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無窮のヴィタルマナ  作者: 誤日脱日
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第十一話「降水確率」

空を見上げる理由がある生活は、悪くない――。

内務省タワーのテロから半年が経過していた。着々と対策は進んでいるが、目立った事件もなく、世界は日常を取り戻しつつあった。今日までは……

 内務省タワーのテロから、半年が過ぎていた。

 あの夜の硝煙も、滂沱の雨も、すでに記憶の地層深くへと沈められたらしい。爆発と銃声が渦巻いたあの通りを、いまは買い物袋を提げた人々が、笑い声とともに行き交っている。忘れる力こそ、人間に備わった最も優れた防衛機構なのかもしれない。

 天日(アメノヒ)は、そのことを人より少しだけよく知っていた。


 SCTD(特殊テロ対策課)もまた、表向きは穏やかな半年を過ごしていた。

 議長以下、議会員の護衛任務。諜報活動。防衛システムの絶え間ない強化。やるべきことは山積していた。だが、やるべきことをやったからといって、成果が約束されるわけではない。子供と大人を隔てる一線があるとすれば、それを知っているか否か、そこにこそある。

 マリィは防衛システムのセキュリティレイヤーを幾重にも重ね、セイヴは各リージョンの諜報網へと触手を伸ばす。シモンとアナスタシアは護衛任務のローテーションをこなし、ボルトは部隊の練度を保ちながら、苦手な議会との折衝にも時間を割いた。誰もが、それぞれの持ち場で全力を尽くしていた。

 アウローラとも定期的に連絡を取り合っていた。「シン・シティ」が掴んだディマンド側の断片的な情報を共有し、こちらからは、伝えられる範囲の状況を返す。

 水面下の協力関係は、ボルトの意向通り、上層部に知られることなく保たれていた。

 ただ、肝心のものは、何ひとつ網にかからなかった。

「釣り糸を垂らしても、魚がいなけりゃ釣れん。だが、いないのか、ただ食いつかんだけなのか――それは海の中を覗かなきゃ分からん」

 ボルトが定例会議でそう口にしたのは、二週間ほど前のことだ。その比喩は、ボルトにしては詩的にすぎた。セイヴが「大佐、釣りなんてしたことあるんですか」と茶々を入れ、ボルトが「うるさい」と返し、シモンが鼻で笑った。

 要するに、「焦るな、しかし油断するな」ということ。部隊の全員がそう解釈し、その通りに動いた。それでも魚は、やはり釣れなかった。


 天日(アメノヒ)にとっての半年は、静かに、しかし確かに、その輪郭を変えていた。

 マリィのおかげで防衛システムの構造はおおむね頭に入った。シモンとの訓練こそ頻度は減ったが、身体が刻んだ動きは錆びついていない。

 何より変わったのは、チームの中での立ち位置だった。参画当初は「お客さん」でしかなかった天日(アメノヒ)が、いつしか作戦会議で意見を求められるようになっていた。それがボルトの計算なのか、自然な流れなのか――判然としないが、おそらくはその両方だろう。

 しかし、半年という時間は長い。緊張の糸は、張り続けるほどに摩耗する。人間の集中力には、限界がある。それは天日(アメノヒ)とて例外ではなかった。



 *



 その日の天気予報は快晴だった。

 朝のニュースで、キャスターが晴れやかに「本日は終日、雲ひとつない青空が広がるでしょう」と告げるのを、天日(アメノヒ)は地下八階の作戦室のモニターで眺めていた。

 作戦室に窓はない。外がどんな空模様であろうと、ここの照明が変わることはない。それでも、天気予報を確かめる習慣だけは、地下での暮らしが増えたいまもなお、身体に染みついていた。

 空を見上げる理由のある生活は、悪くない。


天日(アメノヒ)、コーヒー」

 差し出されたカップを、礼を言って受け取った。

 アナスタシアがコーヒーを淹れる際、砂糖を入れるかどうか、いちいち訊かなくなったのは一月ほど前からだ。ブラックで、黙って渡される。ただそれだけのことが、妙に嬉しかった。

「ボルト大佐は、今日はどこに?」

「上よ。議会の定例報告とか」

 アナスタシアは自分のカップを手にしたまま、モニターの前に腰を下ろした。画面には護衛シフトの調整表――来週の議会関連スケジュールが映っている。

「マリィさんは?」

「午後には来るって」

 つまり、午前中の作戦室は閑散としている。セイヴは三日前から諜報任務で外に出ており、シモンは護衛シフトの真っ最中だった。


 天日(アメノヒ)はコーヒーに口をつけた。

 適温。猫舌の自分に合わせて、わずかにぬるめに淹れてある。それに気づいたのはずいぶん前だが、口にしたことはない。毎度繰り返される「たまたま」の正体を、わざわざ暴く趣味は持ち合わせていなかった。

 呼び捨てになったのも、ちょうど同じ頃からだった。

 何事もない午前だった。そして、おそらくは何事もない午後が続く。ボルトの言葉を借りるなら――海の中を覗くには、結局、飛び込むよりほかにないのだろう。



 *



 だが異変は、昼食を挟んで間もなく訪れた。

 最初に気づいたのは、空だった。作戦室に窓はないが、天日(アメノヒ)はそのとき、たまたま新調した制服を受け取りに、地上階のエントランスへ出ていた。

 自販機でミネラルウォーターを買い、何気なく外へ目をやる。

 空が、黒い。快晴だったはずの西の空から、墨汁を一滴垂らしたような雲塊が押し寄せていた。その速度は尋常ではない。早送りの映像でも見ているように、青空が端からじりじりと喰い尽くされていく。

 風も、変わった。ビルの谷間を抜ける風が、ふいに温度を落とし、湿り気を帯びる。街路樹が一斉に、ざわめき立った。


 天日(アメノヒ)が空を仰いだ、その数秒後だった。雷鳴が轟いた。

 稲光が雲の腹を引き裂き、間髪を容れず、大粒の雨が地面を叩きはじめる。

 通りを行く人々が悲鳴を上げて駆けだした。数秒で、視界が白く霞む。自動扉のガラス越しに、街の輪郭が溶けていった。

 天日(アメノヒ)は水のボトルを握りしめたまま、その光景を見つめた。予報は快晴だった。自然は、人間の予測になど従わない。

 もっとも、この半年で学んだことがあるとすれば――予測を裏切るのは、天気だけではない、ということだった。



 *



 作戦室へ戻ると、空気が張り詰めていた。

 アナスタシアが立ち上がっている。グラスデバイスのレンズに、何かが映り込んでいた。指が宙を走り、モニターの表示を次々と切り替えていく。

 その動きに無駄はない。だが、彼女の背中には、紛れもない緊張が走っていた。


天日(アメノヒ)。ボルト大佐から、秘匿通信」

 アナスタシアの声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落とした、過不足のないあのモード。

 天日(アメノヒ)は、イヤーデバイスに手を当てた。

『やあ』

 ボルトの第一声は、場違いなほど陽気だった。

 だが二言目で、空気が一変した。

『たった今、議会から極秘の一報が入った。アルフレッド議長が、失踪した』

「――失踪?」

『今朝の定例報告に現れなかった。自宅にもいない。護衛が最後に接触したのは昨晩だ。それきり、連絡がつかん』

 天日(アメノヒ)はアナスタシアと視線を交わした。彼女も同じ情報を受け取っているらしく、小さく頷いた。

『議会はいま、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。だが、外には出せん。議長が行方不明だと知れれば、市民がパニックを起こすより先に市場が崩れる。内々に動く。セイヴには連絡した。マリィにも俺から入れる。お前たちはそこで待機しろ。追って指示する』

 一方的に、通信が切れた。

 天日(アメノヒ)はボトルのキャップをゆっくりと開け、水をひと口含んだ。冷たい水が喉を通り過ぎる感覚だけが、妙に鮮明だった。

「議長の失踪」アナスタシアが呟いた。

「護衛は、うちじゃないんですか」

「シフトを確認する――昨日はSCTD(特殊テロ対策課)の担当じゃない。議会直属の護衛部隊が就いていたようね」

「それで、接触が途切れている」

「ええ。護衛ごと消えたのか、あるいは――」

 アナスタシアは、そこで言葉を切った。それ以上は、推測の域を出ない。


 地上では、雷鳴が続いていた。地下八階にいてなお、ビルの躯体を伝うかすかな振動が感じ取れる。

 嵐に変わる――か。天日(アメノヒ)は、ひとり胸の内で呟いた。



 *



 ボルトが作戦室に戻ったのは、それから一時間後のことだった。

 ほぼ同時に、マリィも到着した。肩で息をしている。グラスデバイスのレンズには雨粒が散り、彼女はそれを袖で拭いながら室内へ入ってきた。


「全員いるか」

 ボルトが室内を見回した。セイヴとシモンの姿はない。

「セイヴは帰還に十二時間。シモンは護衛シフトを引き継ぎ次第、こちらへ向かう――とのことです」

 アナスタシアが報告する。ボルトは頷き、正面のモニターを起動した。

「状況が変わった。失踪だけなら、まだ捜索の話で済む。だが――つい先ほど、議会にこれが届いた」

 モニターに映し出されたのは、音声データの波形と、テキストに変換された文面だった。送信元は匿名化されている。

「流してくれ」

 低い声が、作戦室を満たした。


 音声データには、わずかに電子的な加工が施されていた。それでも、その話し方の間合い、言葉の選び方――天日(アメノヒ)は、内務省タワーのコントロールセンターで聞いたあの声を思い出した。白いベネチアンマスクの、男。

『世界評議会の諸君。私はディマンド=ツェツェ。名に意味はないが、礼儀として受け取ってもらえると、ありがたい』

 ボルトの表情は動かない。マリィはグラスデバイスのブリッジを中指で押し上げ、音声に意識を集中させていた。


『現世界評議会議長アルフレッド=キングレイは、我々が確保している』

 確保。拉致でも、拘束でもなく、確保。その言葉の選びようが、いかにもだった。

『さて本題に入ろう。現在、世界中に流通する合成食品――いわゆるケミカルフードには、我々が開発したナノマシンが混入している。食事を通じて感染を拡げ、手元の推計では、現時点で全人類の過半数に達していることが確認できている』

 天日(アメノヒ)の指先が、わずかに冷えた。

『このナノマシンを発動させれば、急性心筋梗塞を誘発できる。実験では、八十九パーセントの割合で絶命に至った。それから、もうひとつ――これが肝心なのだが――久視細胞を識別し、オリジンだけに損害を与える命令が組み込まれている』

 マリィの指が、コンソールの上でぴたりと止まった。表情は動かない。だが、押し上げたはずのグラスデバイスへ、ふたたび手が伸びる。

 同じ仕草を二度繰り返す――それがこの人の動揺の兆候だと、天日(アメノヒ)は知っていた。

『発動は遠隔操作で行える。そして私の生体チップがネットワークから隔絶された場合、七十二時間で自動発動する。つまり――私を殺しても、通信を遮断しても、諸君が望む解決には、決して至らない』

 声は、どこまでも淡々としていた。怒りも、興奮もない。天気予報でも読み上げるような口調で、世界の命運を語っている。

『我々の要求は、二つ。境界(ゲート)の完全廃止。そして、ヴィタルマナ人権法の撤廃。猶予は、三か月。これらが履行されぬ場合、ナノマシンを発動する。――以上だ』

 そこで音声が途切れ、作戦室に無音が落ちた。

 地上の雷鳴さえ、この一瞬だけは、遠のいたように感じられた。


 天日(アメノヒ)の脳裏に、半年以上前のホテルの一夜が蘇った。オリジン区画で見た、深夜のニュース――原因不明の、連続心筋梗塞。あの時点で、すでに実験は始まっていたと見るべきだ。

 最初に口を開いたのは、マリィだった。

「……合成食品を経由した散布。ケミカルフードは全リージョンで流通しているから、理論上、確かに到達可能ね。久視細胞の判別がナノマシンのレベルで実装できているなら――技術的には、嘘ではないわ」

「だが検証がいる」

「ええ。まずは声明の真偽を確かめないと。ナノマシンの実在、そして感染率の推定。最低でもこの二つを押さえなければ、対策の方向性すら定まらない。サンプルを回収して、解析する必要がある」

「やれるか」

「やるしかないでしょう」

 マリィの声に、迷いはなかった。平時の皮肉混じりの口調は、どこにもない。エンジニアの目をしていた。

 課題が定義された瞬間、思考が自動的に解法へと向かう。その切り替えの速さに、天日(アメノヒ)は改めて敬意を覚えた。

「大佐。議会の動向は」アナスタシアが訊いた。

「まだ何も。だが、想像はつく。議長という求心力を失った議会が、ヤツの要求に正面切って反論できるとは思えん。日和見の連中が交渉へ傾くのは、時間の問題だ」

 ボルトは顎に手を当てた。その表情に滲んでいたのは、怒りでも焦りでもない――もっと冷たい種類の、覚悟だった。


 その予想は、翌日にはもう、現実のものとなった。



 *



 声明の真偽について、マリィはわずか二十時間で暫定的な結論を出した。

 市中から回収したケミカルフードのサンプルを解析したところ、微細なナノマシンの存在が確認された。久視細胞の判別機能については検証に時間を要するが、構造解析の初期段階で、声明の内容を否定する材料はひとつも見つからなかった――という。


「楽観視できる要素は、何ひとつないわ」

 マリィは、そう言い切った。その一言が、作戦室の温度をまた一段、押し下げた。

「ナノマシンの混入経路を特定する。合成食品の製造ラインと流通網を、片端から洗ってみるわ。時間はかかるけれど」

「頼む」

 ボルトが短く応じた。

 議会については、非公開会議に関する情報が、セイヴの諜報ルートを通じて断片的に流れ込んできた。

 予想通り、混乱の極みにあった。テロリストの要求など一蹴すべきだとする強硬派と、人命を最優先に交渉のテーブルへつくべきだとする穏健派が、激しくぶつかり合っている。

「ネリー議員が交渉支持の立場を明確にしたことで、流れが変わったようです」

 潮目を変えたのは、アジアリージョン代表ネリー=マントラの発言だったとセイヴが報告した。

「テロに屈する前例を作る懸念よりも、全人類の過半数が人質に取られているという事実のほうが、はるかに重い――と。論理としては、筋が通っています」

「筋が通っていることと、正しいことは別だ」

 ボルトは、吐き捨てるように言った。

「議会が要求を呑めば、一時的にナノマシンの発動は回避できるかもしれん。だが、それで終わりじゃない。ディマンドが、みすみす手札を捨てる理由がどこにある」


 天日(アメノヒ)は、窓のない作戦室の壁を見つめていた。

 ふいに、アウローラの言葉が脳裏に蘇る。――報復による変革は、さらなる報復を生む。

 ヴィタルマナ特区で、水族館で、レストランで。彼女は何度もそう口にした。形を変え、言葉を変え、しかし核心は、常に同じだった。

 仮にディマンドの要求が通ったとして――境界(ゲート)が廃止され、人権法が撤廃されたとして。それは、脅迫によって勝ち取った権利だ。その権利の上に、いったいどんな共存が築けるというのか。オリジンの内に巣食う恐怖と憎悪は、消えない。むしろ、増幅する。そしてまた、誰かが銃を取る。

 だが、いま目の前にある現実はどうか。ディマンドは、対話など求めていない。彼はすでに、怨嗟のただ中に身を置く人物だ。三か月という猶予でさえ、恐怖を熟成させるために計算され尽くした時間だろう。


「ディマンドを止めなければ、同じことが、いつまでも繰り返される。――それに、ナノマシンが存在し続ける限り、オリジンは永遠に人質のままだ」

 やれることを、やる。天日(アメノヒ)は、アウローラに告げた言葉の意味くらいは、守ろうと思った。

「問題は、どうやって止めるか、だ」

「ディマンドを捕らえ、ナノマシンの制御権を奪う。声明を聞く限り、発動は遠隔操作です。つまり、どこかに制御系統が存在する。それを掌握できれば、ナノマシンを無力化できる可能性がある」

 天日(アメノヒ)は、そう口にはしたものの、途方もないことを言っている自覚はあった。

 居場所すら掴めていない相手を、三か月以内に見つけ出し、制圧し、全人類規模のナノマシンネットワークを無力化する。雲を掴んで空を翔けろと言うのと、大差ない。

「独断行動になるな」

 ボルトの言葉とともに、作戦室に重い沈黙が落ちた。独断行動。その言葉が何を意味するか――解らない者など、この場にひとりもいなかった。

 全員が、正しく理解し、受け止めていた。

「殺せない。通信も遮断できない。捕らえた上で、生きたまま制御を奪う必要がある。――面倒な相手だ」

 ボルトは、淡々と制約を並べた。言い換えれば、それは生け捕りの作戦だった。

 殺傷の許されない、突入作戦。矛盾した注文だ。だが、その矛盾を呑み込むことこそ軍人の仕事だとでも言わんばかりに、ボルトの口調に迷いはなかった。

 誰かの呼吸音だけが、やけに大きく聞こえた。


「残業代、ちゃんと出してくれますよね?」

 セイヴが両手で髪を後ろへ流した。深刻な空気の中へ、わざと軽い石を投げ込む。この男は、いつもそうだった。

「指示をくれ。やることがあるなら、やる。それだけだ」

 シモンが、寄りかかっていた壁から背を離した。言葉は素っ気ない。だが、以前のような棘はなかった。訓練を通じて天日(アメノヒ)と向き合いはじめた男の、不器用な覚悟が、そこには滲んでいた。

 アナスタシアは、ホルスターに手を伸ばし、かちゃりと小さく音を立てただけだった。それが彼女の返答なのだと、天日(アメノヒ)にも解った。

「ナノマシンの仕様を解析するわ。制御プログラムの構造さえ掴めれば、主導権を奪える見込みはある。ただし、ディマンドのデバイスに物理的に接触しなければ、ハッキングはできない。――例によって、ね」

 マリィは、モニターから目を離さずに答えた。


「聞くまでもなかったですね」

 蛇足だと解っていて、天日(アメノヒ)はあえて口にした。

 ボルトが顔を上げ、呆れたような表情を浮かべた。その口の端が、ほんの少しだけ緩んでいることに、天日(アメノヒ)は気づいていた。

「セイヴ、諜報網をフル稼働させろ。居場所の特定が最優先だ。マリィ、ナノマシンの解析と、ハッキングプログラムの構築。流通経路の洗い出しは、セイヴと連携してくれ」

「了解」とセイヴ。「やるしかないわね」とマリィ。

天日(アメノヒ)。お前はアウローラと連携し、ディマンドの足跡を追え。シン・シティのネットワークを使えば、セイヴの死角を補えるかもしれん」

「はい」

「シモン、アナスタシア。お前たちの出番は、まだ先だ。護衛任務を続けながら、腕と装備を磨いて待て」

「了解」

 二人の声が、ぴたりと重なった。

「いいか、七十五日だ」

 ボルトの一言が、作戦室の空気を引き締めた。

「三か月は、あくまで交渉の最終期限。俺たちはそれより前に、すべてを終わらせる。七十五日――それが、デッドラインだ」


 ボルトがサイバネティック・フレームの左手を、テーブルに置いた。

 燐光が指先を伝い、テーブルの表面に淡い紋様を描いた。異を唱える者は、誰もいなかった。



 *



 その日の夜には、アウローラと連絡がついた。

 予想に反して、彼女の声は落ち着いていた。あるいは、努めて落ち着かせていたのかもしれない。


『ええ、(わたくし)も漏れ聞いております。断片的にではありますが』

 議会の秘匿通信の内容さえ拾い上げる、アウローラの――シン・シティの情報網()天日(アメノヒ)は、その評価を改めた。

「ボルト大佐から、あなたを頼るようにと」

 協力の返事は、得られるだろう。だが、これから実行しようとする作戦を伝えたとき、アウローラが納得するかどうかは、また別の話だった。

『分かりました。(わたくし)も、じっとしているつもりはありません。――天日(アメノヒ)、明日のご都合は、いかがですか』

「ええ、僕はもちろん」

『では場所はこちらで用意します』


 示し合わせたように、二人とも具体的な話には踏み込まなかった。

 通信を切ったあとも、天日(アメノヒ)はしばらく、イヤーデバイスに指を当てたまま、動かなかった。



 *



 天日(アメノヒ)がアウローラと合流したのは、ヴィタルマナ特区の外れにある、小さなカフェだった。シン・シティの関係者が営む店で、人目を気にせず話ができる。

 窓際の席で、銀髪が午後の光を受け、淡く輝いていた。

 天日(アメノヒ)が近づくと、アウローラは立ち上がった。トクズタワーの水族館で見せた無邪気さは、いまは影をひそめている。

 ヴィタルマナ特区のホテルで語り合った夜に近い、凛とした表情だった。


「声明のこと、詳しく聞かせてくださる?」

 席に着くなり、アウローラは本題へ入った。天日(アメノヒ)はディマンドの声明の全容を、議会の反応も含めて伝えた。アウローラは一言も挟まず、最後まで聞いた。

「……そのお話が本当なら、お恥ずかしい限りです。『次こそは止める』――以前、そう申し上げましたが、(わたくし)はとうに、機を逸していたのですね」

「アウローラのせいじゃない」

「解っています。それでも――やはり、悔しい」

 彼女はカップに視線を落とした。琥珀色の液面が、かすかに揺れている。

「シン・シティのネットワークで、ディマンドの関係者に繋がる情報を、いくつか掴んでいますわ。まだ断片的ではありますけれど」

「お互いの情報を照合すれば、輪郭が掴めるかもしれません」

 天日(アメノヒ)も、これまでの調査の概要を語った。アウローラは頷きながら聞き入り、自身の端末にメモを取っていた。


天日(アメノヒ)

 顔を上げたアウローラの瞳には、確かな決意が宿っていた。

「ここから先は、(わたくし)も大きく動きます。多少目立ってしまうかもしれませんが、保身を気にかける段階は、もう過ぎております。情報は、すべて共有します。ただ――」

「ただ?」

「ディマンドを追い詰めた、その先に、何が待っているのか。それだけが――怖い」

 天日(アメノヒ)は、答えなかった。答えられなかった。

 彼女の恐怖は、ディマンドそのものへの恐怖ではない。ディマンドを止めるために、何をしなければならないか――その先に横たわる選択への、恐怖だった。

 空の端に、薄い雲が一列に並んでいるのが見えた。次の雨を予感させる、細い線だった。

「大丈夫。やれることを、やるだけだよ」

 天日(アメノヒ)は、かつてアウローラに告げた言葉を、もう一度繰り返した。前とまったく同じ言葉なのに、その色合いは、まるで違って響いた。

「――ええ。そうですわね」

 アウローラは、静かに微笑んだ。運命を他者に委ねず、自らの手で切り開いていく。そういう人の笑みは、ときに、胸の内とは裏腹だ。

 木々を縫う風のように、彼女の笑顔は涼やかに、揺らめいていた。



 *



 数日後。マリィの解析が、最初の成果を上げた。


「ナノマシンの流通経路を、遡ったわ。製造元のコードネームは偽装されていたけど、部品の規格と製造番号を照合したら――ウムコント社に行き着いた」

 作戦室のモニターに、マリィが調査結果を展開する。

「ウムコント社?」

 天日(アメノヒ)が聞き返した。名前は知っている。ブラフマナスパティ社の競合にあたる、食品系のコングロマリットだ。ケミカルフード市場で、高いシェアを握っている。

「正確には、ウムコント社の特殊研究部門。表向きは食品添加物の開発を謳っているけれど、その裏で、軍事転用可能なナノテクノロジーの研究を進めていた形跡がある」

 細い指がコンソールをなぞり、データの階層を、一つひとつ掘り下げていく。

「ケミカルフードの製造ラインにナノマシンを混入させるには、製造工程への物理的なアクセスが不可欠よ。外部からの侵入ではなく、内部に協力者がいたと見るべきね。――それも、相当に上の立場の人間が」

「感化の力」

 天日(アメノヒ)は、そう呟いた。だが、それはマリィの求める答えを、ただ差し出したにすぎない。本当は、別のことを考えていた。

「断定はできないわ。でも、あの規模の協力者を確保する手段としては、もっとも合理的な説明ではある」


 合理的、か――未知のものを推理の変数に加えれば、方程式はいっそう複雑になる。「分からないことが分かりました」では、何の進展もない。むしろ存在しないものとして据え置いたほうが、解には早く辿り着ける。天日(アメノヒ)の中で、その計算はとうに終わっていた。


「ウムコント社か。裏付けが欲しいな」

 ボルトが腕を組み、考え込んでいた。

「ディマンドとウムコント社の繋がりを、調べてみます」

 セイヴが答えた。


 七十五日のカウントダウンは、すでに始まっていた。

 モニターの隅では、快晴に戻った予報が、何事もなかったかのように表示されている。

 嵐は去った。だが、次の雨雲がどこで生まれているのかは――誰にも、分からなかった。

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