プロローグ
シャツの襟元から、かすかな夜気が入り込んでくる。
それが素肌を撫でるたびに、私は自分がまだここにいるのだということを、ほんの少しだけ思い出す。
視界の端で、細い煙がゆっくりと流れていった。指の間に挟んだ煙草はもう三本目になる。火の先が小さく赤く呼吸するたび、夜の中に私だけの時間がまだ残されているような気がした。
部屋の中にはまだノアの気配が残っていた。少し甘い果実のような香りと、汗ばんだ肌の温度。彼が眠る前に私の名前を呼んだ低い声の余韻がまだ残っているけれど、それらはもう私に触れてこなかった。たださっきまでそこにあった出来事の痕跡として、静かに部屋の奥へ沈んでいるだけで。
眠れなかった。
それが今夜のすべてだった。
ノアと身体を重ねたあと、私はいつもより長くシャワーを浴びた。肌に残った温度を剥ぎ取るように髪に絡んだ息遣いを洗い流しながら、胸の奥で濁っているものを水の音に紛れさせた。
ノアは優しい人だ。私の沈黙を責めないし、答えを急がせることもしない。彼はいつだって知らないふりをしてくれる。私がふと遠くを見るたびに、その視線の先に誰がいるのかを知っているはずなのに。
薄いシャツが風をはらんだ。下着の上にそれ一枚を羽織っただけの姿で、私はアパートメントのテラスに立っていた。
ここは星都アステリアのミドル・セクターの外れ、旧第七区域の名残がまだ残っている場所だった。都市の中心から少し離れているせいで、行政塔の光も広告投影の濃度も、上層ほど強くはない。だから夜になると、ときどき本物の暗さが見える。
アステリアは、眠らない都市だ。
いや、眠ることを忘れた都市、と言ったほうが近いのかもしれない。
上空では浮遊交通 《L-FLO》の光帯がゆるやかに流れ、遠くの高層区画では天候制御ドームの内側に人工の星雨が降っていた。都市制御AI 《SEER》の声が、どこかの街路で交通規制と気象補正の案内を繰り返している。幻実補正 《HRF》によって、老朽化した壁もひび割れた道路も、見上げればすべて綺麗な光の膜で覆われていた。
けれど私は知っている。
この街は、見えているほど美しくない。
そして私たちが生きているこの世界も、たぶん、見えているほど確かではない。
煙を吸い込み、ゆっくり吐き出す。喉の奥に苦味が残り、胸のあたりがわずかに熱くなった。
私の頭から離れなかったのは、今朝、異常時空犯罪課の端末に流れてきた一本の報告だった。
重要指名対象、目撃情報あり。
場所は星都アステリア郊外、旧魔法文明の廃都 《ルナ・ヴェイル》。
対象名、ハルト・リーバック。
その名前を見た瞬間、私は思わず画面に釘付けになってしまった。
彼は七年前に私の前から消えた人であり——クロノイドだった。
クロノスフィアの影響によって、別時空の記憶や能力を宿した者たち。社会は彼らを変異存在と呼び、保護対象と危険対象のあいだに置き、必要に応じて監視し、排除する対象にある存在。私が所属する異常時空犯罪課 《SCOD》は、まさにそのための部署だった。
皮肉な話だと思う。
私は今、彼のような存在を追う側にいる。
そして彼は、私が追うべき名前としてまた私の前に現れた。
報告の精度は高くなかった。映像記録は荒く、時空ノイズも混じっていた。目撃者は匿名で、情報源も信用できるとは言い切れない。分析支援班のユリウスなら、鼻で笑って「セレナ、こんなの残響の誤認だよ」と言ったかもしれない。
それでも私はそのファイルを閉じられなかった。
画面に表示された名前が、消えなかった。
ハルト・リーバック。
その文字列はただのデータではなかった。私の胸の奥に沈めたまま、封印したつもりでいた記憶そのものだった。
彼のことは忘れたはずだった。
少なくとも、そういう顔をして生きてきた。
朝になれば公務服に袖を通し、拡張神経インターフェースを起動し、作戦実行班の捜査官として現場に立つ。幻実空間を解除し、違法な記憶結晶を押収し、クロノイドが関与した事件を追い、必要なら拘束する。私は担当の部署では、冷静で合理的で、感情を任務に持ち込まない人間として扱われている。
上層部からは個人行動が多いと警告を受けることもある。けれど現場では、それなりに信頼されている立場だった。
でも、そんなものは全部、外側に作った輪郭にすぎない。
本当は、私は七年前からずっと同じ場所に立っている。
ハルトが背を向けたあの夜から、少しも動けていないのだから。
煙草の灰が落ちた。小さな灰は風に崩れ、テラスの端で夜に紛れた。
空を見上げる。
アステリアの空には、いくつもの層がある。低空を走る交通光、高層区画の広告、気象制御用の光膜、さらにその向こうに軌道施設の微細な反射。そのすべてを越えた先に本物の星があるはずなのに、私たちはもう、それを見分けることができない。
数百年前、この星には魔法文明が栄えていたという。
今では誰も、魔法という言葉を本気では使わない。学術的には、重力場や磁気圏、未知素粒子、意識波形に干渉する古代観測技術の総称とされている。けれど私は、その説明を聞くたびにどこか嘘くさいと思ってしまう。
科学の言葉で言い換えたからといって、人が理解したことにはならない。
クロノスフィアもそうだ。
時間情報を分解し、記憶波形を別世界線へ転写する古代軌道装置。研究者たちはそう定義する。けれど、その定義で何が救われるのだろう。分岐した世界、重なり合う記憶、存在の輪郭を失った者たち、そして帰る場所をなくした人間たち。
それらをまとめて一つの用語に押し込めたところで、失われたものが戻るわけではない。
七年前のハルトも、そうだった。
彼の中には、別の世界の記憶があった。
最初はただの夢だと言っていた。見たことのない海、聞いたことのない言語、知らないはずの誰かの死。彼は笑いながら、変な夢を見るんだ、と私に話した。私はそれを思春期特有の不安か、記憶結晶の干渉事故だと思っていた。
けれど、違った。
彼の夢は、少しずつ現実を侵食していった。
知らないはずの道を迷わず歩き、触れたことのない機械を扱い、会ったことのない人間の名前を口にした。彼は自分の中に流れ込んでくる記憶に怯え、それでも私の前では平気な顔をしようとしていた。
私は、気づいていた。
気づいていたのに、何もできなかった。
あの事件が起こるまでは。
旧アステリア・アーカイブの地下で、彼は人を殺した。
少なくとも、公式記録にはそう残っている。
被害者は上級研究生で、クロノスフィア関連の違法実験に関与していた疑いがあった。けれど調査は途中で打ち切られ、記録は封鎖され、ハルトだけが加害者として名前を残した。彼の能力が暴走したのだと、誰もが言った。クロノイドは危険だと、誰もが言った。
私は、彼に逃げるなと言った。
一緒に証明しようと言った。
あなたは人殺しじゃないと、私だけは信じると言った。
でもハルトは、困ったように笑った。
「セレナには、未来がある」
あのときの声を、私はまだ覚えている。
優しくて、残酷な声だった。
未来なんて言葉で私を遠ざけて、自分だけ暗い場所へ行こうとする声だった。
私は彼の前で怒ったし、何度も泣いた。彼の腕を必死に掴んだ。けれど彼は私の手をゆっくりほどいて、夜の中へと消えていった。
それが最後だった。
私は煙草を唇に戻し、深く吸い込んだ。
肺の奥が苦しくなる。
ノアは、私がまだハルトを忘れていないことに気づいている。
気づいていて、それでも何も言わない。
今夜だってそうだった。私がシャワーから戻ったとき、彼はベッドの端に腰をかけて、端末に映る論文を眺めていた。情報心理学部の講師らしく、記憶倫理に関する資料を読んでいたのだと思う。
彼は私を見て、少しだけ微笑んだ。
「眠れそう?」
そう聞かれて、私は嘘をついた。
「たぶん」
ノアはそれ以上追及してはこなかった。ただ私の髪を撫でて、無理しなくていいよと言ってくれた。
その言葉が、やけに痛かった。
無理しなくていい。
けれど私は、無理をしなければ生きてこられなかった。
ハルトが消えたあと、私は彼を探すために治安組織へ入った。最初からそうだったわけではないと、自分では思っていた。社会を守るため。異常事案に巻き込まれる人を減らすため。クロノイドに対する偏見を、内側から少しでも正すため。
そういう理由はいくらでも並べられる。
けれど本当は、私は彼の痕跡に近づきたかっただけなのかもしれない。
彼がどこかで生きているなら、いつか私の前に現れる。そのとき私は彼を止めるのか、救うのか、許すのか、責めるのか。
答えが出ないまま、七年という月日が流れた。
遠くの上層区画で、光が瞬いた。
それはドローンの航行灯だったかもしれないし、軌道施設から落ちた通信反射だったかもしれない。けれど私は、その一瞬の光に目を奪われた。
ハルトが、そこにいる気がした。
そんなはずはない。
目撃情報のあったルナ・ヴェイルは、ここからずっと遠い。都市外縁の封鎖線を越えた先、旧魔法文明の遺構が沈む廃都だ。時空密度の異常が断続的に発生し、認可を受けた調査員でさえ長時間の滞在を禁じられている場所。
そこに彼がいるかもしれない。
その事実だけで、私の中の何かが静かに軋み始めていた。
私は、四本目の煙草に火をつけようとしてやめた。
指先が少し震えていた。
そういうところは、自分でも嫌になる。
訓練では震えを止める方法をいくつも教わった。呼吸、重心、視線、意識の分散。生体反応を制御すれば、恐怖も動揺も外側には出ない。私はそれが得意だった。現場で恐怖に呑まれたことはない。相手がクロノイドでも、違法義体兵でも、時空干渉区域でも、私は動ける。
なのに、名前一つでこれだ。
ハルト・リーバック。
たったそれだけで、私は二十四歳の捜査官ではなく、七年前の無力な少女に戻ってしまう。
テラスの手すりに背を預けると、冷たい金属の感触がシャツ越しに伝わってきた。下層から吹き上げる風は、金属と雨と、どこか焦げた魔導回路の匂いを含んでいる。幻実補正を切れば、この街はいつもこういう匂いがする。
私は、それが嫌いではなかった。
綺麗に加工された景色より、錆びた匂いのほうが信じられる。
この世界は、嘘をついている。
私はずっと、そう思ってきた。
クロノスフィアが目覚めてから、世界は分岐した。星墜ちの日を境に、ヴェルディアは本来の歴史から逸れた。原初観測局と呼ばれる存在が、私たちの世界をどこかから記録している。そんな話を、都市の上層は陰謀論として処理し、学術機関は未確定仮説として棚に上げ、治安組織は必要な部分だけを機密文書に閉じ込めている。
けれど現場に出れば、嫌でもわかる。
この世界には、継ぎ目がある。
同じ人間が二つの記憶を持っていたり、存在しないはずの建物が一晩だけ現れたり、死んだはずの誰かの声が通信層に混じったりする。私たちはそれらを異常事案と呼び、番号を振り、報告書にまとめて封鎖する。
でも、封鎖したからといって消えるわけではない。
見なかったことにした真実は、いつか必ず別の形で戻ってくる。
たぶん今夜が、その始まりなのだと思った。
部屋の奥で、ノアが寝返りを打つ気配がした。
私は振り返らなかった。
振り返れば、現実に戻ってしまう気がした。彼の寝息、脱ぎ捨てた服、まだ乾ききらない髪、ベッドの皺。それらは確かに私の日常で、私が守るべき現在だった。
でも私の心はもう、郊外の廃都へ向かっていた。
ルナ・ヴェイル。
七年前、ハルトと一緒に訪れた場所。
当時はまだ完全な封鎖区ではなく、旧文明の観光遺構として一部だけ開放されていた。崩れた白い塔、青い鉱石の残る礼拝堂、時間が止まったような広場。ハルトはそこで、古い碑文を見上げながら、ここは懐かしい、と言った。
私は笑って、来たことがあるの、と聞いた。
彼は少し考えてから、たぶん夢の中で、と答えた。
あのとき私は、それを冗談だと思った。
でも今ならわかる。
彼はあの頃からもう、別の世界を見ていたのだ。
私は手すりから離れ、最後に残った煙を吐き出した。
白い煙は夜気に溶け、都市の光に薄く照らされながら消えていく。まるで記憶みたいだと思った。形があるように見えて、触れようとすると崩れてしまう。それでも匂いだけは、いつまでも残る。
ハルトが本当に生きているなら。
彼が本当に、この世界のどこかにいるなら。
私は彼に会わなければならない。
捜査官としてではなく、過去に取り残された一人の人間として。
もちろん、そんなことは許されない。重要指名対象に私情で接触すれば、懲戒では済まない。隊長のイリス・カムランは、私の過去に薄々気づいている。ユリウスも、ルナも、ガイも、私の様子がおかしいことに気づくだろう。
それでも私は、もう止まれない気がしていた。
七年前に止まった時間が、いま静かに動き出している。
その音が、聞こえる。
私はテラスのドアに手をかけた。室内の暗がりに、ノアの寝顔がぼんやりと浮かんでいる。穏やかで、何も疑っていないように見える顔。けれど本当は、彼はきっと気づいている。私が今夜、どこか遠くへ行ってしまったことに。
胸が痛んだ。
ごめん、と心の中で呟いた。
声にはしなかった。
声にしてしまえば、何かが壊れる気がしたから。
私は静かに部屋へ戻り、テーブルの上に置いた端末を手に取った。ロックを解除すると、閉じたはずの報告ファイルがまだ履歴に残っていた。
重要指名対象、ハルト・リーバック。
目撃地点、廃都 《ルナ・ヴェイル》。
時刻、二十三時十七分。
映像記録の末尾には、ノイズに潰れかけた人影が映っている。顔は判別できない。けれどその立ち姿を見た瞬間、私の身体は答えを知ってしまった。
彼だ。
理屈ではなく、記憶がそう言った。
私は端末を閉じ、しばらく暗い画面を見つめた。
そこには、私の顔が映っていた。
任務に忠実な捜査官の顔ではなかった。恋人の隣で眠れない女の顔でもなかった。
それは七年前の夜に置き去りにされたまま、まだ答えを探している私の顔だった。
私はゆっくり息を吸った。
夜はまだ深い。
都市は眠らない。
そして私も、もう眠れない。
眠れないのは、記憶がまだそこにある証拠だった。
記憶があるということは、失ったものが完全には消えていないということだった。
そして消えていないものは、いつか必ず私の前に戻ってくる。
たとえそれが、私の今を壊すものだとしても。
たとえそれが、この世界そのものの嘘を暴くものだとしても。
私は端末を胸に抱き、暗い窓の向こうに広がる星都アステリアを見た。
光に満ちた、美しい偽物の都市。
そのどこかで、ハルトがまだ息をしている。
そう思った瞬間、私の中で何かが決まった。
明日、私はルナ・ヴェイルへ行く。
誰にも告げずに。
この夜が終われば、もう戻れない。
けれどたぶん、私はずっと前から、戻る場所なんて持っていなかったのだ。
だから私は、目を閉じた。
眠るためではなく、七年前の彼の声をもう一度だけ聞くために。




