第6話「鈴蘭の、線香」
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線香が一本、まっすぐ立っていた。揺れているのは、俺のほうだった。
夜の九時。神宝町の駅前。
「珈琲 鈴蘭」。
住所は、聞かなかった。
名刺の電話に、初めて、自分からかけた。
二十八年、生きてきて、初めてだった。
助けを、自分から、求めたのは。
誰かに迷惑をかけるくらいなら、一人で抱えて潰れるほうが、まだ、ましだと思って生きてきた。
弱音を吐くやつは、好きでやってないやつだ、と。
どこかで、そう、思っていた。
その俺が、指が震えるのを、もう片方の手で押さえながら、十一桁を、押した。
呼び出し音が、三回。
切ろうとした、四回目で、繋がった。
名前を名乗る前に、向こうが、言った。
今夜九時、珈琲 鈴蘭で、と。
それだけ、だった。
扉を押すと、雨の匂いが、後ろで切れた。
古い柱時計が、ことり、ことり、と鳴っている。
ほかに、音はない。
深夜の作業部屋に似た静けさだ。
あの部屋では、いつも、息が、詰まった。
なのに、ここは、なぜか、息が、できた。
奥の、窓際の席。
男が、ひとり、座っていた。
糸目。
痩せた身体。
白い顔。
血の気の薄い指が、煙草を、くるり、くるりと、回している。
歳は、わからない。
五十にも、四十にも、見える。
テーブルの真ん中に、白い小さな皿。
その上に、線香が、一本。
男は、俺が向かいに腰を下ろすのを待ってから、その線香に、マッチで、火を点けた。
◆◇
「気づかせ屋、ですよー」
男は、それだけ言った。
名刺を、確かめもしない。
俺の顔も、ろくに、見ない。
「……高瀬です。アニメの、動画を、描いてます」
「あー、はい、はい」
うなずきも、しない。
感心も、しない。
白檀の、甘い匂いが、細く、立ちのぼった。
「あの、それ」
「ぼくの癖です。話を聞く前に、立てるんですよ」
なぜ、とは、聞かなかった。
聞いている場合じゃ、なかった。
胸の中で、一週間、煮詰まっていたものが、出口を、探していた。
男は、コーヒーを、一口、飲んだ。
そして、俺の右手を、見た。
ペンだこ。
爪の脇の、ささくれ。
夜なべで荒れた、絵描きの手だ。
「いい手ですねえ」
男が、言った。
「……は」
「ずいぶん、描いてきた手だ」
褒められた、はずなのに。
なぜか、その手を、テーブルの下に、隠したくなった。
◆◇
堰が、切れた。
しゃべっていた。
鏑木のこと。
俺が、夜中に一人で描いた絵を、データごと、消したこと。
「会社のものだろ」と、笑ったこと。
俺が抗議したら、あいつが、目を、潤ませたこと。
声を震わせて、悲しいよ、家族だと思ってたのに、と言ったこと。
まわりが、あいつを、心配したこと。
いつのまにか、俺が、後輩を追い詰めた先輩に、なっていたこと。
残業のこと。
タイムカードを切ってから、机に戻る、毎晩のこと。
「やりがい搾取って言葉、嫌いなんだよね」と、あいつが、笑いながら言ったこと。
消えていった、同僚のこと。
ある日、席が、片付いていたこと。
名前すら、誰も、口にしないこと。
まるで、最初から、いなかったみたいに。
俺は、まくし立てた。
唾が、飛んだ。
声が、裏返った。
みっともない、と頭のどこかで思いながら、止まらなかった。
男は、うなずきも、しない。
目も、見開かない。
ただ、聞いていた。
「ええ」
「ええ」
「ええ」
相槌だけ、打つ。
慰めも、説教も、ない。
可哀想に、とも、言わない。
線香の煙が、まっすぐ、立っている。
風のない店の、空気を、細く割って。
俺は、いつのまにか、ぜんぶ、吐き出していた。
◆◇
最後に、俺は、言い切った。
「あいつが悪いんです。全部、あいつが」
言って、すこし、楽になった。
ずっと、そう言いたかった。
誰かに、そうだ、お前は悪くない、と、言ってほしかった。
それを聞きに、ここまで、来たのかもしれない。
男は、煙草を、灰皿の縁に、置いた。
「あー、はい、はい」
糸目のまま、男は、初めて、まっすぐ、俺のほうを、見た。
糸のように細い目の、奥が、見えた気がして、背中が、すこし、冷えた。
「……で、高瀬さんは、いつから、好きで、やってるんです?」
俺は、顔を、上げた。
「は?」
「残業ですよー。タダの。いつから、好きで、やってるんです」
俺は、すぐには、答えられなかった。
「いつから、って」
「最初は、誰かに、言わされたんですか。それとも」
男は、煙草を、また、指で、回しはじめた。
「自分で、言いはじめたんですか」
◆◇
好きで。
その言葉が、喉の奥に、引っかかって、降りていかない。
好きで、やってるんで。
俺の、口癖だった。
誰に何を言われても、そう答えてきた。
給料が安くても。
終電を、逃しても。
絵を、消されても。
好きで、やってるんで。
笑って、そう言えば、誰も、それ以上は、踏み込んでこない。
俺自身も、それ以上、考えなくて、済む。
鏑木の言葉じゃ、ない。
あいつに、言わされた言葉でも、ない。
俺が、俺の口で、何百回も、言ってきた言葉だ。
盾だった。
搾り取られていることを、見ないための、盾。
好きでやってるんだから、しょうがない。
好きでやってるんだから、文句は言えない。
好きでやってるんだから、燃え尽きても——本望だ。
その盾の裏に、俺は、自分を、隠してきた。
搾り取る側にとって、これほど、都合のいい言葉は、ない。
好きでやってる人間からは、いくら奪っても、罪に、ならないから。
鏑木は、それを、知っていた。
俺が、自分で自分を、安く値付けしていることを。
だから、絵を消しても、笑っていられたんだ。
もともと、俺が、タダで差し出していたものだから。
あいつが俺を燃やしたんじゃない。俺が、好きだからって、自分で薪をくべてたんだ。
怒りが、行き場を、失った。
鏑木に向けていた指が、ゆっくり、自分のほうへ、戻ってくる。
俺の手首には、誰がはめたのでもない、鎖が、巻かれていた。
鏑木が締めた鎖じゃ、ない。
俺が、毎晩、好きだからと言いながら、自分で、締め直してきた鎖だ。
◆◇
男は、答えを、言わなかった。
そうだ、とも。
違う、とも。
ただ、糸目のまま、線香の煙を、見ていた。
俺が、自分で言葉にするのを、待っているみたいだった。
どれくらい、黙っていただろう。
柱時計が、ことり、と、鳴った。
やがて、男は、伝票を、指先で、つまんだ。
俺の分まで、握って、立ち上がった。
「燃え尽きるのは、本気の証拠じゃ、ないですよー」
それだけ、置いた。
「本気の人は、ちゃんと、燃料を、惜しみます。長く、燃やすために」
俺は、何も、返せなかった。
立ちのぼる、一本の線香。
その向こうで、糸目が、ほんの少し、細くなった。
答えは、くれなかった。
くれたのは、問いと、煙の匂い、だけだった。
俺は、ずっと、答えをもらいに来たつもりだった。
お前は悪くない、と。
でも、この人は、ひとつも、慰めてくれなかった。
ただ、俺が、ずっと目を逸らしてきた一点に、線香の先を、向けただけだ。
◆◇
店を出ると、雨が、上がっていた。
濡れたアスファルトが、街灯を、にじませている。
空気が、洗われて、すこし、冷たい。
肺の奥まで、吸い込んだ。
ポケットの中で、スマホが、震えた。
鏑木だった。
「明日、いつもの時間な(笑)」
いつもなら、俺も、笑って返した。
了解です、好きでやってるんで、と。
その「(笑)」を、初めて、笑えなかった。
指が、返信の上で、止まる。
線香の匂いが、まだ、指先に、残っていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




