第3話「家族なんだから」
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ぜひお楽しみに!
「家族」って言葉を、こんなに安く聞いた職場を、俺は他に知らない。
月曜の朝礼で、鏑木さんは言う。
締め切り前の深夜にも、言う。
誰かが辞表を出した日にも、笑って言う。
「俺たちは、家族だからな」
家族なら、給料の遅配を、許してくれる。
家族なら、休日出勤を、喜んでくれる。
家族なら、倒れても、迷惑をかけて、と謝ってくれる。
便利な言葉だ。
タダで、人の忠誠を、買える。
俺はそれを、知っている。
知っていて、まだ、ここにいる。
退路は、もう、焼いた。
前の会社を辞めるとき、啖呵を切った手前、いまさら「しんどい」とは言えない。
言えないから、笑う。
好きで、やってるんで、と。
◆◇
笠原が倒れたのは、その日の、午後三時だった。
原画の机に、突っ伏すように。
タップ音が、ひとつ、止まった。
あいつのペンが、紙の上で、止まった音。
スタジオに、二十人ぶんの作業音が鳴っているのに、なぜか、その一つの欠落だけが、耳に刺さった。
最初、寝ているのかと思った。
徹夜明けの三日目だ。
誰だって、落ちる。
俺だって、昨日、便所で十分、気を失っていた。
でも、揺すっても、起きなかった。
「笠原さん。笠原さん」
肩を叩く。
返事が、ない。
顔が、紙みたいに、白い。
俺たちが毎日、命を削って線を引いている、あの作画用紙と、同じ色。
俺の手が、先に動いた。
ポケットの、スマホ。
ロックを外す指が、腱鞘炎で、こわばっている。
「——救急車、呼びます」
画面に、指を、置いた。
その指を、止めたのは、鏑木さんの声だった。
「待て待て、高瀬」
笑っていた。
困ったような、それでいて、優しいような顔で。
「大げさにするなよ」
◆◇
「ちょっと寝てるだけだろ。徹夜明けなんだから」
鏑木さんは、笠原の机の横に、しゃがんだ。
倒れた背中を、ぽんぽん、と叩く。
起こすためじゃ、ない。
あやすみたいに。
「笠原もさあ、根性なくなったよなあ」
ため息。
でも、口元は、笑っている。
「昔の俺なんか、四日くらい寝なかったぞ。情熱があればさ、人間、案外、死なないんだよ」
情熱が、足りないだけだ。
そう、言った。
倒れて、返事もできない人間に向かって。
その人の、白い顔を、見ながら。
俺は、スマホを、握ったままだった。
画面の、緑の受話器マークが、光っている。
「呼ぶなよ」
鏑木さんが、立ち上がる。
俺の肩に、手を置く。
「救急車なんか呼んだら、笠原が、可哀想だろ。大事にされて、恥かいてさ。あいつのプライド、考えてやれよ」
優しい声だった。
優しい声で、最低なことを、言っていた。
肩に置かれた手は、あたたかい。
あたたかいのが、いちばん、たちが悪い。
◆◇
そのとき、俺の皮膚が、ざらついた。
うまく、言えない。
腕の、内側。
うなじの、あたり。
砂を、薄く、塗られたみたいに。
寒いのとも、痒いのとも、違う。
体のほうが、先に、嫌がっていた。
頭が、追いつく前に。
これは、おかしい。
絶対に、おかしい。
人が、倒れている。
顔が、白い。
なのに、誰も、救急車を呼ばない。
俺の指は、まだ、画面の上にあった。
押せば、いいだけだった。
たった、一回。
押せなかった。
ざらついた皮膚の下で、何かが、俺に、囁いていた。
——波風を、立てるな。
——家族の、恥に、なるな。
それが、俺の声なのか、誰かの声なのか。
もう、分からなかった。
◆◇
結局、笠原は、別の同僚が、車で病院へ運んだ。
こっそり、裏口から。
救急車じゃ、なく。
近所の目が、あるから。
スタジオの前に救急車が停まったら、「ブラック」だと、噂が立つから。
人ひとりの命より、噂のほうが、重いらしい。
俺は、運ぶのを、手伝わなかった。
鏑木さんに、呼ばれたからだ。
「高瀬」
代表の席。
モニターには、俺が描いた、今日のカットが、映っていた。
「お前のこの線さ、いいよなあ」
画面を、指でなぞる。
「この、手の震えてる感じ。芝居が、生きてる。お前にしか、描けない」
褒められた。
たった、それだけで。
胸の奥が、勝手に、温かくなる。
ざらついた皮膚が、すうっと、引いていく。
単純な犬だ、と、頭の片隅で、誰かが嗤う。
でも、止められない。
この人だけは、俺の線を、本当に、見てくれる。
給料は遅れる。休みはない。同僚は消える。
なのに、絵だけは、ちゃんと、見てくれる。
その一点が、鎖になって、俺の足首に、また、巻きつく。
「な、高瀬」
鏑木さんが、俺の肩を、抱いた。
「お前だけは、分かってくれるよな。俺の、やりたいこと。この会社の、夢。——家族、だからさ」
肩を抱かれると、なんで俺は、逃げる足じゃなくて、頷く首が先に動くんだろう。
「……はい」
俺は、頷いていた。
さっきの違和感が、嘘みたいに、溶けていた。
◆◇
翌朝。
社内チャットの、連絡が、来ていた。
今日のスケジュール。
各班の、担当割り。
俺は、笠原の名前を、探した。
あいつ、大丈夫だっただろうか。
何班に、戻ってくるんだろう。
探して、気づいた。
笠原の名前が、ない。
昨日まで、あったはずの、担当表。
原画・笠原、と書いてあった、その一行が。
まるごと、消えていた。
欠席、でもない。
休職、でもない。
ただ、最初から、いなかったみたいに。
俺は、過去のチャットを、遡った。
笠原が「了解です」と打った、その吹き出しすら。
誰かが、消していた。
管理権限を持っているのは、ひとりしか、いない。
俺は、それが、誰かを、知っている。
知っていて、何も、言わない。
名前が、消える。
倒れた人間の、名前が。
一晩で。
ぞわり、と、また、皮膚が鳴った。
◆◇
昼休み。
俺は、外に出た。
神宝町の、路地裏。
日の当たらない、自販機の前。
ポケットの中で、それを、握った。
白い、名刺。
「慈恩 気づかせ屋」。
あの、老画家が、くれたやつだ。
電話番号だけが、刷ってある。
かければ、いいのか。
かけて、何を、言えばいいのか。
うちの会社、家族なんです。
でも、家族の名前が、消えるんです。
それって、おかしいですよね。
——好きで、やってるんで。
言い慣れた台詞が、勝手に、頭に浮かぶ。
誰に対する盾なのか、もう、分からない。
俺は、名刺を、握ったまま、かけなかった。
ポケットに、戻した。
まだ、だ。
まだ、俺は、家族を、裏切れない。
◆◇
その夜だった。
スマホが、震えた。
知らない番号。
でも、メッセージの、主の名前は、知っていた。
笠原だった。
病院から、別のスマホで、送ってきたらしい。
短い、一行。
『高瀬、君も早く逃げな』
俺は、それを、何度も、読んだ。
画面の明かりが、暗い部屋で、やけに白い。
逃げな。
逃げな、って。
倒れて、名前まで消された人間が。
最後に俺に、それだけを、送ってきた。
自分の心配じゃ、なく。
既読を、つけた。
つけた、その瞬間だった。
社内チャットに、通知が、灯った。
鏑木さんの、吹き出し。
『明日、徹夜できる人ー?(笑)』
(笑)。
人の名前が、消えた、次の日に。
(笑)。
俺の指は、もう、動いていた。
『はい、いけます』
打ってから、気づいた。
考える前に、打っていた。
頷く首と、同じだった。
送信。
吹き出しが、画面の、右側に、並ぶ。
その俺の文字を、見つめていたら。
手の震えが、止まらなく、なった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




