第7話「降板届」
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ぜひお楽しみに!
退職届の用紙は、コンビニには売っていない。だから俺は、自分で線を引いた。
白いコピー用紙に、定規を当てて、まっすぐな一本を。
その下に、短い文章を書いた。
お世話になりました、という嘘も、これまでありがとうございました、という嘘も、書かなかった。
ただ、辞めます、と。
手は、震えていた。
ペン先が紙の上で小さく跳ねて、線の終わりが、わずかに掠れた。
六年だか、七年だか。数えるのをやめてしまったその年月の終わりを、たった三行で書いた。
感情で辞めるのではない。
もう、感情では動けないところまで、俺は燃えていた。
だから、手続きで降りる。
涙が出るわけでもなく、怒りで紙を破るわけでもなく。ただ淡々と、縁を切るための一枚を、鞄に入れた。
◆◇
スタジオのドアを開けると、鏑木は、いつもの椅子で煙草を消した。
部屋には、相変わらず、徹夜のにおいが染みついていた。冷めたコンビニ弁当と、インクと、誰かの汗のにおい。
「おう、高瀬。昨日のカット、見たぞ」
俺が口を開く前に、向こうが先に動いた。
「お前の線は、本物だ。最近の若いやつにはない、魂がある。やっぱりお前なんだよ、このスタジオの背骨は」
褒め言葉が、舌の上で甘く溶ける。
半年前の俺なら、その一言で、また徹夜を三日くらいは平気でやれただろう。
でも、もう、溶けなかった。
俺は、鞄から白い紙を出して、机に置いた。
鏑木の目が、線をなぞった。三行を、読んだ。
甘さが、すっと引いた。
「……正気か。ここを出たら、業界でやっていけないぞ」
声が、低くなる。
「お前の名前は、俺が作ったんだ。外でどう言われてるか、お前は知らないだろう。あの鏑木のところを飛び出したやつ、ってな。どこも雇わない」
脅し。
俺は、黙っていた。
「それにな」
鏑木は、椅子の背に体を預けた。声に、湿り気が混じった。
「俺だって、楽じゃないんだ。家族がいる。スタッフの生活を、背負ってるんだ。お前が抜けたら、回らない。……お前は、この家族を、捨てるのか」
家族。
その言葉を、俺は、しばらく見つめた。
六年だか七年だか、確かに俺は、ここを家族だと思おうとしていた。好きでやってるんだから、家族なんだから、と。
その二つの言葉で、俺は自分に手錠をかけていた。好きという手錠と、家族という手錠。どちらも、外からはきれいに見える。
「総監督」
俺は、ようやく口を開いた。
声が、思ったより、静かだった。
「俺、好きで、やってたわけじゃ、なかったみたいです」
言ってしまうと、喉の奥が、少し痛んだ。
好きだった、はずなのに。絵を描くのが、動くものを作るのが、たまらなく好きだった、はずなのに。
その「好き」を、いつから盾に使うようになったのか、もう、わからなかった。
好きだから耐えられる。好きだから断れない。好きだから、逃げてはいけない。その理屈で、俺は、自分を何年も殴り続けてきた。
鏑木は、数秒、俺を見ていた。
それから、笑った。
褒め言葉の甘さも、脅しの湿り気も、被害者面の演技も、その笑いの中で、ぜんぶ剥がれ落ちた。
「……あっそ」
鏑木は、机の紙を、指で押し返した。
「いいぜ。辞めろよ。代わりなんて、いくらでもいるんだ。お前みたいに、好きで好きでたまらないっつう顔したやつが、毎年、専門学校から湧いて出てくる。安く使えてな」
それが、本性だった。
弁明も、動機も、改心も、なかった。
ただ、燃やす薪が一本減っただけ。鏑木にとって、俺はずっと、そういう一本だった。火が消えれば、また次をくべればいい。それだけのこと。
俺は、反論しなかった。
反論する言葉は、もう一つも、残っていなかった。
紙を、もう一度、机の真ん中に戻した。
そして、頭を下げずに、スタジオを出た。
ドアが閉まる音は、思っていたより、軽かった。
◆◇
外に出ても、空は晴れてなどいなかった。
ハッピーエンドの曇り空、みたいなものは、どこにもなかった。
ただの、平日の昼の、灰色だった。
俺が積み上げてきた個人作品のデータは、戻ってこない。
契約だ、スタジオの資産だ、と言われて、取り上げられたまま。あの夜なべして描いた、誰にも頼まれなかった俺の絵は、もう、手元にない。
学生の頃から少しずつ描き溜めた、何百枚かの、俺だけの絵。それを取り返す気力も、もう、残っていなかった。辞めるというのは、そういうものまで、置いていくことだった。
俺は、夢から逃げたんじゃない。夢を、人質に取られてただけだ。
しばらく、絵は描けなかった。
ペンを握ると、手が、震えた。
燃え尽きるのは本気の証拠じゃない、と、あの店で言われた。
なら、これは何の証拠だろう。
答えはわからないまま、俺は、近所のスーパーで品出しのバイトを始めた。段ボールを開けて、缶を並べて、賞味期限を前に出す。それだけの仕事を、それだけだ、と思える日々が、奇妙に、楽だった。
手の震えは、まだ、止まらない。
壊れたものは、辞めたくらいでは、すぐには直らないらしい。
◆◇
数週間が、過ぎた。
ある朝、俺は、台所に立っていた。
いつもなら、味のしない栄養ドリンクを、流し込むように飲む。栄養を摂るためでなく、燃え続けるための燃料として。喉を通る間も、味なんて、感じたことがなかった。
でも、その朝は、なんとなく、やかんに火をかけた。
マグカップに、インスタントの粉を入れて、湯を注いだ。
立ちのぼる湯気を、ただ、見ていた。誰のためでもなく、納期のためでもなく。
ひとくち、飲んだ。
……苦かった。
そして、ほんの少しだけ、コーヒーの味が、した。
味が、する。
それが、どれだけ久しぶりのことか、俺は、その一口で思い知った。
完治では、ない。
手は、まだ震えるし、自分の絵は、まだ一枚も描けていない。
でも、舌の上に、苦味と、その奥の何かが、たしかに、あった。
◆◇
その足で、俺は、神宝町へ向かった。
路地裏の、あの古い画室。
戸を開けると、油絵具のにおいが、ふわりと顔にかかった。老画家は、いつものように、自分の絵に向かっていた。
俺の顔を見て、絵筆を止めずに、前と同じことを訊いた。
「で。自分の絵は、いつ描くの」
前は、何も答えられなかった問い。
俺は、少しだけ、間を置いて、言った。
「……いつか、また」
老画家は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
でも、その「ふん」は、悪いものではなかった気がした。
画室の窓から、神宝町の方角が見えた。
その空に、一筋、煙草の煙が、細く、まっすぐ、立ちのぼっていた。
風があるのに、揺れずに、まっすぐ。
誰のものかは、訊かなかった。
あの夜の礼も、まだ、言えていない。
でも、たぶん、あの人は、礼なんて受け取らない。返事をしないことが、たぶん、あの人の受け取り方なのだ。
俺は、煙のほうへ、ほんの少し、頭を下げた。
◆◇
バイト先に、後輩が入ってきた。
絵の専門学校に通っている、と言っていた。
その子は、目の下に、濃い隈をつくっていた。昼のバイトと、夜の制作で、眠れていないのだ、と。
段ボールを抱える腕は細くて、でも、缶を並べる手つきだけは、妙に丁寧だった。きっと、絵を描く手なのだろう。
俺が、無理するなよ、と言いかけると、その子は、笑った。
「でも、好きでやってるんで」
その笑い方を、俺は、知っていた。
鏡の中で、何百回も、見た笑い方だった。
俺は、しばらく、その子の隈を見ていた。
それから、ポケットの中の、あの白い名刺を、そっと、その手に握らせた。
肩書きも、模様も、何もない、ただ白いだけの一枚。
「もし、よかったら」
その子は、不思議そうに、それを見ていた。
いつか、本当にどうにもならなくなった夜、その子がこの白い紙を思い出すかどうか、俺には、わからない。
救えるとも、限らない。
ただ、渡すことだけは、できた。
名刺は、そうやって、街の隙間を、人から人へ、渡っていく。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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