第2話「無償の、残業」
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タイムカードは、とっくに、嘘をつくのをやめた。
打刻機は、もう、壊れている。
いや。壊れていることに、誰も、しているのかもしれない。
定時は、十八時。
いま、深夜の一時。
俺の右手首は、朝から、じくじくと、熱を持っている。
動画机のうえ。
液晶タブレットの白が、目に、刺さる。
ペンを、握る。
握ったつもりで、握れていない。
線を、一本。
引こうとして、線が、震えた。
原画の上に、ふにゃりと、寄った。
力の入らない、芋虫みたいな線。
俺は、それを、消した。
もう一度、引く。
また、震える。
腱鞘炎、というやつだ。
病院には、行っていない。
行く時間が、ないから。
手首に、湿布。
その上から、サポーター。
その下で、骨が、軋んでいる。
ペンを、置く。
右手を、左手で、握る。
指を、一本ずつ、折りたたんで、また、開く。
動かない。
冷たい。
俺の手なのに、俺の言うことを、きかない。
モニターの右下に、時刻。
その横に、あと何カット、と書いた、付箋。
数字は、減らない。
夜だけが、減っていく。
やりがいは、給料じゃない。
なのに、やりがいで腹は減る。
……うまいこと、言ったつもりか、俺は。
◆◇
深夜二時。
「じゃあ、これから、勉強会、やりまーす」
鏑木さんの声が、フロアに、降ってきた。
総監督、自称。
灰色のパーカー。
手には、缶コーヒー。
勉強会、という名前が、ついている。
給料は、つかない。
「来れる人だけで、いいからね」
来れる人だけ。
そう言って、鏑木さんは、フロアを、ゆっくり、見回す。
誰が、椅子を立つか。
誰が、立たないか。
その目が、数えている。
誰も、すぐには、立たない。
みんな、手元を、いじっている。
原画を、めくるふり。
ペンを、置くふり。
でも、耳だけは、隣を、うかがっている。
誰かが、立つのを、待っている。
最初に立つのは、いつも、損だ。
最後まで立たないのは、もっと、損だ。
俺は、椅子を、立った。
立たない、という選択肢の前に、もう、立っていた。
立ったあと、フロアの椅子が、つぎつぎ、鳴った。
ぎっ、ぎっ、と。
一人が立てば、安心して、みんな立つ。
その一人に、なってやった。
偉い、わけじゃない。
ただ、怖かっただけだ。
立たない人間が、どういう顔で、明日ここにいるか。
長いあいだ、見てきた。
遠野さんが、辞めたときの、空気を。
ロッカーから、名前が、剥がされたときの。
◆◇
勉強会は、三時間、続いた。
鏑木さんの、昔の話。
業界の、未来の話。
「本気で、いい絵を、作る覚悟」の話。
覚悟。
その言葉を、何回、聞いただろう。
覚悟は、タダだ。
タダだから、いくらでも、配れる。
俺たちは、相槌を打つ。
手首を、さすりながら。
味のしない、栄養ドリンクを、飲みながら。
あの琥珀色の液体は、もう、味がしない。
甘いはずなのに。
舌が、燃えカスみたいに、何も、感じない。
◆◇
明け方、四時半。
帰り支度をしていて、スマホが、光った。
留守電が、一件。
着信は、三日前。
母さん、だった。
俺は、画面を、見つめた。
再生ボタンを、押すのに、たっぷり、間があった。
『……もしもし、充? 元気にしてる?』
母さんの声は、いつもの、母さんの声だった。
『あのね、お父さんがね、言ってたんだけど』
間。
『……充がね、もし、疲れちゃったら。ちゃんとした仕事に、いつでも、戻ってきていいんだからね』
ちゃんとした仕事。
その四文字が、耳の奥で、ことり、と落ちた。
『……無理しないでね。じゃあ』
ぷつ、と切れた。
俺は、しばらく、動かなかった。
俺の仕事は、ちゃんとしてない、ってことか。
好きで、やってるんで。
誰もいないフロアで、俺は、その口癖を、口の中で、転がした。
盾みたいに。
誰に、向けたわけでもないのに。
そして、留守電を、消した。
削除、を、押す指は、震えなかった。
線が引けない、はずの、この手で。
◆◇
翌朝。
いや、もう、同じ日の、昼。
ビルの前に、見慣れない車が、停まっていた。
白い、新車。
ナンバープレートに、まだ、仮の枠。
タイヤの溝が、新しい。
「いいだろ、これ」
鏑木さんが、誇らしげに、ボンネットを、撫でた。
「支援者のみんなの、おかげだよ」
支援者。
クラウドファンディング。
「この作品を、完成させたい」。
そのために、集まった、金。
その金で、買った車を、いま、撫でている。
俺は、何も、言わなかった。
言えなかった、が、正しい。
神宝町への、納品の交通費。
俺は、いつも、自分の財布から、出している。
「立て替えといて」と、言われたまま、半年。
領収書は、引き出しの奥で、黄ばんでいる。
いつか、まとめて、精算してもらう。
そう思って、ためている。
ためた領収書は、もう、輪ゴムで、一束だ。
その束が、厚くなるほど、言い出しにくくなる。
言えない金額に、なってから、言えなくなる。
よく、できてる。
ピカピカの、白いボンネット。
黄ばんだ、領収書。
その二つを、頭の中で、並べる。
並べただけで、やめた。
並べると、何か、わかってしまいそうで。
◆◇
その足で、俺は、神宝町へ、向かった。
背景の、外注先。
老画家の、一人スタジオへ、納品に。
電車を、降りる。
神宝町は、しずかだった。
古書店の、軒先。
木造の、喫茶店。
すすけた看板の、文字が、かすれている。
ここだけ、時間が、止まっている。
歩くたびに、靴の音が、聞こえた。
久しぶりに、自分の足音を、聞いた気がした。
息を、吸う。
吸えた。
スタジオでは、いつも、息を、止めている。
止めていることに、気づくのは、いつも、こういう、しずかな場所だ。
路地の奥で、誰かが、茶を、淹れている匂いがした。
喫茶店の窓に、客が、ひとり。
文庫本を、めくっている。
ただ、めくっている。
締め切りも、覚悟も、ない顔で。
その顔を、俺は、すこし、長く、見てしまった。
◆◇
老画家の、スタジオは、二階にあった。
木の階段。
絵の具の、匂い。
戸を、開ける。
白髪の、小柄な人だった。
窓辺の机で、ひとり、筆を、洗っていた。
「納品です。スタジオ・ヒノモトの、高瀬です」
「ああ。ご苦労さん」
老画家は、データの入ったメモリを、受け取った。
それから、俺の顔を、じっと、見た。
眼鏡の奥の目が、ゆっくり、細くなる。
「……あんた」
「はい」
「顔色が、燃えカスみたいだよ」
燃えカス。
俺は、笑おうとした。
うまく、笑えなかった。
「徹夜、続きで。でも、好きで、やってるんで」
好きで、やってるんで。
その盾を、また、出した。
いちばん、効く相手は、たぶん、俺自身だ。
老画家は、それに、何も、返さなかった。
ただ、机の隅に、目を、落とした。
そこに、白い、名刺が、一枚。
老画家は、それを、指で、つまんで。
何も、言わずに。
こちらへ、すうっと、滑らせた。
◆◇
白い、名刺。
「慈恩 気づかせ屋」。
電話番号だけ。
住所は、ない。
なんだ、これ。
「いや、俺、別に、病んでないし」
俺は、笑った。
その笑いが、窓ガラスに、映った。
ガラスの中の、俺の笑いは——燃えカスみたいに、白かった。
名刺を、突き返そうとした。
返せなかった。
俺は、それを、ポケットに、入れた。
なんで、入れたのか。
自分でも、わからないまま。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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