第十四話「運命の選択」
「狂ってる――」「そうであってほしいと私も願っている」
セイヴの死を振り切り、ディマンドを追い詰めたボルトたち。しかし、ディマンドはまるで来客を歓迎するように彼らを待っていた。
天日が最初に感じ取ったのは、匂いだった。
地下施設を貫いてきた機械油と埃の空気が、この扉の向こうでぷつりと断たれている。代わりに満ちているのは、清潔すぎる無機質な冷たさ。生活の気配を殺菌した、祭壇めいた空間。
その異質さが、そのまま威圧となって肌を刺した。
奥の壁一面に、ディスプレイが並んでいる。いくつかは世界地図を映し、いくつかはデータストリームを流し、いくつかは消灯したまま黒い鏡面として沈黙していた。
中央にコンソールデスクが据えられ、椅子が無造作に散っている。部屋には、二つの人影があった。
ボルトは肩のカービンを離し、腰のホルスターからハンドガンを抜いた。
「助けてくれ!」
アルフレッド=キングレイ世界評議会議長は、その一脚に座っていた。いや、座らされていた。
手首を背後で拘束され、スーツは皺だらけ、整えられていたはずの髭は無残に伸びている。だが、目だけは生きていた。こちらを認めた瞬間、その目が大きく見開かれる。
「バレンチノ=ボルト大佐だな……この男に拘禁されていた。直ちに拘束を解き、安全を確保しろ」
声はかすれていた。だが、その一語に込められた権威への執着は、憔悴の底からでも滲み出る。口調だけは、紛れもなく議長のものだった。
ボルトは答えない。視線も銃口も、ディマンドへ据えたまま。一瞥たりとも、逸らさなかった。
アルフレッドの顔に、焦りが差した。
「聞こえなかったのか。命令だと言っている」
「聞こえています」
ボルトは少し間を置いて答えた。声は、平坦だった。
「遅かったな」
ディマンドが、客人を迎えるような口ぶりでボルトへ語りかけた。自分を貫く銃口が、まるで目に映っていないかのように。
「いや、遅いということはないか。むしろ想定より早い。感心したよ――ああ、そう、ボルト大佐」
白い長髪が肩を越え、白いベネチアンマスクが目元を覆っている。
黒い長衣は軍服でも囚人服でもなく、どこか聖職者を思わせる仕立てだった。
腕を組み、こちらを見ていた。――いや、「見ていた」では正確でない。彼は、こちらが来ることを知っていた。待つ者だけが持つ余裕が、そこにあった。
ボルトが銃を構えたまま、室内へ踏み込む。シモン、アナスタシア、天日が続いた。武器をハンドガンへ換装し、四人は扇状に散開する。
「久しぶりだな」ボルトが言った。
「あの夜以来だ。――もっとも、名前を知ったのは今だが。ボルト大佐」
ディマンドは動かない。腕を組んだまま、マスクの奥の目がボルトを捉えている。
「お前を拘束する。ナノマシンの制御デバイスを引き渡せ」
「単刀直入だな。もう少し世間話をしてもいいだろう。ここまで来たのだから」
「世間話の相手は、異性に限っている」
「それは結構。だが、残念だ」
ディマンドの口元が、わずかに動いた。笑みだったのかもしれない。だがマスクが目元を覆っている以上、その真偽は永久に棚上げだった。
「おい、聞いているのか!」
アルフレッドが再び叫んだ。椅子ごと身を揺すり、拘束を外そうともがく。なぜ今なら外せると錯覚したのか、見当もつかない。顔は蒼白で、頬はこけていた。
数週間の拘禁が、この男から肉を削ぎ、代わりに恐怖を詰め込んでいた。
「私を解放すれば、議会として相応の――」
「議長」ボルトが短く遮った。「状況は把握している。少し黙っていてくれ」
アルフレッドの口が開き、また閉じた。
権威の頂点にあった人間が、萎んだ風船のように薄れていく。その様を、この場の誰も見てはいなかった。
「人質のつもりか」
銃口を揺らしながら、シモンが低く言った。乾いた瞳の奥で、セイヴを失った怒りが炭火のように燻っている。
「人質?」
ディマンドが、首をわずかに傾げた。
「人質か、話し相手か。いずれにしても――君たちと同じだよ」
アナスタシアは無表情のまま、射線を維持していた。左脇腹の被弾箇所を庇うように、重心がわずかに右へ寄っている。
天日は後方に位置を取りつつ、部屋の構造を観察した。
ディスプレイ群の配置、ケーブルの走り方、ディマンドとアルフレッドの距離。そして――ディマンドの手元。長衣の袖に隠れて見えないが、デバイスはどこかにある。音声認識ならば、身体のどこかに装着しているはずだ。
『ディアー・ツー、聞こえているわね。室内の通信環境を確認した。ディマンドの頸部付近から、微弱な信号を検出したわ』
マリィの声が、イヤーデバイスに届いた。天日の目が、ディマンドの首元を捉える。
長衣の襟からのぞくチョーカーに、かすかな金属の光沢があった。おそらく、ボルトたちにも見えているはずだ。
「さて、大佐」
ディマンドが、横へ歩いた。ボルトの銃口が、それを正確に追う。指は、すでにトリガーへ掛かっていた。
「動くな」
ディマンドが腕を解いた。ゆっくりと、示威的に。両手が長衣の裾をなぞって下りていく。武器を取る動作ではない。それでも、四つの銃口が同時に、わずかに張りつめた。
「ああ、失礼。立ちっぱなしで足が疲れてね。演出に凝ってみたんだが、どうも性に合わないらしい」
ボルトの制止など意に介さず、ディマンドはコンソールデスクへ近づくと、椅子に腰を下ろした。
ゆったりと脚を組む。その所作の一つひとつが、こちらの神経を逆撫でする余裕に満ちていた。追い詰められた者の態度では、断じてない。
天日の視界の端で、シモンの顔が歪んだ。銃口はぶれない。だが明らかに、ペースを乱されていた。
「君たちは、彼を見てどう思う?」
ディマンドが、アルフレッドのほうへ顔を巡らせる。
「何が言いたい」
ボルトの声に、かすかな棘が混じった。
「覚悟の話だ、大佐。覚悟を持って戦場に立つ者と、覚悟なく椅子に座り続ける者。この世界は、どちらが動かしている?」
その視線に気づき、アルフレッドは顔を背けた。
「貴様に正義を語る資格はない」
「そのつもりはない」
口の端が、嘲笑を忍ばせて歪んだ。
「正義などという便利な言葉を、私は一度も使ったことがない。私が語るのは秩序だ。大佐、君も軍人なら解るだろう。正義は人の数だけあるが、秩序はひとつしかない。そして今の秩序は――バランスを欠いている」
「傾いているなら、直せばいい。壊す必要はない」
「直す?」
ディマンドが椅子を揺らし、斜に構えた。
「三十年だ。その三十年で、それを為し得た者が、ただの一人でもいたかね? 境界の向こうへ押し込められた者たちに、誰が手を差し伸べた?」
天日は、ディマンドの言葉に耳を傾けている自分に、ふと気づいた。
「だからといって、貴様の方法では何も変わらない」
ボルトは、ペースを乱されまいと抗っていた。
「恐怖で得た権利は、恐怖でしか維持できん。そんなものは、秩序じゃない」
「恐怖もまた、秩序というシステムの一部だ。歴史がそれを証明している」
「歴史を語るなら――恐怖による秩序がどう終わるかも、知っているはずだ」
ディマンドが「ほう」と、感心するように相槌を打った。
「大佐は聡明だ」
ディマンドは再びアルフレッドに視線を向けたが、すぐボルトに直した。
「満足か」
ボルトの問いは、皮肉ではなかった。純粋な、確認だった。
「そうだな、大佐。君のおかげだ」ディマンドは認めた。「こうして対峙する時間は、想像していたよりずっと心地いい。私は長いあいだ、独りで考え、独りで動いてきた。反論をくれる相手がいる――それだけで、豊かなことだよ」
天日は思う。ディマンドの言葉は、思いのほか真摯だ。少なくとも、嘘は混じっていない。
それは、何かを成し遂げようとする者の性であり、同時に、孤独の証明でもあった。その孤独を、天日は知らないわけではない。
だが、共感はしなかった。共感と理解は、別の棚にある。
ディマンドはコンソールデスクに肘を置き、軽く握った拳に頬をついた。
「もうひとつ。これは大佐だけでなく、全員にぜひ聞いてみたいのだが――」
視線が部屋を巡る。シモン、アナスタシア、天日。そして、ボルト。
「君たちは――どうしてそこにいる?」
簡素な問いだった。だが、簡素な問いほど、答えに値がつく。
シモンの脳裏をセイヴがよぎったことは、その目を見れば分かった。アナスタシアは軍人として沈黙を選び、天日は今度こそ答えを持ちながら、それを口にしなかった。
結局、答えたのはボルトだった。
「お前を捕まえるためだ」
身も蓋もない返答だった。だが、その飾り気のなさに、ディマンドは再び口を歪めた。
「素晴らしい。実に、素晴らしい」
そう言って、ディマンドは場を支配するように、率先して口を閉じた。
沈黙が、部屋を横切る。
山頂を目指すより、濃霧の中を歩くほうが、人の不安は膨れ上がる。ディマンドは、その霧の出どころだった。
ボルトの表情に、焦りが滲み始めていた。
ディマンドを拘束し、デバイスへ物理的にアクセスする。――手順は明確だ。だが目の前の男は、銃口を向けられながら、まるで茶でも啜るような調子で会話を続けている。
距離は、およそ八メートル。踏み込めば五秒で届く。だが、その五秒のあいだに何が起こるか、誰にも読めなかった。
「話は終わりだ」
ボルトが声量を上げた。わずかに、霧が晴れる。
「そう急かすな――と言いたいところだが、まあいい。答え合わせに進もう」
ディマンドが頬杖を外し、声のトーンを一段、落とした。
部屋の空気が、凝固した。
「だがその前に――私は、どちらの結末でも良かった。それを、最初に断っておきたい」
ディマンドは、一拍間を置いた。
「君たちはおそらく、私がナノマシンの発動プログラムを実行しない、と思っているのだろう」
ボルトの唇が、薄く開いた。言葉は出なかった。
「交渉は順調。議会が要求を呑むのは時間の問題。今ここで発動するわけがない、と。――そう、高を括っているな?」
「その通りだ。だが、それがどうした」
「――改めるべきだ」
声は重かった。だが、穏やかさが勝っていた。
聖職者が諭すように。親が子に教えるように。
ディマンドが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「待て」ボルトが半歩前へ出る。「お前の要求が通れば――」
「要求?」
ディマンドが遮った。
その声に、初めてまともな感情が滲んだ。呆気。あるいは、倦怠。
「先程言ったことを、思い出すんだ、ボルト大佐」
ディマンドの右手が、長衣の襟元に触れた。
首のチョーカー型デバイスの表面を、指先が滑る。
「要求は、ひとつの過程にすぎない。絶対の目的ではない。――だが、それを君に説明する義理はないな」
次に続いた言葉は、日常に転がる平凡な一片と同じように、静かに落とされた。
「――識別プログラム。始動」
だが、それが起動の合図だと、その場の誰もが理解した。
デバイスが、応答した。かすかな電子音が部屋に響き、背後のディスプレイ群が一斉に様相を変える。地図の上に、無数の光点が浮かび上がった。各リージョンの都市の上で、赤い点が脈動を始める。
「やめろ!」
「動くな、大佐。このデバイスは、私の声紋と心拍に連動している。私を殺せば、全プログラムが自動的に最終段階へ移行する」
四つの銃口が、凍りついた。
「……脅しか」
「事実だ。確かめたければ、撃てばいい。結果が、証明してくれる」
ボルトの指は、引き金にかかったまま、動かなかった。ディマンドの言葉が真実か否かを検証する方法は、最悪の結果を引き起こす方法しか、存在しない。
天日の背にも、冷たい汗が伝った。
『デッドマン・スイッチ……おそらく、嘘じゃない。傷つけるだけでも危険だと思ったほうがいい。撃てば、トリガーが外れる』
マリィの声が、震えていた。今度ばかりは、動揺を抑えきれていない。
だが、その言葉の裏には、彼女が瞬時に導き出した理論と裏付けがあった。
「ふ、ふざけるな」
シモンが、歯を食いしばる。
ディマンドが首を振り、シモンへ顔を向けた。
「――君は、なるほど。シモン=ナガンか」
シモンは予期せぬ呼びかけに、言葉を詰まらせた。
「気づくのが遅れたな。中東テロの孤児リストに載っていた顔だ。記憶には自信がある。面影が、随分と残っているじゃないか」
その一言が、シモンを揺さぶった。
「そうか。では、君に問おう、シモン=ナガン。権利とは、誰が与えるものだ? 議会か。法か。――それとも」
シモンは答えなかった。答えたくなかった。代わりに、銃を握る手へさらに力を込める。
ディマンドは、そのシモンの「回答」を、正確に受け取っていた。
だからこそ、続けた。
「運命だよ」
その言葉は、シモンだけでなく、その場の全員に――あるいは、世界そのものに向けられていた。
「私はね。運命という得体の知れぬものが、身勝手に選ぶ未来を、ただ傍観するのが嫌になっただけだ。――それだけのことさ」
天日の脳裏に、内務省タワーでのディマンドの言葉が蘇った。
アウローラがそうしたように、この男もまた、自分なりの結論を導き出したということか。
そうして人は生き急ぎ、生き急ぐことで、歪んでいく。この先に続く人生が長いと分かっていても、なお。
「狂ってる」
アナスタシアが、初めて感情を乗せた声で言った。
「そうであってほしいと、私も願っているよ」
ディマンドが、答えた。
それから、世間話の続きでも口にするような手軽さで――人類を、滅ぼした。
「最終フェーズ。実行プログラム。起動」
*
『ナノマシンネットワーク、最終段階への移行プロセスを検出』
間髪入れず、マリィからの通信が入った。
ディスプレイに映るプログレスバーが、時を刻み始める。
(一パーセント、二パーセント)
ボルトが動いた。銃を構えたまま、距離を詰めようとする。それを、ディマンドが制した。
「賭けてみるか?」
ボルトの照準を導くように、自らの胸へ手を置く。
挑発ではない。そうしてみるのも一興だと、正気のまま言っている。それでいて、警戒はわずかも解いていなかった。
(七パーセント、八パーセント)
『天日くん。よく聞いて――進行速度から逆算すると、発動までの到達時間は約百八十秒。その前にデバイスへの物理接触と、アンチプログラムの実行を完了しないと――』
イヤーデバイス越しのマリィは早口だった。だがその裏に、天日を焦らせまいとする細心の配慮が込められている。
天日は腰のデバイスに触れた。
四十三秒。接近に要する時間を含めれば、一分。残された猶予は、二分。だが――ディマンドに、隙はない。
(十四パーセント、十五パーセント)
考えろ。天日は己に言い聞かせる。
デッドマン・スイッチ。力ずくの選択肢は、ない。
ならば、対話で崩すしかない。
天日は、一歩、前へ出た。
「ディマンド」
呼びかけた。自分でも驚くほど、静かな声が出た。
ベネチアンマスクの切れ込みの奥で、目だけが、こちらへ動いた。
「――君か」
「一つだけ、聞いていいですか」
(二十パーセント)
「無論構わない」
「あなたは『どちらでも良かった』と言った。――なら、何のために、こんなことを?」
簡単な問いだった。だが、簡単さが刃になることを証明したのは、ディマンド自身だ。
ディマンドは、すぐには答えなかった。問いの真意を探っているようにも見えた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「何のため、か。――大義のためだと答えれば、君は納得するのか」
「しません」
「では、復讐だと答えれば」
「それも、違うでしょう」
ディマンドの体が、わずかに揺らいだ。揺らいだのは体ではなく、その奥にある何かだった。天日には、それが見えた。
「あなたは、自分でも解っていない。大義なのか、復讐なのか、それとも別の何かなのか。分からないまま、ここまで来てしまった。――違いますか」
「……面白いことを言う」
声色は崩れなかった。だが、返答までの空白が、一拍長い。
警戒。言い換えれば――隙だ。
「君は私を理解しようとしているのか?」
「いいえ」天日は首を振った。「僕はただ、知りたいだけです。あなたがこの先に何を見ているのか」
(三十三パーセント)
天日は、もう一歩前へ出た。
ボルトが視線で制止しようとする。だが天日は、それを承知の上で踏み込んだ。
「この先?」ディマンドが繰り返す。「この先には、何もない。終わりがあるだけだ」
「それで、いいんですか」
感化。
「いいも悪いもない。私は運命に干渉した。その上で、運命が選んだのだ」
やれる。
距離、六メートル。
「運命、か。――逃げたな、ディマンド。選択から」
ディマンドの足が床を擦り、半歩、後ろへ下がった。呼吸が止まった。
その瞬間を、天日は見逃さなかった。
地を、蹴った。
六メートルを、天日は全速で詰める。
エンハンススーツの補助が脚に推力を上乗せし、二歩で射程へ入った。
ディマンドの唇が離れる。制御を手放すリリースコマンドを、発する気だ。
だが――刹那、ボルトがコンソールデスクへ銃弾を叩き込んだ。弾け飛んだ破片がディマンドの足元を襲い、体勢が崩れる。
天日の手が、ディマンドの首元へ届いた。
チョーカー型デバイスに、マリィのアンチプログラム実行用小型デバイスを押し当てる。――接続。
『デバイスの接触を確認。アンチプログラム、実行――』
天日は勢いそのまま、ディマンドを押し倒した。
デバイスを押し当て、喉に五指を喰い込ませる。くしくも首を絞める格好になった。
ディマンドが、天日の腕を振り解こうとしがみつく。
天日は、それ以上の力で抑え込んだ。
「何……を……」ディマンドの、絞り出すような声。
「四十三秒です」
天日が言った。「四十三秒」もう一度、言った。
『反撃開始よ』
アンチプログラムの進行状況が、天日のゴーグルに表示された。
認証突破中。パターンマッチ。暗号解除。マリィが組み上げたコードが、ディマンドのシステムへ食い込んでいく。
天日は、ナノマシンのプログレスバーの進行度を横目に、それを確かめていた。
(四十七パーセント、四十八パーセント)
ディマンドが体を捩った。天日を引き剥がそうと、なおも必死の抵抗をみせる。
シモンが駆け寄り、覆いかぶさるように体を押さえつけた。
アナスタシアが至近距離で銃口を構え、動けば撃つと、無言で告げる。
意味はない。だが、彼女の圧倒的なプレッシャーが、その事実をねじ伏せた。
(五十八パーセント)
『アンチプログラム完了まで二十秒……進行度、五十八パーセント。あと半分……お願い』
(六十五パーセント)
天日の額から、冷たい汗が落ちた。
デバイスを離してはいけない。発声を許してはいけない。だが、窒息させてもいけない。押し当てる手が、震えている。恐怖ではない。ちょうどいい加減を、小刻みに探っているのだ。その制御に、天日は全神経を注いでいた。
(七十二パーセント)
『あと十、九』
マリィの声が、カウントダウンを刻む。
(七十八パーセント)
『五秒。四――』
ディマンドの抵抗が、弱まった。だがそれは、諦めではなかった。マスクの奥の目が天日を見据え、揺れている。
『二、一――っ』
(八十三パーセント)
天日はデバイスを押し当てたまま、息を吐いた。
ゴーグルのレンズに、「コンプリート」の文字が点灯する。
『完了を確認。――降水確率よりは、マシだったみたいね』
四十三秒、ジャスト。
マリィの安堵した声が、天日の耳に届いた。
――だが。
ディスプレイに映るナノマシン実行プログラムのプログレスバーは――止まっていなかった。
(八十七パーセント、八十八パーセント)
「……何」
天日が呟いた。吐いた息を、吸い戻す。
(八十九パーセント、九十パーセント)
『なんで、どうしてっ――停止しない……プログラムの上書きは、完了しているのに――何か、別のトリガーが……』
切迫したマリィの声に、天日の意識が囚われる。
その一瞬。ディマンドが天日の腕を振り解いた――そして、不敵に笑った。咳が、混じっている。
「素晴らしい。本当に。――だが、あと一手。一手、足りなかったな」
(九十三パーセント)
「私のナノマシンには、隠された発動条件がある。――外部からの制御を停止しても、一定時間内に解除コードが入力されなければ、自律的に発動する。フェイルセーフだ」
そう言いながら、ディマンドは気力の抜けたシモンを押しのけ、ゆっくりと身を起こした。
「解除コードは私の頭の中にだけある。無論、教えるつもりはない」
(九十六パーセント)
「切り札は、先に切った方が、負ける」
ボルトが歯を食いしばった。シモンが床に拳を叩きつける。アナスタシアが、照準を外した。
天日の手から、アンチプログラムのデバイスが零れ落ちた。
「――カーテンコールだ」
ディマンドが、両手を高々と広げた。
その声は、穏やかだった。最後の晩餐のように――穏やかで、残酷な声だった。
(九十九パーセント、百パーセント――)
部屋中のディスプレイが、一斉に、真っ赤に染まった。
さながら、墓碑銘のように。
――そのとき、地下八階の作戦会議室で、マリィの口の端がわずかに歪んだ。




