第4話「本気の、証拠」
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苦しいのは、本気だからだ。そう思えば、苦しさにも、意味があった。
モニターの光で、目の奥がじんじんする。
時計は、午前四時。
手元のタイムシートは、もう何枚目かわからない。
俺は、自分に言い聞かせる。
苦しくない仕事なんて、本気じゃない。
定時で帰る連中は、本気じゃないから、帰れるんだ。
俺は帰らない。だから、本気だ。
よし、と思う。
筋が通った。
——いや、通ってるか?
寝てる連中、と言ったすぐあとで、帰る連中、に言い換えたのは、なんでだ。
たぶん、寝てる、だと、俺が今いちばん欲しいものを口にすることになるからだ。
眠い。
吐くほど、眠い。
でも、その違和感に気づきかけた瞬間、俺は別の理屈を、上から被せる。
今、楽になりたいって思うのは、心が弱ってるからだ。
弱った心の言うことを、聞いちゃいけない。
ここで楽な方に逃げたら、辞めることになる。
辞めるってことは、逃げるってことだ。
逃げるってことは、夢を裏切るってことだ。
好きで、始めたんじゃないか。
好きでやってるんだから、つらいなんて言うのは、贅沢だ。
好きで、やってるんで。
その一言を唱えると、不思議と、震える手が、少しだけ止まる。
お守りみたいなものだ。
効いてるのか、麻痺してるのかは、もうわからないけど。
机の隅に、栄養ドリンクの空き瓶が、三本。
四本目を開ける。
味がしない。
最近、何を飲んでも、味がしない。
燃え尽きるのを、俺はずっと、勲章だと思っていた。
◆◇
昼過ぎ、スタジオの空気が、いつもと違った。
代表の鏑木さんが、上機嫌だったからだ。
「高瀬くん、見たか。これ」
差し出されたタブレットに、業界のニュースサイトが映っていた。
うちのスタジオの、新作の宣伝記事。
目玉カットが、でかでかと載っている。
その、目玉カット。
雨に濡れたヒロインが、振り向く一瞬。
髪の一本一本に、街灯がにじむ。
俺が、描いた。
三晩、寝ないで、詰めた。
記事の、クレジット。
「総監督・鏑木怜、渾身のカット」。
俺の名前は、どこにもなかった。
「すごい反響でな。さすが俺の指示だって、みんな言ってくれてる」
鏑木さんは、自分の手柄みたいに、笑っていた。
いや、みたいに、じゃない。
自分の手柄に、していた。
俺の喉から、何か出かかった。
あれ、俺が——三晩、寝ないで——。
言わなかった。
言ったら、どうなる。
空気が、悪くなる。
手柄を横取りされたと、騒ぐ若手。
たぶん、そういう目で、見られる。
鏑木さんは、こう言うだろう。
「お前、そんなにちっぽけな男だったか」と。
だから俺は、口を閉じて、代わりに、別の理屈を、自分に配った。
総監督の名前で、世に出るなら。
それは、作品のためだ。
作品が評価されたんなら、描いた俺だって、報われたことになる。
そう、報われたんだ。間接的に。すごく、間接的に。
名前なんて、ちっぽけなものだ。
名前にこだわるやつは、二流だ。
好きで、やってるんで。
理屈を並べれば並べるほど、必死さだけが、増していった。
誰も責めてないのに、俺だけが、ずっと、自分を弁護していた。
「……ありがとうございます。光栄です」
俺は、そう言った。
声が、自分の声に、聞こえなかった。
◆◇
給料日だった。
明細を、開く。
先月と、同じ額。
先々月、鏑木さんは言った。
来月から、お前を原画に上げる。給料も上げる。期待してるぞ、と。
先月も、言った。
もうちょっとだ、もうちょっとで体制が整う。そしたら、な。
今月も、何もなかった。
原画の話も。
給料の話も。
まるで、最初から、そんな約束、なかったみたいに。
俺は、明細を、二つに折った。
催促は、しなかった。
催促する奴は、お金のために働いてると思われる。
俺は、お金のためじゃない。
好きで、やってるんで。
——その理屈で、また一つ、自分を黙らせた。
◆◇
夜、実家の母から、着信があった。
体調はどうか。ちゃんと食べてるか。仕事は、つらくないか。
俺は、明るい声を、作った。
「平気だよ。今ね、原画やってるんだ」
嘘だった。
まだ動画マンだ。原画なんて、約束だけで、何も上がってない。
「あんたの描いた絵、テレビで見られる日が来るかねえ」
母が、嬉しそうに笑う。
俺は、それに、もう一つ嘘を重ねた。
「すぐだよ。順調だから、心配しないで」
電話を切って、俺は、天井を見上げた。
退路を、また一本、焼いた気がした。
順調だと言ってしまった以上、もう、つらいとは言えない。
原画だと言ってしまった以上、もう、動画マンに戻れない。
嘘が、俺を、前に縛りつける。
前というか、ここに。
逃げ場のない、ここに。
◆◇
深夜、コンビニの帰り。
神宝町の、路地裏。
古いビルの一階に、灯りがついていた。
半分開いたシャッターの奥で、白髪の老人が、ひとり、絵を描いていた。
画材の匂いが、漏れてくる。
俺が立ち止まったのに気づいて、老人が、顔を上げた。
「アニメの人かい。よく、夜中に歩いてるね」
名乗ってもいないのに、そう言われた。
顔色で、わかるんだろう。
「ええ、まあ。動画、やってます」
「ふうん」
老人は、筆を止めずに、ぽつりと聞いた。
「あんた、いつ自分の絵、描いてるの」
俺は、答えられなかった。
毎日、絵は描いている。
何千枚も、描いている。
指の関節が、痺れるくらい、描いている。
でも、それは全部、誰かの作品の、誰かの指示の、誰かの名前になる絵だ。
俺が、いる絵じゃない。
俺が、いない絵だ。
自分の絵を、最後に描いたのは、いつだ。
学生の頃は、毎晩、描きたいものだけ、描いていた。
あの頃は、誰にも頼まれてなかったのに、勝手に、夢中だった。
思い出せなかった。
いつから、描かなくなったのか。
「……時間が、なくて」
やっと、それだけ言った。
老人は、こちらを見もせず、自分のキャンバスに、線を一本、引いた。
迷いのない線だった。
誰の指示でもない、その人だけの線。
「時間ってのはね、なくなるんじゃない。誰かに、あげちゃうんだよ」
俺は、何も返せなかった。
◆◇
スタジオへ、戻った。
午前二時。誰もいない。
俺は、また、誰かのカットを、開く。
でも、その前に。
俺は、机の引き出しから、私物のタブレットを出した。
久しぶりだった。
仕事に使うやつとは、別の。
俺の、俺だけの。
起動すると、描きかけの一枚が、出てきた。
誰の指示でもない絵。
締め切りのない絵。
クレジットも、宣伝も、関係ない絵。
ただ、俺が、描きたくて描いた、一枚。
見ているうちに、なぜだか、目の奥が、熱くなった。
ニュースサイトに載った、あの渾身のカットより、ずっと下手だ。
線も荒い。色も足りない。塗りも、途中で止まっている。
でも、見ていて、味がした。
味のしない毎日の中で、これだけが、ちゃんと、味がした。
これは、俺の絵だった。
誰の指示でもない。
誰の名前にもならない。
手柄を取られようのない、たった一つの、俺。
「……これだけは、誰にも渡さない」
俺は、そう、つぶやいた。
久しぶりに、味のする息を、吸った気がした。
タブレットを、抱くように、机に置いて。
俺は、また、誰かのカットに、向き直った。
この徹夜こそ、本気の証拠だ。
そう、もう一度、自分に言い聞かせて。
◆◇
翌朝。
机の上から、私物のタブレットが、消えていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




