んだ。
「父の過去が、ディマンドの正体に繋がるかもしれない。その確信を得たからです」
そう言って、テーブルの上の手帳に、手を置いた。
「父の手記です。父の私室にありました。シン・シティのメンバーに依頼して、議長公邸の記録を洗う過程で、見つかったものです」
天日は手帳を受け取った。
ページをめくる。筆圧の強い、几帳面な筆跡。日付は断続的で、すべてが記されているわけではない。日記というより、忘れてはならない事実を刻みつけるための、備忘録に近かった。
ある日付のページで、天日の指が止まった。
二一三八年、某日。
「中東リージョンのテロ」
「ええ」
アウローラの声が、一段低くなった。
「あのテロに――父が加担していました。いいえ、加担などという生易しい罪状で語ることさえ、悍ましい」
手帳に記されていたのは、当時まだ一議員に過ぎなかったアルフレッドが、ヴィタルマナの武力蜂起をいかに誘導し、利用したか、その経緯だった。
マッチポンプ。自ら火をつけ、自ら消火役を買って出ることで、ヴィタルマナ人権法の推進者という功績を手にする。その功績こそが、議長の椅子へと続く階段だった。
天日は、手帳を閉じた。
「シモンの両親は、あのテロで亡くなりました」
「……存じております」
アウローラの目が、伏せられた。怒りでも、悲しみでもない。それらすべてがないまぜになり、行き場を失った感情が、睫毛の影に滲んでいた。
「娘の魂を偽った父でしたが、私はそれでも、父をどこかで尊敬していました。理想は違えど、父はヴィタルマナの権利のために戦い、世を平穏へ導いたのだと」
声の震えを、アウローラは認めなかった。律するように奥歯を噛み締め、続ける。
「しかし――父の手は朱に染まり、その偽りの平穏は、罪なき屍の上に立っていた」
天日は、何も言わなかった。慰めの言葉を持たないのではない。この場に、それを置く余地がなかったのだ。彼女自身が、慰められることを拒んでいる。
窓の外で、風が出たのか、電線がかすかに唸っていた。
「……それで」
天日は、しばらく沈黙を見守ってから、次の言葉を促した。声を出すタイミングを測るのは、得意だ。沈黙にも、賞味期限がある。
「手記の中に、一人の名前が、繰り返し出てきます」
アウローラは、感情を押し戻すように、背筋を正した。
「アンコールマン。医師です」
*
アンコールマンの居場所を突き止めたのは、シン・シティの末端ネットワークだった。
その男はオリジンでありながら顔と身分を替え、ヴィタルマナ特区の片隅でひっそりと暮らしているという。
アウローラがその背景をどこまで事前に把握していたのか、今となっては定かでない。だが少なくとも、「ただの医師ではない」という確信だけは、抱いていたのだろう。
「共に来てくださいますか」
「もちろん――」
二人が訪ねた先は、特区の端にある、診療所兼住居だった。看板は出ていない。ドアの塗装は剥げかけ、表札には読み取れない名が、かろうじて残っている。
その佇まいそのものが、住人の身の上を物語っていた。
応対に出た男は小柄で、髪はほとんど白く、頬は削げ落ちていた。
六十代半ばか、それ以上にも見えた。身分を偽っているとはいえ、オリジンとしての年の重ね方は、正直なものだ。
挨拶を済ませ、アウローラが名乗った瞬間、アンコールマンの顔色が変わった。
その短いやり取りのうちに、彼はアウローラの素性と、来訪の目的を察したのだ。それは、天日の目にも明らかだった。
アンコールマンの膝が、目に見えて震えた。崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて堪える。
「……入ってください」
通された部屋は狭かった。薬品棚と古い書籍が壁を埋め、診察台の上には洗いざらしの布が、きちんと畳まれている。
椅子は二脚しかなかった。アンコールマンはそれを二人に譲り、自分は診察台の端に、腰を下ろした。
手帳を見せると、アンコールマンは長いあいだそれを見つめ――やがて、堰を切ったように語り始めた。
それは懺悔のようだった。
ほかに、形容のしようがなかった。
「私は――あのテロの準備段階で、医師という立場を利用しました。ヴィタルマナの中から……言い方を変えれば、人柱を選別するためのリストを、作成したのです」
天日は、黙って聞いていた。アウローラも、微動だにしない。
「リストの中に、特異な個体がいました。その力が、テロの実行に利用された。恐怖で縛り、力を、強制的に行使させたのです」
アンコールマンの手が、膝の上で白くなるほど握りしめられていた。
「そのヴィタルマナには――双子の兄がいました。兄のほうは、オリジンでした。同じ母から生まれ、片方だけが、久視細胞を持って生まれてきた」
天日の中で、回路が一つ、繋がった。だがすぐには口にせず、続きを待った。
「弟はテロの最中に、命を落としました。しかし兄のほうは、生きていた。――そして数年後、私のもとを訪ねてきたのです」
アンコールマンの視線が、床に落ちた。
「彼は、弟の遺伝子サンプルと、自ら研究した成果を携えていました。特殊な条件下で違法な処置を施せば、久視細胞の移植が可能になる。ただし副作用は未知――そういう内容でした」
「移植を、依頼された」
天日が、初めて口を開いた。
「はい。最初は、冗談だと疑いました。私とて医師の端くれ。久視細胞の移植が不可能であることは、噂ではなく理論として知っています。しかし、その研究データには――私の知る理論を覆すに足る方法が、確かに書かれていた」
アンコールマンは、当時の情景をたぐり寄せるように、小さく頷きを繰り返しながら続けた。
「脅されたわけではありません。彼は、静かでした。怒りも憎しみも、少なくとも表には出さなかった。ただ――私がかつて何をしたか、すべて知っていた。贖罪の機会を与えてやる。そう言われたに、等しかった。私は断れなかった。断る資格が、なかったのです」
言葉の一つひとつに、何十年も飲み込んできた戒めと苦しみが、どこまでも染み込んでいた。
「手術は、成功しました。オリジンの体に久視細胞が定着し、懸念していた副作用も、少なくとも術後すぐの段階では、認められませんでした。それ以降、彼とは一切の接触がありません。名前も、行方も。ただ……あの目だけは忘れられない。弟を失った失意の目です。憎悪という言葉では足りない、もっと深い何かが宿っていた」
語り終え、アンコールマンは力尽きたように項垂れた。
アウローラは、青天の霹靂という言葉がそのまま当てはまるような顔をしていた。
だが天日は、別のことを考えていた。
双子の兄。オリジン。弟の遺伝子と、自らの研究。久視細胞の移植。
天日の頭の中で、散らばっていたピースが、音を立てて嵌まっていく。
ディマンドの異常な医学・工学知識。久視細胞の判別機能を組み込んだナノマシンの設計思想。感化の力への、執着。そしてあの仮面の下に、隠された素顔。
ディマンド=ツェツェ。
確証と呼べるものは、何もない。だが天日の中で、そのパズルはすでに完成していた。答えが先に見え、あとから理由が追いついてくる。直感というより、確信だった。
同時に、天日の脳は、別の計算を始めていた。
久視細胞の移植。それが可能なのであれば――逆もまた、可能ではないか。
天日の思考が、反転する。移植ではない。偽装だ。
ディマンドのナノマシンは、久視細胞の有無でオリジンとヴィタルマナを識別する。ならば――オリジンの体内に、久視細胞を中和状態のまま、漂わせておけばいい。
定着させる必要はない。そもそも条件が揃っていなければ、できはしない。だから、結合もいらない。ナノマシンの判別機能が「こいつはヴィタルマナだ」と誤認しさえすれば、それで事足りる。
カウンターナノマシン。その結論が、先に降ってきた。
概念があとから輪郭を得て、理論が骨格となり、設計図が走り始める。天日の脳は、久しぶりに全速力で回転していた。
移植ではなければ、定着の必要もない。拒否反応を中和し、既存の遺伝子構造とは結合させず、ただ体内に久視細胞を隔離して、漂わせるだけ。判別機能を騙すための、スケープゴート。
理論は成り立つ。だが実現するには――久視細胞の挙動制御、免疫系との干渉回避、ナノスケールでの封入技術。いくつもの壁がある。
天日は、ものの数秒で、それらの壁を越える道筋を組み上げた。
「天日?」
アウローラの声で、天日は意識を表面へと引き戻した。アウローラは放心したままだったが、天日の表情が変わったことには、気づいたらしい。
「……何か、思いついたのですか?」
「アンコールマン博士。一つ、聞いてもいいですか」
天日は、アンコールマンに向き直った。
「移植手術の際の、理論的な基盤――つまり、拒否反応の中和プロセスに関する記録は、残っていますか」
アンコールマンが、顔を上げた。虚ろだった目に、わずかな生気が戻る。
医師としての矜持は、後悔に塗り潰されてなお、消えてはいなかったのだ。
「……あります。すべてではないが、プロトコルの骨子は」
「見せていただけますか」
アウローラは、天日とアンコールマンを交互に見た。
話の流れが読めていないのは明らかだったが、問い質す前に天日の意図を汲み取ろうと、必死だった。
アンコールマンが奥の棚から古いストレージデバイスを取り出した。埃を払い、天日に差し出す。
「これが、あの手術に関する、すべてです」
天日は、それを受け取った。
掌の中の小さなデバイスが、ひどく重く感じられた。
「アウローラ」
「――はい」
「お願いがある」
天日は、立ち上がった。
「シン・シティのネットワークで、生化学の研究設備と、機密を守れる人員を、用意してもらえませんか」
アウローラは、数秒、黙った。それから――まだ全容を掴めていなかったはずだが――静かに頷いた。
「準備します。何が必要か、リストをくださる?」
「今から作ります」
*
それからの日々を、一言で表すなら、没頭だった。もう少し丁寧に言うなら、天日にとって久方ぶりの、贅沢と呼べる時間だ。
アウローラが手配した設備は、最新鋭には程遠い。だが必要な機能だけは、揃っていた。
集まった研究員は、数名。いずれも、かつて医療や生化学の最前線にいたヴィタルマナだ。特区の中にも、知性は眠っている。優秀な人材は、どこにでもいる。
天日は、アンコールマンの記録を土台に、久視細胞の挙動モデルを組み上げた。
移植とは、根本から異なる。定着させない。体内に入れ、しかし結合はさせない。免疫系をかわし、判別機能だけを騙す。
前人未到の知恵の輪だ。解けるかどうかは、わからない。
だが、退屈はしない。退屈しない時間というのは、それだけで贅沢だ。
同時に、天日はもう一つの課題に取り組んでいた。カウンターナノマシンの、流通手段だ。
世界中のオリジンの体内に、久視細胞を届ける。そのために最も効率的な経路は――ケミカルフードだった。
ディマンドがナノマシンを拡散したのと、まったく同じ感染経路。
皮肉だった。だが、皮肉であることと合理的であることは、しばしば同居する。
天日はその構想をマリィに話し、そこにボルトとセイヴが加わった。
現実的な計画に仕上がるまで、さほどの時間は要さなかった。
しかし、実行へ移すには、いくつかの障害があった。ウムコント社がそうであったように、膨大なリソースを要する。ブラフマナスパティ社の製造ラインと流通網、そして、資金。
その策動を、マリィが一手に引き受けた。具体的に何をしたのか、天日が知ったのは事件が片付いたあとだったが――聞いた限りでは、ブラフマナスパティ社の取締役会に乗り込み、三時間の会議を四十分で終わらせ、全員を青い顔にして退出させたらしい。
ボルトが軍の権限をちらつかせ、マリィが技術的に逃げ道を塞ぐ。鉄槌と理詰めの、二段構えだった。
ペイル・ドゥの異名は、伊達ではなかった。
蛙肉のケミカルフード。
ブラフマナスパティ社が無料配布キャンペーンと銘打って展開したそれは、市民にはありがたい施しとして、受け入れられた。
ケミカルフードの安全性への不安が広がりつつある中で、大手メーカーの無料提供は、安心感の演出として、申し分なかった。
――その中に、カウンターナノマシンが仕込まれていた。
*
開発には、おおよそ一か月半を要した。
天日にとっても、容易な仕事ではなかった。理論が正しいことと、実装が成功することのあいだには、深い溝がある。
シミュレーションが成功したのは、ボルトが最終作戦会議を召集する、前日の夜まで、かかった。
カウンターナノマシンの感染率は、ディマンドのそれを上回る一〇二・四八パーセント。微細なエラーを差し引いても、失敗するほうが難しい――そう結論づけてよい、満足のいくデータが取れた。
天日はモニターの前で、しばらく動かなかった。
知恵の輪は、解けた。少なくとも、机の上では。
マリィが「お疲れさま」と、いつもの口調で言った。だが天日は、表情を緩めることができなかった。なぜなら――天気予報は、外れるからだ。
そしてもう一つ――天日には、誰にも話していないことがあった。
もしカウンターナノマシンの存在がディマンドに露見すれば、対策は容易だ。久視細胞の判別プロトコルを、変更するだけでいい。
認証基準そのものを外されれば、カウンターナノマシンは無力化される。そしてその場合、ナノマシンが発動すれば、オリジンだけでなくヴィタルマナをも殺す。
地球上から、全人類が消滅する。
天日は、最初からそのリスクを理解していた。理解した上で、誰にも言わなかった。
言えば、全員が正しい判断をしようとする。正しい判断をしようとした結果、誰も動けなくなる。善意は、ときに最も質の悪い足枷になる。
だから、隠した。
本当に隠さねばならない切り札は、隠していること自体を悟られてはならない。
古い兵法書にそう書いてあった気もするし、安っぽいサブカルチャーで見た記憶かもしれない。どちらでもいい。優秀な知性に、出自は関係ない。
翌日、天日は作戦会議に合流した。ボルトがウムコント社への突入計画を説明し、マリィがアンチプログラムの最終確認を行い、シモンとアナスタシアが装備を点検した。
天日は自分の役割――アンチプログラムの物理実行役――を、淡々と引き受けた。
マリィは「無事に帰ってきなさい」と天日に命じ、アウローラは「迷いはない」と、決意を表明した。
翌朝、セイヴが「いい朝だ」と言って。霧の中で、蛙たちは行進を始めた。




