第5話「あれは、会社のもの」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
俺の絵は、俺のものだと、思っていた。
朝、いちばんに、机を見た。
タブレットが、ない。
昨日の夜、確かにここに置いた。
帰り際、画面を二回、拭いて。
いつもの場所に、いつものとおり、置いた。
充電ケーブルだけが、机の縁から、垂れている。
差し込み口が、宙を向いて、空っぽだ。
その口が、まるで、なにかを吐き出したあとみたいに、見えた。
寝ぼけた頭が、まだ言い訳をする。
鞄に入れたんだったか。
いや、家に置いてきたか。
違う。
ここに、置いた。
昨日、自分のためだけに、一枚、描いた。
誰にも渡さない、と決めた、あの一枚が、入っている。
仕事の合間に、こっそり線を引いた、それだけの絵だ。
売り物にもならない。
誰に見せるわけでもない。
ただ、描いている間だけ、息が、できた。
俺は、机の下を覗いた。
膝をついて、配線の束を、かき分けた。
隣の島の、棚を漁った。
共用の充電スペースを、二度、見た。
ない。
心臓が、嫌な打ち方を、始める。
手が、すこし、冷たくなってくる。
指の先から、血が引いていくのが、自分でも、わかった。
◆◇
「ああ、それ」
鏑木さんが、自分の席から、振り向いた。
革張りの椅子が、ぎ、と鳴る。
スマホを片手に、画面を、上にスクロールしながら。
親指だけが、忙しく動いて。
目は、こっちを、見ていない。
「会社の機材で描いたものは、会社のものだろ」
笑っていた。
なんでもないことを、言うみたいに。
むしろ、こっちが、なにを慌てているのか、わからない、という顔で。
「あの……俺の、私物の、データが」
「私物?」
鏑木さんが、ようやく、顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、すっと、細くなる。
「会社のタブレットに、私物を入れるなって、何度も言ったよな」
言われて、いない。
一度も。
でも、その言葉は、喉の手前で、止まった。
何度も言われた気が、してくる。
この人と話していると、いつも、そうだ。
言われていないことが、言われたことに、すり替わっていく。
「中、ちょっと、容量がやばかったから。整理しといたよ。お前のために」
「整理」
「いらないデータ、消しといた。仕事に関係ないやつ。気にすんな」
気にすんな、と、もう一度。
軽い。
羽根みたいに、軽い声だった。
消した。
あの一枚を。
昨日、生まれて初めて、誰のためでもなく、自分のために描いた、あの一枚を。
容量が、もったいないから。
頭の中で、なにかが、ぷつ、と切れる音がした。
長いあいだ、ずっと張りつめていた、細い糸が。
◆◇
「あれは——」
声が、出た。
自分でも、驚くくらい、大きな声が。
腹の底から、ひとりでに、突き上がってきた。
このスタジオで、俺が、こんな声を出したのは、初めてだった。
「あれは、俺の——!」
その先が、続かない。
言葉が、喉で、つかえて。
俺の、なんだ。
作品か。
時間か。
たった一晩の、ささやかな、息継ぎか。
言葉に、しようとすればするほど、それは、指の間から、こぼれていく。
怒っているのに、なにに怒っているのか、うまく、掴めない。
言葉を、探している、その一瞬だった。
鏑木さんの、顔が、変わった。
◆◇
眉が、下がった。
口の端が、震えた。
そして——目尻に、ひかるものが、滲んだ。
嘘だろ、と思った。
たった今まで、笑っていた、その目に。
「……お前に、そんなこと言われるとはな」
声が、湿っていた。
たった一言で、声色が、まるごと、入れ替わっていた。
「家族だと思ってたのに」
ゆっくりと、首を振る。
深く、傷ついた人間の、しぐさで。
「悲しいよ」
その一秒で、空気が、ひっくり返った。
さっきまで、奪ったのは、向こうだ。
消したのは、向こうだ。
なのに、いま、この部屋で、傷ついた顔をしているのは、鏑木さんのほうだった。
周りの机から、ちらり、ちらり、と視線が、集まる。
キーボードの音が、止んでいた。
その視線は、鏑木さんでは、なく——俺に、向いていた。
声を、荒げた、ほうに。
目上の人を、泣かせた、ほうに。
◆◇
「……すみま」
言いかけて、止まった。
謝ろうとした。
形見みたいな絵を、消されたほうが。
——いつから俺は、奪われた側が、頭を下げる人間になったんだ。
喉が、固まった。
「すみません」の、続きが、出てこない。
出してはいけない、と、体のどこか、まだ生きている部分が、止めていた。
ここで謝ったら、終わる。
なにかが、決定的に、終わる。
理屈ではなく、そう、わかった。
でも、俺は、それ以上、なにも、言えなかった。
声が、出ない。
喉の奥が、ふさがって、空気だけが、ひゅう、と鳴る。
手が、震える。
握っても、握っても、指先が、言うことを聞かない。
たぶん、いま、俺の顔は、紙みたいに、白い。
血の気が、足の裏まで、落ちていく。
膝の裏が、ふるえて、立っているのも、やっとだった。
鏑木さんは、もう、スマホに目を戻していた。
涙は、どこにも、なかった。
最初から、なかったみたいに。
その横顔を見て、わかってしまった。
あの涙は、蛇口だ。
いつでも、ひねって、出せる。
俺を黙らせるための、ただの、道具だった。
◆◇
気づいたら、外にいた。
どうやってビルを出たのか、覚えていない。
エレベーターを使ったのか、階段だったのかも。
誰かに、声をかけられた気もするし、誰も、いなかった気もする。
雨が、降っていた。
傘は、ない。
上着の肩が、すぐに、重くなる。
冷たさが、布越しに、肌まで、届いてくる。
歩いて、歩いて、電車に乗ったのかどうかも、曖昧で。
濡れた靴が、一歩ごとに、ぐ、ぐ、と鳴った。
顔を上げたら、見たことのある、駅前だった。
神宝町。
なぜ、ここなのか、わからなかった。
来ようと、思った覚えもない。
足が、勝手に、ここまで運んだ。
雨の中で、立ち尽くす。
行き交う傘が、俺を避けて、流れていく。
ポケットに、手を入れた。
硬い紙が、指に、触れた。
雨で、ふやけかけている。
白い、名刺。
ずっと、捨てられずにいた、あれだ。
「慈恩 気づかせ屋」。
電話番号だけ。
住所は、ない。
俺は、震える指で、番号を、押した。
画面が、濡れて、何度も、押し間違えた。
生まれて初めて、自分から、知らない誰かに、電話をかけた。
◆◇
三回、鳴って、四回目で、繋がった。
間延びした、声が、出た。
「あー、はい、はい」
眠そうな、それでいて、どこか、笑っているような声。
俺は、なにも、言えなかった。
名乗ることも、用件も、雨の音に、溶けてしまって。
口を開いても、震えた息が、出ていくだけで。
でも、向こうは、急かさなかった。
なにも、訊かなかった。
しばらく、沈黙があって。
「……今夜、九時」
ゆっくりと、言った。
「神宝町の、駅前。珈琲 鈴蘭で」
住所は、言わなかった。
地図も、教えてくれなかった。
それだけ言って、電話は、切れた。
まるで、俺が、どこにいるのか、最初から、知っていたみたいだった。
◆◇
雨は、まだ、降っていた。
スマホを、耳から、離す。
画面の、通話終了の文字が、雨粒で、滲んでいく。
ふいに、わかった。
俺は今、生まれて初めて、自分のために、誰かを呼んだ。
仕事のためでも、鏑木さんのためでも、ない。
誰かの機嫌のためでも、ない。
俺の、ために。
——その事実に、膝が、笑った。
力が、抜けた。
立っていられなくて、俺は、濡れた手すりに、つかまった。
冷たい鉄が、てのひらに、食い込む。
雨が、頬を、伝っていく。
それが雨なのか、そうでないのか、もう、わからなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




