第十二話「蛙の行進」
知らないということは、ときに残酷で、ときに優しい。どちらであるかは結果が決める――。
アルフレッド議長失踪、ディマンドの声明から2ヶ月あまりが経過していた。世界は終末のカウントダウンを知ることもなく、街は日常を繰り返していた。そして、最後の作戦会議が始まる‼
ディマンドの声明から、二か月と十一日が経っていた。
通勤する人々、笑い合うカップル、走り回る子供たち。広告塔が色とりどりの映像を空へ投げかけ、誰もが三か月後の世界について、何ひとつ知らずにいる。箝口令というものは、敷かれていることすら気づかれないのが理想だ。
その点において、今回の情報統制は見事に機能していた。街は、いつも通りだった。
天日は地上階のエントランスを通り抜けるたび、ひときわ目立つ巨大なデジタルサイネージを横目に見ていた。画面いっぱいに、見覚えのあるロゴが躍っている。
『一口で、世界が変わる。――蛙肉ケミカルフード。全世界無料配布キャンペーン、実施中!』
蛙の3Dモデルが、画面の中で陽気に跳ねている。
妙に人懐っこい表情のキャラクターデザインで、子供が喜びそうだった。食品の広告としては攻めすぎだろう――天日はそう思ったが、現に通りすがりの人々が足を止め、サイネージを見上げている。
話題性という点では、これ以上ない。
ブラフマナスパティ社――天日がかつて農業エンジニアとして勤めていた会社だ。
ナチュラルフード寄りの路線を貫いてきた同社が、ケミカルフード路線へと大きく舵を切り、しかも全世界規模の無料配布。経済ニュースでは「食品業界のゲームチェンジャー」と持ち上げる者と、「社運を賭けた愚行」と切り捨てる者に分かれ、株価は乱高下を続けていた。
SNSには蛙肉の合成食品を試した市民のレビューが溢れ、賛否は真っ二つに割れている。
「天日、またカエル見てる」
隣にいたアナスタシアが、天日の視線に気づき、険しい顔で言った。
「あれ、アナスタシアさんも食べましたよね」
「食べた……でも、実物を知らないまま食べたかった」
知らないということは、ときに残酷で、ときに優しい。そのどちらであるかは、いつも結果が決める。
*
リグ・ベータ社、地下八階。
作戦会議室の扉が開くと、ホログラフィック・ディスプレイはすでに起動していた。
中央のテーブルから立ち上がる青白い光の中に、ウムコント社の立体構造図が浮かんでいる。
地上のビル構造と、それに接続する地下区画。通常の設計図には存在しないスペースがいくつか、赤い輪郭で強調されていた。
ボルトは、先に着いていた。テーブルの端に片手をつき、ホログラムを睨んでいる。サイバネティック・フレームの左手が仄かに燐光を放ち、立体図の輪郭と混じり合って、不思議な陰影を刻んでいた。
「ここまで、よくやった。最後の作戦会議だ」
天日が入室すると、ボルトは振り返りもせず、そう言った。
最後。その一語が孕む重量を、天日は正確に受け止めた。
続いてアナスタシアが入り、シモンが入り、セイヴが入った。セイヴはいつものように涼しい顔をしていたが、眼鏡の奥の目は、わずかに充血している。
ここ数日、睡眠を削って諜報網の最終確認に当たっていたことを、天日は知っていた。
最後にマリィが現れた。小脇にタブレット端末を抱え、グラスデバイスのレンズには、コードの断片が流れている。
席に着くなり端末をテーブルに置き、ホログラフィック・ディスプレイと同期させた。立体図の横に、データウィンドウが幾重にも展開される。そのひとつには、アウローラとのリアルタイム通信映像が混じっていた。
「状況を整理する」
ボルトの指がホログラムに触れた。立体図が回転し、ウムコント社ビルの断面が露わになる。
「水面下で進行中の、ディマンドと議会の条件交渉は、合意までもう間もない段階にある。セイヴの情報では、早ければ今週中にも、ネリー議員が仲介役として最終合意案をまとめる見通しだ」
「つまり」セイヴが眼鏡のフレームを指で押さえた。「ディマンドにとっては、交渉が成立する方向へ流れている。要求が通りそうなのに、わざわざナノマシンを暴発させる理由がない。――最も手出しされにくい瞬間、とも言えますね」
ボルトは頷いた。だが、その顔に安堵はなかった。
「だから、今だ」ボルトの声が一段、低く落ちた。「議会が合意する前に叩く。合意すれば、交渉の結果として、ディマンドは正当性を手に入れる。ナノマシンというカードを温存したまま、ヤツは表舞台に出てくるだろう。そうなれば、もう手出しはできん。――今しかない」
天日は、その判断の明快さに、ボルトという人間の本質を改めて見た。飄々としていても、決断の瞬間には、一片の曖昧さも持ち込まない。迷いの痕跡すら見せない。彼が慕われる理由が、そこにあった。
「マリィ」
マリィがタブレットを操作すると、ホログラムの横に新たなウィンドウが開いた。コードの構造図と、シミュレーション結果のグラフが並ぶ。
「ナノマシンプログラムの解析は、完了しているわ。トリガーを制御するアンチプログラムも完成済み。ただし――ハッキングには、物理的な接触が必要」
「つまり、ディマンドのデバイスに、直接アクセスしなきゃならない」
シモンが腕を組んだまま言った。
「そういうこと。遠隔じゃ、どうにもならない。これは内務省タワーのときと同じよ。ディマンドを拘束して、デバイスに触れなければ、話は始まらないの」
「で、ディマンドの居場所は」
ボルトがホログラムの一点を指した。赤い輪郭で囲まれた地下区画のひとつが、ひときわ明るく点滅する。
「地層調査、通信傍受、あらゆる角度から裏を取った。設計図にない地下スペースが、複数存在する。ディマンドは十中八九、その中に潜伏している」
セイヴが補足した。
「設計図にない区画へのアクセスルートも、特定済みです。裏口がある。正面から行く必要はありません」
「最も可能性の高い潜伏場所から、順に攻略する。防備が手薄で交戦しやすいルートは、マリィが指示してくれる」
ボルトがテーブルに両手をついた。
ホログラムの光が彼の顔を下から照らし、影を深く刻む。
「編成を言う。突入班は、俺、セイヴ、シモン、アナスタシア。そして――天日」
名を呼ばれた天日は、静かに頷いた。
「マリィは作戦室に残り、指揮のバックアップを担当する。通信管制、敵戦力の分析、状況に応じたルート変更の判断。後方だが――要だ」
マリィはグラスデバイスのブリッジに手を伸ばしかけて、やめた。代わりに、天日を見た。
「アンチプログラムの実行は、あなた」
その一言は淡々としていた。だが、その裏に込められた信頼の重さを、天日は確かに感じ取った。
プログラムは完成している。しかし実行には、ディマンドのデバイスに物理的に接触した上で、正確な手順を踏まなければならない。
戦場の、ど真ん中で。弾丸と怒号の渦中で。
「了解です」
天日が答えると、マリィは小さく息をついた。安堵ではない。覚悟を手放す音に、近かった。
「また、あの時と同じね」
マリィが呟いた。独り言のようでいて、その声には、全員に届くだけの音量があった。
「内務省タワーの時は、私が後方で、あなたたちを送り出した。今回も同じ。――あの時と違うのは、今度は相手の居場所が分かっていることと」
マリィはグラスデバイスを中指で押し上げた。
「あなたたちが、あの時よりずっと強くなっていること」
シモンが鼻で息を吐いた。照れているのだと、天日にはもう解る。
「作戦開始は明朝〇五三〇。霧が出る予報だ。視界不良は、こちらに有利になる」
「天気予報、今度こそ当たるんですかね」
天日が言うと、ボルトが口の端を上げた。
「外れたら外れたで、どうにかする。軍人の仕事ってのは、そういうもんだ」
*
作戦室に残ったのは、天日とマリィの二人だけだった。
マリィはまだ端末に向かっている。アンチプログラムの最終チェックだろう。天日は向かいの席に腰を下ろし、黙って、その横顔を見ていた。
「じろじろ見ないで。集中できないわ」
「すみません」
謝りつつも、視線は外さなかった。画面の上を滑るマリィの指に、迷いはない。コードの一行一行を検証し、修正し、確定していく。
エンジニアとしての彼女を見ていると、天日はいつも、不思議な安心感を覚えた。
「天日くん」
「はい」
「アンチプログラムの実行手順、もう一度確認するわよ」
「お願いします」
マリィが画面を天日のほうへ向けた。手順は、頭に入っている。それでも、最後にもう一度確認する。この人がそうしたいなら、そうする。
「デバイスとの物理接触後、認証を突破するまでの所要時間は、最短で四十三秒。ただし、これは理想条件。実戦では外的要因が――」
「解っています。四十三秒。でも、六十秒は見込む」
「そうね。六十秒あれば十分よ。それ以上かかるようなら、プログラムの方に問題がある。その場合は――」
「マリィさん」
「何」
「大丈夫ですよ」
マリィの指が、止まった。グラスデバイスの奥の目が、天日を見た。
「根拠は」
「マリィさんのプログラムが四十三秒で認証を突破できない確率と、明日の降水確率を比べたら――天気予報のほうが、よほど心配です」
「……それは根拠じゃなくて、信仰よ」
「エンジニア業界では、同義です」
マリィは一瞬だけ、目を細めた。反論を呑み込んだのか、それとも、悪くない信仰だと思ったのか。どちらにせよ、グラスデバイスを拭く手つきが、少しだけ丁寧になった。
「あの日のこと、覚えてる?」
唐突だった。だが、天日には、その脈絡が解った。
「覚えていますよ」
「覚えていますよ」
「あの時もあなた、何も言わなかったわね。ただ、傍にいただけ」
「言葉が、見つからなかっただけです」
「嘘ね――言葉がなかったんじゃない。黙るほうが正しいと、判断したの。あなたは、そういう人」
否定しなかった。マリィは立ち上がり、端末をテーブルに残したまま、扉へ向かった。途中で足を止め、振り返らずに言った。
「明日、無事に帰ってきなさい。命令よ」
「了解です、上司どの」
「上司は、前の話でしょ」
扉が閉まった。
天日は一人残された作戦室で、天井を見上げた。
窓のない部屋。天気は分からない。だが、明日の朝の空がどんな色をしているか、なんとなく想像はついた。
*
夜。天日は自室で、装備の最終確認をしていた。
戦闘用ゴーグル、イヤーデバイス、アンチプログラムを格納した携帯端末。そして右手には、シモンから預かったハンドガン。
半年前には握り方すら知らなかったものが、今はそれなりに手に馴染んでいる。それなり、だ。シモンやアナスタシアのように、身体の一部にまではなっていない。
イヤーデバイスに着信があった。表示には、アウローラとある。
『天日。明日のこと、少しだけ』
「ええ」
『覚えていますか? 私が先日、あなたに言ったこと』
「覚えてます」
『怖いです。今も――しかし、迷いは、もうありません』
天日は窓のない壁を見つめた。地下には、空がない。だが、空を見上げる理由のある生活は悪くないと、以前、自分でそう思ったことを覚えている。
「アウローラ」
『はい』
「明日、マリィさんのそばにいてくれますか」
『もちろん。画面越しですが――それが、私の役目ですもの』
「ありがとう。――大丈夫。やれることを、やるだけです」
三度目だった。同じ言葉を、同じ相手に。だが、不思議と陳腐には感じなかった。むしろ繰り返すたびに、その言葉が地面に根を張っていくような感覚があった。
『ええ。――おやすみなさい、天日』
「おやすみなさい」
通信が切れた。静寂が、戻る。
天日はベッドに横たわった。天井の照明を落とすと、闇の中に、サイバネティック・フレームの残光のような青い線が一瞬だけ走り、消えた。
ボルトの部屋は、このフロアの突き当たりだ。あの人も今頃、同じように天井を見上げているのだろうか。
眠れないだろうな、と思った。
戦闘前夜の緊張ではない。明日の作戦そのものに、不安はなかった。ボルトの指揮は信頼できるし、シモンとアナスタシアの腕も知っている。マリィのプログラムは、完璧だ。
不安があるとすれば、それは、もっと別のところにあった。ただし、明日の作戦とは関係がない。もっと遠くて、もっと長い話だ。
天日は、そこで考えるのをやめた。
考えても仕方ないから、ではない。この手の感傷には、とうの昔に決着がついているからだ。決着がついているのに、ときどき顔を出す。厄介なのは敵ではなく、そういう類のものだった。
明日の天気予報は、霧のち曇り。降水確率二十パーセント。当たるかどうかは、空だけが知っている。
当たらなかったとしても――まあ、いつものことだ。
*
翌朝、〇五〇〇。
天日はちょうど身支度を済ませ、作戦室へ向かうところだった。廊下の照明はまだ夜間モードで、足元だけを淡く照らしている。
地下八階に朝も夜もないが、人間の身体は律儀にリズムを刻む。その証拠に、作戦開始三十分前だというのに、あくびが出た。緊張感がないのではない。身体が、正直なだけだ。
作戦室には、すでに全員が揃っていた。皆、あまりよく眠れなかったらしい。
ボルトは武装を整え、サイバネティック・フレームの左手を、何度も握り込んでいた。その腕が、脈を打つように明滅している。
シモンは壁に背を預け、腕を組んで目を閉じている。眠っているのではない。集中しているのだ。訓練で何度も見た姿だった。
アナスタシアは、すでに完全武装。全身のサイバネティック・フレームの状態を、モニターで一項目ずつチェックしている。稼働率、応答速度、出力。数値をひとつひとつ確かめていくその眼差しに、自然や動物を愛する普段の柔らかさはない。職業軍人の、顔だった。
セイヴは、眼鏡を拭いていた。丁寧に、ゆっくりと。
天日が入室すると顔を上げ、「おはよう。いい朝だ」と言った。地下にいるのだから、朝の良し悪しなど判るはずもないのに、この人が言うと、本当にそんな気がするから不思議だった。
眼鏡をかけ直す仕草が、どこかセイヴの癖というより、儀式のように見えた。毎朝、世界の輪郭を確認し直すための、儀式。
マリィは、通信機器のセッティングを終えたところだった。モニター群が彼女の周囲を取り囲み、各画面にリアルタイムデータが流れている。
隣のモニターには、アウローラの姿が映っていた。別の場所から、中継で参加している。銀髪を後ろでまとめ、その表情は引き締まっていた。
『おはようございます、天日』
画面越しのアウローラの声は、穏やかだった。嵐の前の、という枕詞がつきそうなほどの、静けさ。
「おはようございます」
その一言に、天日は軽く頭を下げた。
「全員、聞け」ボルトの声が作戦室を満たした。全員が、姿勢を正す。「作戦名――笑うなよ。つけなきゃ報告書が書けんからな――フロッグ・マーチ」
セイヴが一瞬、口元を緩めた。シモンは眉を上げた。アナスタシアは無表情のまま、かすかに首を傾げた。
「蛙の行軍、ですか」
天日が訊くと、ボルトは肩をすくめた。
「深い意味はない。こんな時勢だ。縁起がいいだろう」
「蛙は、前にしか跳べませんからね」
セイヴが言った。
「本当か?」シモンが訊いた。
「知らん。だが今は、そういうことにしておけ」
ボルトが締めた。誰も異論はなかった。
事実かどうかより、信じたほうが都合のいいことは、戦場にはいくらでもある。
「細かいことを気にするな。――よし」
ボルトは、ホログラフィック・ディスプレイを最後にもう一度だけ起動した。ウムコント社の立体図が浮かび上がり、突入ルートが赤い線で描かれる。全員が、その光を目に焼きつけた。
数秒後、ホログラムが消えた。
「行くぞ」
*
〇五三〇。
ウムコント社付近、所定の地点までは一般車両を利用した。
早朝のアジアリージョンは灰色の静寂に包まれ、街灯の光が霧に溶けて滲んでいた。視界は二十メートルほど。車両の通行はまばらで、人影はほとんどない。
天日は腰に、マリィから受け取ったアンチプログラム実行用の小型デバイスを固定していた。右腰のホルスターには、ハンドガン。昨晩確かめた重量が、朝になっても変わっていないことに、少しだけ安堵した。
五人は、音もなく霧の中を進んだ。
ボルトが先頭。その後ろにシモンとアナスタシアが並び、セイヴと天日が後方を固める。
移動中、会話はない。イヤーデバイスを通じて、マリィとアウローラの通信だけが、断続的に入ってくる。
「ウルフ・ワンからディアー・ワン、ポイント・アルファ現着」
『ウムコント社の外周に、セキュリティ上の変動なし。ルート上のセンサー配置は、事前データと一致。予定通りの進入が可能』
マリィの声は、明瞭だった。
ウムコント社ビルの裏手へ回り込んだ。
設計図に存在しない裏口は、排水施設に偽装された小さなハッチだった。セイヴが工具を取り出し、三十秒でロックを解除する。
ハッチが開くと、地下へ続く狭い階段が、暗闇の中へと消えていた。
「フロッグ・マーチ作戦を開始する」
そう言って、ボルトが先陣を切る。シモン、アナスタシア、天日の順に続いた。
『ご武運を』
イヤーデバイスから、アウローラの声が聞こえた。慈愛のこもった、声だった。
殿となったセイヴが、ハッチを戻す。
霧の街が、遠ざかっていく。
蛙は前にしか跳べない。本当かどうかは、知らない。
だが、いま自分たちが進むべき方向は――ひとつしか、なかった。




