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やりがいの、燃えカス  作者: K3/KASANE
やりがいの、燃えカス

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9/17

第5話「あれは、会社のもの」

時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


 俺の絵は、俺のものだと、思っていた。


 朝、いちばんに、机を見た。


 タブレットが、ない。


 昨日の夜、確かにここに置いた。

 帰り際、画面を二回、拭いて。

 いつもの場所に、いつものとおり、置いた。


 充電ケーブルだけが、机の縁から、垂れている。

 差し込み口が、宙を向いて、空っぽだ。

 その口が、まるで、なにかを吐き出したあとみたいに、見えた。


 寝ぼけた頭が、まだ言い訳をする。

 鞄に入れたんだったか。

 いや、家に置いてきたか。


 違う。

 ここに、置いた。


 昨日、自分のためだけに、一枚、描いた。

 誰にも渡さない、と決めた、あの一枚が、入っている。


 仕事の合間に、こっそり線を引いた、それだけの絵だ。

 売り物にもならない。

 誰に見せるわけでもない。

 ただ、描いている間だけ、息が、できた。


 俺は、机の下を覗いた。

 膝をついて、配線の束を、かき分けた。

 隣の島の、棚を漁った。

 共用の充電スペースを、二度、見た。


 ない。


 心臓が、嫌な打ち方を、始める。

 手が、すこし、冷たくなってくる。

 指の先から、血が引いていくのが、自分でも、わかった。


  ◆◇


「ああ、それ」


 鏑木さんが、自分の席から、振り向いた。

 革張りの椅子が、ぎ、と鳴る。

 スマホを片手に、画面を、上にスクロールしながら。

 親指だけが、忙しく動いて。

 目は、こっちを、見ていない。


「会社の機材で描いたものは、会社のものだろ」


 笑っていた。

 なんでもないことを、言うみたいに。

 むしろ、こっちが、なにを慌てているのか、わからない、という顔で。


「あの……俺の、私物の、データが」


「私物?」


 鏑木さんが、ようやく、顔を上げた。

 眼鏡の奥の目が、すっと、細くなる。


「会社のタブレットに、私物を入れるなって、何度も言ったよな」


 言われて、いない。

 一度も。


 でも、その言葉は、喉の手前で、止まった。

 何度も言われた気が、してくる。

 この人と話していると、いつも、そうだ。

 言われていないことが、言われたことに、すり替わっていく。


「中、ちょっと、容量がやばかったから。整理しといたよ。お前のために」


「整理」


「いらないデータ、消しといた。仕事に関係ないやつ。気にすんな」


 気にすんな、と、もう一度。

 軽い。

 羽根みたいに、軽い声だった。


 消した。


 あの一枚を。


 昨日、生まれて初めて、誰のためでもなく、自分のために描いた、あの一枚を。

 容量が、もったいないから。


 頭の中で、なにかが、ぷつ、と切れる音がした。

 長いあいだ、ずっと張りつめていた、細い糸が。


  ◆◇


「あれは——」


 声が、出た。


 自分でも、驚くくらい、大きな声が。

 腹の底から、ひとりでに、突き上がってきた。

 このスタジオで、俺が、こんな声を出したのは、初めてだった。


「あれは、俺の——!」


 その先が、続かない。

 言葉が、喉で、つかえて。


 俺の、なんだ。

 作品か。

 時間か。

 たった一晩の、ささやかな、息継ぎか。


 言葉に、しようとすればするほど、それは、指の間から、こぼれていく。

 怒っているのに、なにに怒っているのか、うまく、掴めない。


 言葉を、探している、その一瞬だった。


 鏑木さんの、顔が、変わった。


  ◆◇


 眉が、下がった。

 口の端が、震えた。


 そして——目尻に、ひかるものが、滲んだ。


 嘘だろ、と思った。

 たった今まで、笑っていた、その目に。


「……お前に、そんなこと言われるとはな」


 声が、湿っていた。

 たった一言で、声色が、まるごと、入れ替わっていた。


「家族だと思ってたのに」


 ゆっくりと、首を振る。

 深く、傷ついた人間の、しぐさで。


「悲しいよ」


 その一秒で、空気が、ひっくり返った。


 さっきまで、奪ったのは、向こうだ。

 消したのは、向こうだ。


 なのに、いま、この部屋で、傷ついた顔をしているのは、鏑木さんのほうだった。


 周りの机から、ちらり、ちらり、と視線が、集まる。

 キーボードの音が、止んでいた。

 その視線は、鏑木さんでは、なく——俺に、向いていた。


 声を、荒げた、ほうに。

 目上の人を、泣かせた、ほうに。


  ◆◇


「……すみま」


 言いかけて、止まった。


 謝ろうとした。


 形見みたいな絵を、消されたほうが。


 ——いつから俺は、奪われた側が、頭を下げる人間になったんだ。


 喉が、固まった。


 「すみません」の、続きが、出てこない。

 出してはいけない、と、体のどこか、まだ生きている部分が、止めていた。

 ここで謝ったら、終わる。

 なにかが、決定的に、終わる。

 理屈ではなく、そう、わかった。


 でも、俺は、それ以上、なにも、言えなかった。


 声が、出ない。

 喉の奥が、ふさがって、空気だけが、ひゅう、と鳴る。

 手が、震える。

 握っても、握っても、指先が、言うことを聞かない。

 たぶん、いま、俺の顔は、紙みたいに、白い。

 血の気が、足の裏まで、落ちていく。

 膝の裏が、ふるえて、立っているのも、やっとだった。


 鏑木さんは、もう、スマホに目を戻していた。

 涙は、どこにも、なかった。

 最初から、なかったみたいに。


 その横顔を見て、わかってしまった。

 あの涙は、蛇口だ。

 いつでも、ひねって、出せる。

 俺を黙らせるための、ただの、道具だった。


  ◆◇


 気づいたら、外にいた。


 どうやってビルを出たのか、覚えていない。

 エレベーターを使ったのか、階段だったのかも。

 誰かに、声をかけられた気もするし、誰も、いなかった気もする。


 雨が、降っていた。


 傘は、ない。

 上着の肩が、すぐに、重くなる。

 冷たさが、布越しに、肌まで、届いてくる。


 歩いて、歩いて、電車に乗ったのかどうかも、曖昧で。

 濡れた靴が、一歩ごとに、ぐ、ぐ、と鳴った。


 顔を上げたら、見たことのある、駅前だった。


 神宝町。


 なぜ、ここなのか、わからなかった。

 来ようと、思った覚えもない。

 足が、勝手に、ここまで運んだ。


 雨の中で、立ち尽くす。

 行き交う傘が、俺を避けて、流れていく。


 ポケットに、手を入れた。


 硬い紙が、指に、触れた。

 雨で、ふやけかけている。


 白い、名刺。

 ずっと、捨てられずにいた、あれだ。


「慈恩 気づかせ屋」。


 電話番号だけ。

 住所は、ない。


 俺は、震える指で、番号を、押した。

 画面が、濡れて、何度も、押し間違えた。


 生まれて初めて、自分から、知らない誰かに、電話をかけた。


  ◆◇


 三回、鳴って、四回目で、繋がった。


 間延びした、声が、出た。


「あー、はい、はい」


 眠そうな、それでいて、どこか、笑っているような声。


 俺は、なにも、言えなかった。

 名乗ることも、用件も、雨の音に、溶けてしまって。

 口を開いても、震えた息が、出ていくだけで。


 でも、向こうは、急かさなかった。

 なにも、訊かなかった。


 しばらく、沈黙があって。


「……今夜、九時」


 ゆっくりと、言った。


「神宝町の、駅前。珈琲 鈴蘭で」


 住所は、言わなかった。

 地図も、教えてくれなかった。


 それだけ言って、電話は、切れた。


 まるで、俺が、どこにいるのか、最初から、知っていたみたいだった。


  ◆◇


 雨は、まだ、降っていた。


 スマホを、耳から、離す。

 画面の、通話終了の文字が、雨粒で、滲んでいく。


 ふいに、わかった。


 俺は今、生まれて初めて、自分のために、誰かを呼んだ。


 仕事のためでも、鏑木さんのためでも、ない。

 誰かの機嫌のためでも、ない。

 俺の、ために。


 ——その事実に、膝が、笑った。


 力が、抜けた。

 立っていられなくて、俺は、濡れた手すりに、つかまった。

 冷たい鉄が、てのひらに、食い込む。


 雨が、頬を、伝っていく。

 それが雨なのか、そうでないのか、もう、わからなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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